結局、ホラー映画のラストシーンは観ていない。赤葦も観なかったみたいで「また観直さないとね」と言われたけど、もう二度と観るものか。怖すぎる。そう拗ねたらけらけらと笑っていた。
 もう終わったし、別にくっついていなくても平気。そう思って赤葦から離れようとしたら、しっかり腕に閉じ込められていた。「もういい、暑い、離れる」と言っても笑って離してくれない。「はい、次は俺のおすすめね」と勝手に映画を再生しはじめた。かわいい系とか言っていたはず。アニメだろうか。そう思っていると、画面にたくさんの犬が見えた。

「まさかの動物もの」
「これ、高校のときの部活の先輩が大号泣してたんだよね。だからも泣くかなって」
「実験的チョイス」

 もう腕から逃げることは諦めた。開き直って赤葦の首元に頭を預ける。犬の保護活動をしている女の人が主人公らしい。犬たちは犬同士では言葉でやり取りができ、主人公のことが大好きだからいろんなことを助けようとするストーリーのようだ。確かにかわいい系に間違いはない。結構好きかも。そう思いつつ、ぼうっとした頭のまま映画を観る。
 赤葦がわたしの頭にこつんと顎を乗せた。なんか、バカップルみたいじゃない? 今までの元カレでこんな感じの人いなかったなあ。一緒にいるとどんどん息苦しくなってきて、なんだかいつもしんどかったっけ。そんなことを思い出したら、思わず赤葦の服をきゅっと握ってしまった。


「うん?」
「もう一回していい?」

 ぴくっと指先が動いた。もう一回、していい。主語がなかった。それでも何のことかは分かる。さすがに、大人なので。黙っているわたしの頬を赤葦がちょんちょんと指でつつく。くすぐったい。そう顔を上げると、また目が合った。
 もう一回。さっきのキスを思い出して心臓がどきっと飛び跳ねた。あれをもう一回? 心臓がどんどん早く鼓動を打ち、体が熱くなってくる。黙ったままのわたしを見つめた赤葦が「どっち?」と優しく笑って、そっと頬を撫でた。

「……きょ、今日は、あの、もう、終わりで」
「嫌だった? ごめん」
「いや、あの、そうじゃなく、て、うん、嫌じゃない、嫌じゃないんだけど」
「いいよ、無理しないで。ごめんね」
「ち、違うんだってば。恥ずかしいの! とんでもなく! なんか分かんないけど!」

 ぺしんと赤葦の顔を叩いてしまった。見つめるな。恥ずかしいから。馬鹿。そんなふうに一人でわあわあ言ってしまう。こんなふうになったのははじめてでどうすればいいのか分からない。なんだろう、これは。そう目をぱちくりしてしまった。
 赤葦は頭をクッションに預けて「あ〜」と唸りながら笑った。わたしから手を離すと、大の字に寝転ぶように両手を広げる。だらんとクッションやら床やらに腕を放り投げて「困る」と呟いた。

「かわいいんですけど、俺の彼女が」
「あーもう! またそういうこと言う! やめてってば!」
「それこっちの台詞」

 顔を上げた赤葦が一つ息を吐いて「分かった。今日はもうしないから、またいいときは教えてください」とふにゃふにゃの顔で笑う。笑うな。変な顔もするな。馬鹿。ぺしぺし赤葦の肩を叩きながらそっぽを向いてやる。映画観る。もう赤葦のことは見ない。そう宣言しておいた。

「赤葦京治くん、わたしは怒っています」
「怒ってるにしてはかわいい顔してるけど?」
「怒っています」
「えー、なんで」

 そのふにゃふにゃした声を出すな。やめろ。馬鹿。ぺしんと脚を叩いてやると赤葦は「はいはい。ごめんごめん」と子どもを宥めるようにわたしの頭を撫でた。むかつく。なんなの。

「一人で帰るのも怖いし部屋に一人になるのも怖いから何を言われようとも泊まっていきます」
「はいはい、ご自由にどうぞ」
「赤葦コンビニ」
「はいはい」

 笑いながら家の鍵とスマホを手に取った。映画は帰ってから観返そうと言って一旦テレビの電源を切る。わたしも立ち上がる。赤葦は部屋の電気は付けたままにしてリビングから出ると玄関に向かって歩いて行く。その背中についていき、二人で靴を履いて外へ出た。





▽ ▲ ▽ ▲ ▽






「頭皮マッサージってこんなに気持ちいいんだ〜知らなかった〜」

 赤葦の強くも弱くもない絶妙な力加減。それにうっとりしていると赤葦が小さく笑った。「機嫌が直ってよかった」と言って、最後に髪を手ぐしでといてくれる。それも気持ちいい。赤葦、マッサージ師の才能があるんじゃないのかなあ。そう息をつく。あー、気持ちいい。これまでの仕事でのストレスが溶けていくようにさえ思える。何度か自分でオイルマッサージを予約して行ったこともあるけど、そんなの比じゃないくらいだ。頭皮マッサージは美容院でしかしてもらったことがないけど、プロにしてもらったらこんな感じになるのかなあ。素直にそう言ったら「じゃあ専用マッサージ師になろうかな」と面白そうに笑った。
 赤葦おすすめの映画は二人ともがお風呂からあがってから観直した。赤葦が思った通りはわたしは大号泣して目が赤くなっている。赤葦が目を冷やしたりこうしてマッサージしてくれたりと甲斐甲斐しく世話をしてくれているのはそういうわけだ。

