「なんで急にキャンプ?」
「キャンプじゃなくてグランピング」
「そこの違いはどうでもいい」

 埼玉県にあるとある山の中。わたしと赤葦はグランピングテントに手荷物を置いて、一つ伸びをしていた。突然誘われて行き先も教えられずに運転をさせられた赤葦はひたすらに不可解そうだった。そりゃそうだ。ごめんごめん。そう謝りつつ長時間運転をしてくれた肩を揉んでやる。

「え、何、って自然の中ではしゃぐタイプだっけ?」
「たまにはいいじゃん。わたしの奢りなんだから文句言うな」
「本当に? アザース」
「お礼が軽いんだよ、この元運動部男子が」

 グランピングテント内に置かれていた利用案内を手に取る。ふむふむ、なるほど。そうわざとらしいリアクションを取りつつ「見てみたまえ、ワトスンくん」とふざけてそれを手渡してやる。赤葦がそれを受け取ると無言で読み進めてから「ホームズ、事件だ」と顔を上げた。

「え、本当に奢り? これ高いプランじゃないの? 温泉も入り放題でバーベキューセットも全部ついてるんだけど」
「お一人様、なんと六万円でございます」
「…………何かあった?」
「さすが我が助手。察しが良い」

 急な誘いにも関わらず、一つ返事でオッケーをくれたことにまず礼を述べる。赤葦は基本的に土日も仕事の電話が鳴ると前に言っていた。呼び出しを受けることも多々あるそうだ。今回はどうにかこうにか話を付けてくれたようだったが、運転中はスマホが鳴り続けていた。げんなりしながら「電源切って。あと次のサービスエリアに寄る」と言われたときはちょっと申し訳なかったほどだ。仕事の電話が鬼のようにかかってきていたのだろう。サービスエリアに立ち寄った十五分間はずっと電話をしていた。
 ちょっと一人になりたくない気分だったから、と正直に白状しておく。赤葦は一人がけのソファに腰を下ろしてから「まあ、いいけどさ」と薄く笑って眼鏡を外す。背もたれに体を預けてから「ただ、一ついい?」と眉間にしわを寄せた。

「ベッドが一つしかないけど?」
「え、だってダブルベッドのプランしか空いてなかったもん。仕方ないじゃん」
「赤葦、一応男なんだけど。警戒心を持たれないのはさすがに男としてのプライドが死ぬ」
「え、嫌?」
「あー、話が通じない……」
「なんだよ〜寂しいこと言うなよ〜」
「後悔させてやる。今日は寝かさないからな。会社の愚痴を延々聞かせてやるからな」
「いいじゃん、上等だ。受けて立つ」

 時刻は午後四時。この夏は酷暑という言葉では追いつかないほどのものだが、グランピングテントにはエアコンが完備されている。きっちり快適な温度に保たれたテント内はまさに天国だ。周りには煩わしい社会の営みはなく、蝉や鈴虫、カエルの鳴き声が心地よいBGMとして響いている。
 何も考えなくていい。目の前にいる赤葦と、子どものころみたいに馬鹿話だけして、あとは好きなものだけ食べて、好きなことだけをしていればいい。そういう時間がほしかった。
 数日前に元カレから連絡があった。よりを戻したい、という内容だった。大学生のときに付き合っていた人で、無理やりわたしをベッドに押さえつけたうちの一人。忘れるわけがない。思い出すだけで気持ち悪くて、連絡への返事をする前にブロックしてやったのだけど諦めが悪い人だった。大学時代の共通の友達を通じてコンタクトを取ろうとしてきた。友達は「可哀想だからブロックは解除してあげてよ」と言ってきたけれど、無理やりセックスを強いてきた相手に慈悲をかけるつもりはない。気持ち悪いから無理、と返したら今度はわたしが友達にブロックされた。今頃はわたしの悪口でも言っているのだろう。知ったこっちゃない。勝手にやってくれ。
 赤葦に話を聞いてほしくてたまらなかった。気持ち悪くて仕方なくて、どうしようもなく喪失感があって。息苦しい。地上にいるのにとても、息苦しい。そう思えてたまらなかったのだ。

「ホームズ先生、バーベキューの食材取ってくるから、調理器具の確認しといてくれる?」
「承知したワトスンくん〜」

 ソファから立ち上がり、スマホ片手に外へ出ていく赤葦を見送る。優しいよなあ、赤葦。食材を取りに行くって言っていたけど、仕事の電話も兼ねているのだろう。わたしが気を遣わないようにあまり仕事の電話はテントの中ではしないようにしてくれている。なんだか申し訳ない。でも、本当に助かる。そうテントの出入り口に手を合わせておく。
 グランピングテントの外にバーベキューセットがあり、調理器具はその近くの箱に丁寧に入れられている。調味料はテント内の冷蔵庫や備品入れに入っていたものを集めて持ってきた。赤葦が食材を持って帰ってきてくれたらすぐにはじめられる。グランピングって最高だな。そう思いつつバーベキューセットの説明書を眺めていたときだった。

「あの〜すみません〜。隣のテントの者なんですけど」

 突然聞こえた見知らぬ人の声に顔を上げる。そこには二人の男性がいた。隣のテントとは言っても距離はかなり離れている。そもそも他の利用者のテント利用範囲は立ち入り禁止になっているはず。緊急事態なのだろうか。そう思いつつ「なんでしょう」と返すと、男性二人はへらへらと笑いながら「なんか分かんなくて困ってるのかなって。火とか付けられます?」と言ってきて、思わず「は?」と眉間にしわを寄せてしまった。

