バーベキューセットや調理器具をしっかり洗ってから、お互い施設内にある温泉に入り、またしても赤葦が追加オプションで頼んだビールで乾杯。あまりにも至福。そう呟いてベッドに寝転がると、赤葦が一人がけソファでけらけら笑いながらまた一口ビールを飲んだ。

「あー、東京帰りたくな〜い」
「一ヶ月くらいいたいね」
「分かる」

 ベッドに寝そべったまま一つ伸びをする。こんなに心地よい空間は他にはきっとない。自然の中。社会の営みがどこにもない。赤葦がいる。これこそがこの世に存在する理想郷。笑いながらそう言うと赤葦が「本当かよ」とおかしそうにツッコミを入れてきた。
 酔った勢いで赤葦の元カノのことを聞いてみる。確か大学生のときに一人だけ付き合った女の子がいたはずだ。あまり詳しく教えてくれたことはないけれど、わたしが知っている唯一の元カノだ。どんな子だったっけ、と聞けば赤葦は「真面目でおとなしい子」と答えた。どういう経緯で付き合うことになったの、と聞けば「同じゼミで知り合って向こうから告白してくれた」と答える。将来研究者を目指していた子で、大学院に進学したそうだ。その受験のために二人の時間があまり取れなくなり、じわじわとすれ違ってしまった。赤葦はそんなふうに教えてくれた。

「まあ、よくある話だね。それからは仕事が忙しすぎて恋愛とは疎遠になっちゃった、ってやつ」
「でもちゃんとしてるじゃん。わたしの別れっぷりとは違うなあ」
「……本当に一人もいないの? この人ならいいかもって思った人」」
「うーん。あえて言うなら裕太くんかなあ。あ、北海道旅行の人ね」
「帰りの飛行機で別れた人だよね?」
「それそれ。無理にしようとしてこなかったし、いつもにこにこしてて楽しかったし」

 でも、性的な雰囲気になった瞬間にだめになってしまった。それ以外は本当に何も嫌なところはなかった。だから、私が悪い。そう笑ってしまう。どうしてわたしはこうなんだろう。世の中の女の子はみんな、好きな人に求められたら嬉しいものだと思うものではないのだろうか。みんながみんなそうではないのかもしれない。でも、こんなふうに別れてばかりの人はそんなに多くな気がする。
 赤葦がぽつりと言った。本当に好きな人じゃないのかもね、と。それはそうかもしれない。心のどこかで友達が彼氏と幸せそうにしているから羨ましいとか、そういう特別な存在がほしいとか、そんなふうに思っているのかもしれない。思い返せば、はじめての彼氏以外はすべて向こうから告白してくれていて、振るのはわたしから。わたしから好きになった相手ははじめての彼氏だけだった。

「どんな人がいいの? の希望は?」
「優しくて清潔感があって、えっちしても気持ち悪くならない人」
「最後の条件が難点すぎる」
「そうなんだよねえ。ヤってみなきゃ分からないからさ」
「しかもセックスが気持ち悪いんじゃなくて、そういう目で見られるのが気持ち悪いんだよね?」
「うん。だっておっぱい見て何が面白いの?」
「おっぱいは面白いから見るわけじゃないですね」

 大真面目な顔をして赤葦がそう言う。おっぱいって言ったんですけど、この人。赤葦はソファの肘掛けに体を預けるように体勢を変えてから「好きだから見たいものです」とまた大真面目に言った。

「そりゃその辺におっぱいが転がってたら見ちゃうけど、自分の手で服を脱がせて見たいと思うのは俺は好きな子だけだよ」
「その辺に転がってるおっぱいも気になるけど、ただの脂肪だよ? なんで見たいの?」
「それに関しては本能としか言いようがないね」

 なるほど、道理で理解ができないわけだ。そう納得する。男の人の本能がわたしに分かるわけがない。じゃあ一生このままなのかな。そう思うと不安になってきた。
 抱きしめられることは好きだった。安心感があったし、わたしを受け入れてくれている感じがして、この人もわたしのことが好きなんだと思えた。手を繋ぐのも一緒に眠るのも好き。付き合い始めてすぐのお互いをくすぐり合う期間がこの世で一番好きかもしれない。どの元カレもそれは同じだ。ずっとこうしていたいね、なんて言っていたのになあ。この口で。

「キスも気持ち悪いの?」
「あ、キスは大丈夫。したいって言われても嫌じゃなかった」
「セックスだけが鬼門だね」
「そうなんだよね。しなくてもいいって言ってくれる人なんかいるのかなあ」

