はっと目が覚めたとき、まだ時計の針は早朝五時を指していた。チェックアウトは午前十時。まだ五時間もある。朝食のセットは七時に準備ができるらしいので、それまではまた眠るか時間を潰すかのどちらかになりそうだ。そう体を伸ばしながら上半身を起こすと、隣にいるはずの赤葦がいないことに気が付いた。お手洗いに行ったのだろうか。不思議に思いつつ首を回す。
 顔を洗おうとベッドから下りると同時に、テントの出入り口が開いた。「あ」と赤葦の声が聞こえてから「おはよう」と顔が見えた。わたしも「おはよう」と返す。赤葦はテントに入りながら「コーヒー淹れるけど飲む?」とコーヒーセットを見せてくれる。この人、ほいほいオプションを追加するな。そう笑いながら「飲みたい」と返しておいた。
 早朝の空はまだぼんやりとしか太陽の光が見えず、まだ夜の余韻がある。静かな空に鳥の鳴き声が響き、風に揺れる木々の音が心地よい。うーん、六万円の価値あり。そんなふうにほっと息をついた。
 テントから出てすぐにある水道で顔を洗い、歯を磨いた。その間に赤葦がコーヒーを淹れてくれている。贅沢な朝だ。もう五時間後には東京に帰ることになるとは思えない。そう思うとほんの少しだけげんなりしてしまった。
 朝の支度を済ませてからテント内に戻る。コーヒーのいい香りが広がっていて、これまた朝を彩っている。テントについている間接照明を付けただけの薄暗い中で、赤葦が座っている一人がけソファの隣にある同じソファに腰を下ろした。いつも朝はコーヒーを飲んでいるの。そう聞けば赤葦は「大体そうだね」と教えてくれた。こんなにずっと一緒にいて仲が良いのに、わたしはそのことを知らなかった。なんだかそれが不思議だったけど、男友達が朝をどう過ごしているかなんて女友達が知るわけがない。関係が変わったから知ることができたことなのだろう。そうぼんやり思った。

「あ、俺彼氏です。覚えてます」
「何その宣言」
「だってすごく疑ってたから。酔ってる酔ってるって言ってたし」
「まだあんまり実感ないよね。赤葦が彼氏かあ」
「そう? 俺は結構実感あるけど?」
「早くない?」
「順応性が高い男なので」

 にこにこしている。その機嫌の良い雰囲気はあまり見たことがないタイプのもので、首を傾げてしまう。何かいいことでもあったのだろうか。まあ、いいことがあるないに限らず、この自然の中で穏やかな時間を過ごせばこうなるのかもしれない。赤葦も仕事で相当ストレスを抱えているし、誘ってみて正解だった。そうこっそり思った。
 コーヒーをマグカップに注いでくれる。「どうぞ」とわたしに手渡してくれた。それを受け取って香りを嗅いでから一口。おいしい。ぽつりと呟いたわたしの言葉に赤葦が「よかった」と嬉しそうに言った。
 赤葦も同じようにコーヒーを一口飲むと「朝食のあとは片付けして、そのまま家に送ればいい?」と確認してくる。家まで送ってくれるんですか。なんてお優しい。そんなふうに笑ったら「家に送るくらい普通でしょ」と笑われた。これが普通じゃないんだよなあ。元カレの何人かは駅でバイバイが当たり前だったし、車でも「家と逆方向だからここで降りて」と言う人もいた。別に優しくないわけじゃなくて、それが普通の感覚なのだろうと思う。そう元カレの顔を思い浮かべながら話していると、ふと赤葦が黙っていることに気付いた。

「え、何。どうしたの」
「元カレのことを思い出してるな、と思ってるだけ」
「思い出してるけど……え、嫌?」
「嫌って言うか、まあ、嫌かな」
「嫌なんかい。何何、やきもち? かわいいとこあるじゃん赤葦京治」
「かわいいでしょ。だからちゃんとかわいがって」

 けらけら笑うとマグカップを机に置いた。それからそっと右手をわたしのほうへ伸ばすと「ちょっと触ってみて」と言われた。よく分からないままわたしもマグカップを置いてから、左手で赤葦の右手を触ってみる。触ったけど、何? そんなふうな視線を向けると、赤葦の右手がきゅっとわたしの左手を握った。

「嫌じゃない? 大丈夫?」
「え、う、うん。大丈夫だけど……?」
「ならよかった」

 あ、触られてもわたしが嫌じゃないか確認してくれたのか。手を触られて嫌な相手だとお付き合いできないしね。未だにきゅっと握られたままの手に視線を向ける。赤葦の手、大きいな。これまでこんなふうに握られたことがないから知らなかった。手相を見たり出し過ぎたハンドクリームを分けたりはしたことがあるけど。骨っぽくて大きい、男の人の手だ。そうまぬけに思った。
 そっと手が離れて「じゃあ、今後もよろしく」と言われたので「あ、はい。こちらこそ」と軽く会釈をする。なんかちょっと照れくさい気がする。目を逸らしつつ一つ咳払いをしたら笑われてしまった。

