赤葦が住んでいるマンションのインターフォンを押す。すぐに出てくれた赤葦がオートロックを解除してくれたので中へ入り、もうすでにどこに何があるかは分かっているので迷うことなく赤葦の部屋までたどり着いた。

「お疲れ。ごめん、迎えに行けなくて」
「いやいや、なんでよ。迎えなんかいいって」

 朝は仕事の電話でばたついていたらしい。もう落ち着いたから大丈夫、とは言われたけど赤葦の休日をわたしが埋めてしまっているような感じがして少し申し訳ない気持ちになった。
 部屋に入れてもらうと、かすかにあの匂いがする。もしや、これは。そう赤葦の顔を見ると「準備しておきましたよ、ホームズ先生」とグランピングのときのノリをここでも発揮した。

「ポップコーンじゃん……!」
「昨日買っておいた。試しに自分で作ってみたけどなかなかいけるよ。残りは一緒に作って」
「最高! さすが赤葦京治!」

 高校時代もかなり気が利く人だったけど、まさかここまでとは。鞄をいつもの定位置に置かせてもらってからキッチンを覗いてみると、よくスーパーで売られているタイプのポップコーンがたくさん置かれていた。レンジでチンするだけのものからフライパンでやるもの。数種類用意しておいてくれたらしい。

「ちなみにわたしはコーラを持ってきました」
「アメリカじゃん。最高」
「映画と言えばコーラでしょ。これは外せないね」

 どん、と2Lのペットボトルをポップコーンの隣に置く。赤葦は楽しげに笑って「細かい氷買っとけばよかった」と言った。じゃあ氷砕こうよ。そう言えば意気揚々と冷凍庫の氷を出していた。ちなみにお口直しのお茶もございます。同じく2Lのお茶のペットボトルも並べておくと、赤葦は紙コップを出してくれた。いいね。普通のコップじゃなくて紙コップ。さすが赤葦、よく分かっている。カラフルなストローまで出てくるものだから大笑いしてしまった。
 諸々の準備をわいわいと賑やかにして、両手一杯の映画セットを持ってソファへ行く。まずはわたしが選んだホラー映画を観ることになったので、赤葦が遮光一級と思われるカーテンをしっかりと閉める。部屋の電気も消してしまうと真っ暗になった。

「ちょっと普通に怖いんだけど。どうしよう、泣いちゃうかも」
「ホラー苦手なのになんで選んじゃったの」
容疑者はどうしても観たかったなどと供述しており……」
「書類送検からかな」

 笑いながら赤葦がテレビのリモコンを渡してくれる。動画配信サービスが内臓されているらしく、操作方法を教わりながら映画を検索する。探している映画のタイトルを言うと赤葦が「しかも和製ホラー」と笑った。

「赤葦の腕引きちぎったらごめんね」
「いいよ、もういくらでも引きちぎって。覚悟は決めた」
「赤葦かっこいい〜」

 笑いつつ再生ボタンを押す。この映画は去年の夏にとんでもなく怖いと話題になったものだ。怖い物見たさで興味はあったけれど、一人で行くのは絶対無理だし映画館で無様に泣き叫ぶのも嫌だった。こうして家で観られるまで我慢していたのだ。もちろん赤葦を誘うつもりで。
 赤葦が貸してくれたクッションを膝に置き、両腕でがっちり赤葦の左腕を抱えておく。「早くない?」と笑われたけどこういうのは早いに越したことはない。嫌がられない限りは離しません。そう宣言しておいた。

「赤葦はホラーとか平気だもんね。全然怖くないの?」
「怖いというよりはどこで脅かしにくるのかに興味がある」
「イレギュラーな楽しみ方してるよこの人……」

 とある無名の小説家の青年が主人公となっている。演じているのは人気俳優。普段はイケメン俳優としてかっこいい役を演じることが多いのだけど、この映画に於いては冴えない眼鏡をかけ髪をぼさぼさにし、数キロ体重を落とした姿で出演している。亡くなった祖父母の家で見つけた古びた小説が重要なアイテムとなっており、その小説に書かれた怪現象を追ってどんどん恐怖に溺れていくというものだ。映像が常に薄暗くされており、幽霊の描写も恐ろしくありつつも現実にいてもおかしくないものになっている。日常に溶け込んでおり、一度観たらしばらくは頭から離れないと話題になっていた。
 主人公が祖父母の訃報を聞き、その家にやって来たところまで話が進んでいる。かなり古い一軒家も不気味だし、俳優の演技力も相まって普通にかなり怖い。祖父母が昔に犯したとある罪の話になり、いよいよホラー映画らしい展開を迎えそうだ。思わず赤葦の腕をぎゅっとしてしまう。怖い。もうすでに怖い。そんなふうに恐る恐る画面を見つめていると、赤葦がくすりと笑った声が聞こえた。

「ちょっと。笑うのは失礼じゃないですか」
「いや、だってめちゃくちゃ怖がってるから。まだ何も起こってないのに」
「怖いものは怖いの! 笑うな!」
「無茶なこと言ってくる、この人」

 赤葦が「一瞬だけ離して。いいこと考えたから」と言う。なんで。離さないですけど。そう目で訴えかけるけど「後悔させませんので」と言われたら仕方がない。そっと腕を離すと、赤葦がソファから立ち上がってリビングの端へ歩いて行く。何をするのかと思いきや、大きいクッションを持ってきた。座った体勢に合った形になる少し固めのやつだ。テーブルの位置を少し変えてクッションをソファのすぐ近く、テレビの前に置くと体を預けるように座った。テレビが観やすそうな角度だ。いいな。そう思って見ていると「はい、どうぞ」と言われた。