 空になったビールの缶を掲げながら「ごちでした」と赤葦に言う。赤葦が手を伸ばしてくれたので、それに甘えて空の缶を渡す。机に置いてくれた赤葦に「ありがとー」とふにゃふにゃの声で言うと、テントの中にぽつりと小さな声で「いるけどね」と赤葦が言ったのがひっそり転がった。

「え、本当? 良い人? 紹介してよ。こんな哀れな女で良ければだけど」
「結構愛が重いタイプだけど大丈夫?」
「いけるいける。わたし、位置情報を共有しても平気だったし」
「ツヨシだっけ? いたなそんな男も」

 赤葦もビールが空になったらしい。少し缶を振ってからぐいっと最後の一滴を呷り、先ほど置いてくれたわたしの缶に並べた。
 愛が重たい人はたぶん好きだと思う。わたしは好かれているという認識がしたいのだろうと思うのだ。抱きしめられるのもキスされるのも手を繋がられるのもそれを感じるから好き。
 そう思って、あ、と思った。セックスはわたしが好きだからする、というよりは、セックスがしたいからする、というふうに思えて好きじゃないのかも。なるほど。長年の曖昧な気持ちがはじめて鮮明に理解できたかもしれない。一人でそう感動した。

「セックスは無理にしなくていいし、彼女の望みは全部叶えたいタイプだし、馬鹿騒ぎもできるやつだよ」
「めちゃくちゃいいじゃん」
「ただ仕事が忙しいから会えないこともあるし、連絡が取りづらくなるときもあるけど大丈夫?」
「大丈夫。寂しいとは言っちゃうかもしれないけど、大人なので我慢できます」

 肘掛けに体を預けていた赤葦が体を起こす。「なるほど」と呟いてから、少し考えるように黙った。首を傾げて赤葦のことを見てしまう。何を考えているのだろう。悩む要素がある人なら赤葦はそもそも話題に出さないだろう。何を迷っているのかな。赤葦の言葉を待ちつつベッドの上でストレッチをはじめる。寝る前に体をほぐすと翌日の体の軽さがまったく違うのだ。しっかり柔軟をしつつ伸ばせるところを伸ばしていく。それをじっと赤葦が見つめている。そうして、ようやくその唇が動いた。

「思い切って言うけど」
「張り切ってどうぞ」
「赤葦京治ってどう?」
「え、かっこいい名前だよね。お母さんからケイくんって呼ばれてそう」
「そうじゃなくて。彼氏として」

 ぴきっと体が固まった。赤葦京治、彼氏としてどう。そう質問を頭の中で繰り返してから、ほう、と思わず口から声が出た。

「これまでと変わらずにいるし、嫌なことは何もしないし、してほしいことならなんでもしますけど、赤葦京治はどうですか」
「……え、わたしの彼氏候補の話で合ってる?」
「合ってる。立候補してます」
「酔ってる?」
「多少」

 赤葦が背もたれに背中を預けると、指を折りながら話し始める。気が合う。一緒にいて楽しい。女の子としてかわいいと思う。これから先も一緒にいたいと思う。そんなふうにわたしに対して思っていることを一つ一つ教えてくれた。その最後に、ぽつりと、「もう他の男に傷つけられるところを見たくない。以上」と言って、わたしを見つめたまま黙った。
 赤葦が彼氏。そう繰り返して、ちょっとだけ笑いそうになった。いやいや。だってこれまで普通に友達として楽しくやってきた相手を女として見られるものだろうか。わたしは赤葦をそういうふうに見たことはない。親友だと思っているし、男女の間に友情は成立するから。わたしも赤葦もお互いに恋愛感情なんて持たない。そう思っているからだ。
 それに、赤葦は好きな子の体は見たいと言った。それは永遠に叶わぬ夢と化してしまうわけだけどいいのだろうか。そう聞こうとして、あ、と口を閉じる。そうか、好きな子というわけではないから見たいと思わないのか。彼女もできないし、出会いもない。そんな中で定期的に会っているわたしが彼女になれば、と考えてくれたのかも。なるほど。効率が良い。
 そう考えると、赤葦京治が彼氏、これはかなりいいかもしれない。わたしは赤葦のことだけはずっと離せないし、唯一悩みごとを話せる相手でもある。突発的に会いたいと思う相手も赤葦だけで、自分から連絡を取るのも赤葦だけ。そんな相手が友達から彼氏になる。これまでと変わらずにいると言ってくれる。これ以上のことはない。肉体関係がなければたとえ別れてしまってもそこまで気まずくはならないだろう。アフターケアまで万全である。さすが赤葦京治、抜かりがない。