「赤葦さ〜」
「何?」
「なんでわたしと付き合おうと思ったの?」

 髪をきれいに整えてくれてから、赤葦がわたしの隣に腰を下ろした。「え、言ったはずだけど?」と首を傾げる。

「気が合う。一緒にいて楽しい。女の子としてかわいい。これから先も一緒にいたい。他にもたくさんあるけど、あとはもう他の男に傷つけられるところを見たくないって」
「……でもわたし、面倒でしょ? 男の人からしたらえっちできないんだから面白くないだろうし」
「俺のこと怒らせようとしてる?」
「これっぽっちも」

 今までの元カレがみんなそうであったように、男の人は体の関係ありきで彼女を作るものだとわたしは理解している。性欲を向ける先が女性である男の人はみんなそうだ。彼女がいるからセックスがしたい。セックスをしたいから彼女がほしい。そういう思考をしているのは変なことじゃない。だから、赤葦だってそうだと思うの、だけど。

「俺だって男だから、もちろん好きな子とそういうことがしたいとは思うよ」
「そうでしょ? じゃあなんでわたしと付き合うの? 好きじゃないからえっちしなくても平気っていうのはあるだろうけど」
「え?」
「え?」
「好きだよ、のこと。だから彼氏にしてって言ったんだよ」

 何言ってんの、と言いたげな顔をされた。それにわたしも「え、言われてないけど……」と首を傾げて返しておく。赤葦としばらく顔を見合って黙りこくる。カチカチと時計の秒針が進む音だけが響き、お互いにまぬけな顔をして三十秒が経過した。

「え、彼女できないし出会いもないから、わたしを彼女にしたら効率がいいからじゃないの?」
「はあ〜……」
「ため息ついた?!」
「まあ、確かに言葉にはしなかったかも……」
「え? え? どういうこと?」

 そっと右手を両手で握られた。大きな手で包み込まれた右手がぼんやりと温かくなる。赤葦の体温はなんだか落ち着く。匂いも、声も、視線も、何もかも。親友だと思っていたからだろうか。よく、分からないままだ。
 はてなを飛ばしているわたしの顔を覗き込んで、赤葦がどこか寂しげに笑った。どうしてそんな顔をするんだろう。何も言えずに赤葦の手を握り返すと「あのさ」と諦めたような声で言った。

「好きだよ、ずっと。高校生のときから」
「……え?」
「女の子としてのことがずっと、好きなんだ。ごめん」

 赤葦はずっとわたしの相談相手だった。好きな人のことや彼氏のことは全部赤葦に話したし、別れたあとの何とも言えない喪失感も赤葦が全部そばにいてくれたから乗り越えられた。体を求められたら相手を気持ち悪くなってしまう悩みも赤葦にしか話していない。無理やりされたという話も赤葦にしかしたことがない。でも、それが正直怖かったことは、赤葦にも話していない。

「好きだって言ったら下心がある他の男と一緒になると思って、無意識に言えなかったのかも。食い違いがあったならごめん」

 ぱっと手を離された。「ごめん」と寂しそうな顔をして言う赤葦の顔を呆然と見つめてしまう。
 赤葦が、わたしを好き? そんな馬鹿な。だって今までそんな感じ、これっぽっちも出さなかった。気付かなかった。分からなかった。友達で相談相手で親友で、唯一の存在。わたしにとっての赤葦がそうであったように、赤葦にとってのわたしもそうだと思っていた。だから、付き合ってもうまくいくと思ってくれたのだろうと、解釈していた。その通りわたしたちの交際ははじまったばかりではあるけど順調だった。これまで通り何も変わらず、関係の名前が変わっただけ。何一つ不自由もなければ違和感もない。これまでの生活に何一つ波は立たず、これからもずっと凪いだ海が続いていく。そうわたしは感じていた。

「信じてほしいのは、俺は確かにのことが好きで、正直自然とそういう目で見てしまうけど、好きだから好きな子が嫌がることは絶対したくないし、絶対するつもりはなかった。そういうことがしたくて彼女になってほしかったわけじゃない。好きだからこれからもずっと、一緒にいたくて彼女になってほしかっただけ」

 はにかんだ。照れる、といつものようにおどけて言ってから一つ間を開ける。そうして、「気持ち悪いかな」と言ってわたしから目を逸らした。目を逸らしたまま「ごめん」ともう一度呟く。それからぱっとわたしのほうに視線を戻すと、いつも通りの顔で「何か飲む?」と言った。

「え、あ、うん」
「コーヒーでいい? それかお茶なら出せるけど」
「あの、赤葦」
「うん?」
「……えっと、その、な、なんか、勝手に、終わらせてませんか、ね」

 赤葦の目が丸くなった。びっくりしているというのがとてもよく伝わってくる。そんな顔、はじめて見たよ。ちょっと笑ってしまった。

「まだ、なんというか……うん、あの、こ、このままが、いいなあって、思って、いるんですが」
「……本当? のこと好きでもいいの?」
「な、なんか、いいみたい、です」

 そうっと視線を外す。赤葦は「本当に?」とわたしの顔を覗き込みつつまた聞いてくる。それに頷いて答えると、赤葦がさっきまでみたいにふにゃふにゃの顔に戻った。

「どうしよう」
「な、何が」
「泣くかも」
「さすがに泣かないで?!」

 そのままソファの背もたれに体を静めて、赤葦はしばらく、一人でちょっと不気味に笑っていた。気持ち悪いけど、なんか、かわいい気持ち悪さだった。


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