「どうぞ?」
「ソファであの体勢だと腰が痛くなるから。俺の前に座って」
「なるほど!」

 ソファから立ち上がってクッションの近くにしゃがむ。赤葦の前に座るとなると、完全に体を預けちゃうけどいいのかな。重たくないだろうか。そう確認を取ると「重くないよ」と笑われた。わたしのこと抱えたことないくせに。簡単に言ってくれる。そんなふうに思いつつ、赤葦の前に移動してそっと腰を下ろした。赤葦の脚の間に座っている形だ。そうして自然に背中が赤葦に預けることになり、赤葦の手がまるでジェットコースターの安全装置みたいにお腹の前にやってきた。

「あ、いいかも」
「楽でしょ」
「うん。でも前を遮るものがないんですが」
「映画の必需品みたいに言うけど、本来いらないからね?」

 それは各々どうにかしてください、と笑って言われたので、手を伸ばしてソファに残したクッションを手に取る。よし、これでどうにか観られそうだ。満足しつつすぐ横にあるテーブルのポップコーンを食べた。
 なんか、恋人っぽくない? 一人でそう内心呟く。これまでにも赤葦の家で映画を観たりゲームをしたりしたけど、こんな感じにはもちろんなったことがない。くっついてもそれなりの距離感を保っていたというか。遠慮なく体をくっつけるのははじめてだ。今更そう意識してしまった。
 意識してしまうと、映画よりも赤葦の体温が気になって仕方がない。これまでの元カレではなかったことで、少し困惑してしまう。なんだろう、このどきどきする感じ。これまでの元カレにもどきどきはしたけどちょっと違うというか。どう違うのかは説明が難しい。困ってしまう。
 まあ、それも一瞬のことだった。突然現れた女の子の幽霊に叫び声をあげると、赤葦が後ろでけらけら笑う。「ここで脅かすと人ってびっくりするんだ」となんとも冷静な感想を述べながら「はい、お化けいなくなったよ」とクッションで顔を隠しているわたしに教えてくれた。恐る恐るクッションを退けたその瞬間、また別の幽霊が画面いっぱいに現れる。それにまた叫び声をあげながら、ぐるりと体を動かして赤葦にしがみつくと大笑いされてしまった。

「無理かも、赤葦実況して」
「今主人公がお化けの存在に気付いて走って森に逃げ込んでる」
「なんで森なの? 絶対森なんかだめに決まってるよね?!」
「あ、小説落とした。追いつかれそう」
「馬鹿じゃないの?!」

 わーわー騒いでいると赤葦が「お化けに脚を触られた」と実況しながらわたしの脚を自分の脚でちょんと触った。怖がらせにきてるじゃん! そうしがみつきつつ喚くと「だってホラー映画だし」とけろっとした様子で言う。

「あ、水中に引きずり込まれた」
「もう! 何?! 突然の水中!!」

 赤葦がわたしを抱え込みながら大笑いした。クッションはもう手元にない。ぎゅうぎゅう赤葦に抱きついてわんわん喚いているだけになった無様な姿はよほど面白いことだろう。そうぶすくれながら怖がっていると「無様なんて言ってない」とおかしそうに笑った。嘘吐き、絶対思ったくせに。そうぽかぽか叩いてやりながら顔を上げると、は、と呼吸が止まった。顔が近い。不意に目が合って、つい言葉が途切れてしまった。
 赤葦の瞳が二度瞬きをした。それからほんの少しだけ優しい眼差しに変わる。指先がそれに反応したのが分かった。男の人の眼差し。それにどきっと心臓が跳ねる。なんか、やっぱりこれまでの男の人とはちょっと違う。少し照れくさいというか、思わず目を背けてしまいそうになるというか。そういうどきどきだ。
 テレビのほうからとんでもない音量の叫び声が聞こえてきて、体がびくっと震えた。思わずテレビに向けようとした顔は、赤葦の手に遮られた。頬に手を当てられてぐいっと向きを戻される。言葉を出す前に、唇が重なった。じんわり温かいそれが怖くて強張っていた体を溶かすように広がる。そうして、テレビから聞こえる男の叫び声が止んでから、唇がそっと離れた。

「……なんか、大事なシーンだったみたいなんですけど」
「いや、そうでもないよ。主人公が水中から這いずりだしてからまた追いかけられてるだけ」
「怖すぎるんですけど……」

 優しく笑った赤葦が、わたしの髪をそっと撫でた。それから密やかな声で「嫌じゃなかった? 大丈夫?」と聞いてくる。それ、する前に聞くよね。普通は。そう拗ねていると「キスは大丈夫だったって言ってたから」とわたしの頬を指でするりと撫でた。
 嫌じゃなかった。でも、こんなに優しいキスをされたのははじめてで、なんというかびっくりしてしまった。こんなに甘ったるいキスをされるなんて、思いもしなかったというか。本当に小っ恥ずかしいことを言う。覚悟をして言う。まさか、こんなに愛を紡ぐようなキスを、自分がされるなんて、思わなかったのだ。それも、赤葦から。

「顔真っ赤だけど大丈夫?」
「……むかつく」
「最高の褒め言葉かも、それ」

 またしてもとんでもない叫び声がテレビから聞こえてきて、反射で赤葦の腕を掴んだ。それにおかしそうに笑って「今日ずっとかわいすぎるんですけど、彼女さん」と茶化された。本当、むかつく。なんだこの彼氏。


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