「赤葦はそれでいいの? こんな出来損ないの女で大丈夫?」
「出来損ないじゃないしどんと来いって感じ」
「めちゃくちゃ酔ってない?」
「まだいける」

 冷蔵庫からビールを取り出す。わたしの分も出してくれたので受け取っておくと、赤葦がぷしゅっと缶を開けた。今日はいつもよりペースが速い。運転で疲れたかな。そういえばあとでマッサージをする約束だっけ。しっかり労ってやろう。そう考えていると、赤葦が「どうですか」と笑った。

「いいよ、付き合ってみて違うなって思ったら言ってくれれば。友達に戻るだけだし」
「本当に? 赤葦と気まずくなったら本当に死んじゃうんだけど」
「嬉しいこと言ってくれるね、ホームズ先生」

 ふふ、と笑った赤葦の顔が妙に男の人≠ノ見えた。異性として意識できる。その証しだった。そっか、わたし、赤葦のことを男の人として見られるんだ。それに少し驚いてしまう。
 でも、これまでと変わらずにいてくれるなら、彼氏彼女にならなくても友達のままでもいいんじゃないのかな。そう思ったことをそのまま口にしてみる。赤葦は「まあ、それはそうだね」と言った上で「それでもそうなればいいなって思った」と少しだけ照れくさそうに笑った。
 いつもわたしが悩みを聞いてもらって、馬鹿騒ぎに付き合ってもらって、こんなふうに助けてもらっている。そんな赤葦がそうなればいいと思ったのなら、そうなのかもしれない。わたしは赤葦信者になりつつあるので赤葦の言葉は真実に思える。赤葦は嘘を言わないし、わたしを騙そうともしないからだ。

「じゃあ、付き合ってみる? 本当に何も面白みのない女ですけど」
「こんな最高に面白い女は他にいないから大丈夫」
「やだ嬉しい〜」

 ビールを一口飲んでから、赤葦は「わ〜彼女とグランピングしてる〜」と楽しそうに言った。わたしも「彼氏とグランピングに来た〜」と笑っておく。うん、なんか楽しいかも。まだなんとも言えないけれど。
 そっか、赤葦が彼氏か。関係性が変わってしまったからまだこの先が少し心配だけど、きっと赤葦なら大丈夫、なはず。わたしの恋愛に関する悩みも散々聞いていて理解してくれているし、変なことを無理にしてくるタイプじゃないし。うん。そうだね。大丈夫だ、きっと。そう思うとなんだか気持ちが軽くなった気がした。

「いまいち実感ないなあ。赤葦、結構酔ってるでしょ? 寝て起きたら何の話だっけ≠ノならない? さすがに傷付くぞ」
「ならないならない。そこは信じて」

 またしてもビールが空になった。赤葦は「さすがに眠い」と呟いてから思い出したように「勝ったほうが寝る前にマッサージをしてもらえる杯、優勝者なんですけど」と言った。覚えていらっしゃったか。まあ、わたしも覚えてたけどね。立ち上がってビールの缶を机に置き、座っていたベッドのシーツをきっちり伸ばしておく。「お客様こちらへどうぞ〜」と言えば赤葦がのそのそとベッドに近付いて、ごろんとうつ伏せに寝た。

「肩中心コースと腰中心コース、どちらがよろしいですか〜」
「両方でお願いします」
「おう、遠慮がないな。そういうところいいと思いますお客様」

 失礼しま〜す、と声をかけてから赤葦の腰辺りに跨がる。それに赤葦が「あ〜人間の重み」と笑うのでわざと体重をかけてやった。そのまま肩に手を置いて、適当にぐいぐい揉んでみる。硬いな。めちゃくちゃ凝ってるじゃん。運転させて申し訳なかったな。そんなふうにしっかり揉んでやった。
 そんなマッサージを二十分ほどきっちりこなし、二人とも眠気が限界になる。どさっとベッドに崩れ落ちるようにわたしが寝転ぶと「おつかれ」と眠たそうな声で言われた。

「体バキバキじゃん。ごめんね運転させて」
「かわいい彼女のためなら体がちぎれても運転します」
「やだ〜彼氏がスプラッタ〜」

 けらけら笑いながら瞼が閉じていく。あー、眠い。楽しい。しあわせ、かも。そんなふうにぼんやり思っていると、赤葦の手がわたしの前髪を撫でた。「おやすみ」と言った声がとても優しくて、それはなんだかとても、好きな、音だなあと、思考が止まりゆく中で思った。


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