「俺の彼女がかわいい」
「ちょっとやめて、そのノリまだちょっとあれなんだけど」
「かわいいかわいい」
「オイコラ彼氏、彼女が嫌がってるぞ」

 赤葦の頭を軽く叩いてやる。「はいはいごめんごめん」と言いつつも、赤葦はしばらく笑っていた。なんか余裕でムカつくな。そのうち何かでぎゃふんと言わせてやる。そう心に誓った。
 コーヒーを飲んだら目も覚めた。二度寝をしようかと思っていたけどやめておく。少し歩いてこようかな。そう言ったら「じゃあ俺も行く」と赤葦が言ってくれたので、コーヒーを飲み終わったら外を歩くことにした。点々とグランピングテントがある先に池や小さな花畑がある散歩道みたいなところがあるのだ。
 ゆっくりとコーヒーを飲み終えてから、二人そろって伸びをして立ち上がる。そうしてテントの外へ出ると、もう明るい空が広がっている。気持ちがいい朝だ。風は生ぬるいけれど、気温はまだ上がりきっていない。暑くなる前に行こう、と二人で歩き始めた。
 外にはちらほらと人の姿がある。持ち込んだものを食べている人もいれば、テントの外でぼうっとしている人もいる。わたしたちのように歩いている人もたくさんいて、なんだかのどかな雰囲気だ。歩きながら深呼吸をすると、赤葦も真似をするように深呼吸した。気持ちいいね。空を見上げながらそう言うと、穏やかな声で「うん」とだけ返ってくる。これがとても心地よい。赤葦の隣は、息がしやすい。そう救われた気持ちになった。
 散歩道はまだ誰もいない貸し切り状態だ。綺麗にされている小道には小さな草花が点々と呼吸をしていて、少し視線を上げれば木々のざわめきが目に見える。視界のすべてが自然に囲まれている景色は、正しく心が洗われる、というやつだ。
 空を見上げながら歩いていると、足下への注意が疎かになってしまった。少し大きめの石を踏ん付けてしまい、ぐらりと体が傾いた。「わ」と思わず声が出たと同時に、腰の辺りをしっかり支えられる。赤葦だ。思わず赤葦の腕を両手で掴んでしまった。「大丈夫?」と顔を覗き込まれる。

「ごめん、下見てなかった。ありがと」
「ずっとぼーっとしてるから危ないなーって見ててよかった」
「子ども扱いしてない?」
「いや? 彼女扱いはしてるけど」
「だから! もう!」

 ばしんと肩を叩いてやると、赤葦はわたしの腰からそっと手を離しながら「怒らない怒らない。深呼吸して」と言いつつわたしの手に触れる。赤葦の腕を掴んだままだった手がほどかれて、そのまま少し遠慮がちに右手を握られた。「大丈夫?」と確認があったので、とりあえず頷いて返しておいた。赤葦はにこにこと笑って、その手をしっかり握って何事もなかったように歩き始めた。
 赤葦、彼女にはこういう感じなんだ。もっとクールな感じなのかと思っていたから少し意外だ。元カレの中にもこういうタイプの人はいたけど、付き合い始めた序盤だけの人が多かった。赤葦もそのうち変わってしまわないだろうか。こっそりそう不安に思ってしまうけど、なんとなく、大丈夫かもなんて思う自分もいた。不思議だけれど。
 いつもと変わらないまま話をした。変わっているのは手を繋いでいることだけ。話している内容は変わらない。馬鹿みたいな話もあれば、仕事の愚痴もあれば、とりとめもないこともある。赤葦は変わらずにいてくれた。それが、嬉しかった。

「最近仕事どうなの? 忙しそうじゃん」
「忙しいってレベルじゃない。息の根を止めに来てる」
「漫画って大変なんだねえ」
「面白いけどね。職場の人も良い人ばっかりだし今のところ辞めるつもりはないかな」
「ドMかよ」
「人の仕事を勝手にそういうプレイにしないでください」

 鳥が数羽飛んでいった。それを横目で追うと、朝日が眩しくて目を細めてしまう。いい天気。なんだかいいことが起こりそうな予感がする空は、悠然とわたしを見下ろしているように思えて、なんだか自分の抱えているもののすべてがちっぽけに思えた。
 散歩を終えたあとは、またテントの中でのんびり過ごした。時間が来てから朝食セットを二人で取りに行き、ホットサンドを作っておいしくいただいた。また赤葦が淹れてくれたコーヒーをゆっくり飲んで話をしていると、あっという間にチェックアウトの時間は来る。名残惜しい気持ちのまま二人で片付けをして、キャンプ場を後にした。


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