「別に困ってないです」
「でもさっきからそれ見てるし、俺ら慣れてるんでやりますよ」
「結構です。他の利用者のテント内に入るのはルール違反なのでは? 運営の人呼びますよ」
「いやいや、そんな怒らないでくださいよ。困ってるかなって思っただけなんで」
「だから困ってないです。これ以上居座るなら本当に呼びますよ」

 わたしがそう言うと、男性二人が舌打ちをこぼした。「かわいくねー女」と吐き捨ててテントから離れていく。なんだそれ。気持ち悪い。内心でそう呟いているとちょうど赤葦が戻ってきた。すれ違った男性二人を不思議そうな顔をして見てからこちらに視線を戻すと「さっきの誰?」と首を傾げた。

「知らない。なんか勝手にこっちに来て勝手にキレて帰ってった」
「説明になってなさすぎる。大丈夫だったの?」
「大丈夫じゃない。わたしの気持ちが死ぬほど削がれた」
「それは大変。まあ、何もなかったならよかったけど、あんまり一人にならないように気を付けたほうがいいね」

 そう言ってからもらってきてくれた食材を机に置くと「これ肉すごくない? おいしそう」と言う。お肉が多めのプランを選んで正解だ。きらきらして見える瞳は正しく腹ぺこ少年のものだった。なんかちょっとかわいい。くすりと笑って「お腹空いた」と言えば赤葦もしっかり頷いた。
 こういうことは一切やったことがない二人だ。それなりに苦労しつつ準備を済ませ、思い思いに肉を焼いた。外で焼いて外で食べているだけだというのに、なんだかとても特別な食事に感じる。キャンプが好きな人というのはこの特別感が好きなのかもしれない。そんなことを思っていると、赤葦が片っ端から調味料を試し始めた。何を生み出そうとしているのか。それを笑ってやりながらわたしもいろんなものを組み合わせながらどんどん肉を食べた。

「ホームズ、一つ提案があるんだが」
「なんだね、ワトスンくん」
「俺の奢りでビールのオプション入れていい?」
「いいに決まってるんですけど」

 テント内にある電話で赤葦がオプションを伝えると、五分後に受け取れるとの返答だった。またしても管理事務所まで行かなくてはいけないが、これもおいしいビールのため。先ほどのことがあるので二人で行くことにした。火は一旦消して、テントにしっかり施錠をして二人で歩いて行く。もうずいぶん暗くなってきた空を見上げると、もうすでに星がちらほらと姿を出し始めていた。
 ぽつぽつと話をした。元カレから連絡が来たこととか、さっきの男性二人の話とか。どうしても下心が見えて気持ちが悪い。嫌だね。そんなふうに。赤葦はわたしの話を聞きながら「男は馬鹿だし気持ち悪い生き物だから」と笑った。本当にね。そんなふうに言ってから、一つ伸びをする。赤葦は違うけどね。そう言いながら。

「大丈夫そうだなって思っても、えっちしたり求められたりすると全員だめなんて困るな〜」
「あのさ、前々から言おうと思ってたけど、本当に体は大事にしなよ」
「してるしてる」
「無理やりなんてただの犯罪だから。は……なんていうか、傷付いていいし、笑って話さなくていんだよ」

 きらりと流れ星が見えた。思わず大きな声で「流れ星!」とわたしが叫ぶと、近くのテントでバーベキューをしていた子どもが「流れ星だって!」と反応する。それがなんだかおかしくて笑っていると、そのテントの家族も笑ってくれた。
 傷付いていい、かあ。でももう過ぎたことだし、そういう人と付き合ったわたしが悪い。好きな人とそういうことをしたいと思えないわたしが悪い。そんなふうに思う気持ちがあって、なんだか傷付くのは自分勝手な気がする。そう笑いながら言ったら赤葦は「はいはい。そうですね」と呆れたように言ったっきり、もうその話はしなかった。
 管理事務所からビールを受け取り、またテントへ戻る。夜空に星が飾り付けられている。日が落ちるのがかなり早くなったなあ。そんな他愛もない話をして歩けば、遠いと思っていた距離はずいぶん近く感じられた。もうテントは目の前だ。暑いはずの気温も気にならない。汗をかいているのに。
 赤葦は不思議な人だ。わたしにとってはとても不思議で、唯一無二の、とても特別な存在。そう改めて思った。

「赤葦、勝ったほうが寝る前にマッサージをしてもらえる杯ね」
「え? 何が?」
「位置について、よーい」
「待て待て、説明。説明がない」
「どん!」
「たまには人の話を聞こうか、ホームズ」

 赤葦が持ってくれているビールはハンデだ。元運動部と元帰宅部。脚力の差は歴然。男女の差だってある。ビールを持っている赤葦とならいい勝負になるかもしれない。そう思いついたから勝負を挑んでみた。久しぶりに走る足はなんだかうまく言うことを利かないけれど、結構普通に走れている。これは勝てる。そう思ったのに、ビールが入った袋を揺さぶりながら赤葦が華麗にわたしを追い抜いた。嘘でしょ! それ結構重いだろうに! 赤葦が自分の奢りだからと馬鹿みたいな量を頼んだせいで! そう喚きながら走ると赤葦が「梟谷バレー部OBを舐めるな」と高らかに言いつつテントの周りにある柵を越えた。

「じゃ、ホームズ先生寝る前にお願いします」
「こ、呼吸一つ、乱れてねえ、このワトスンくん……」
「いや、そっちがぜえはあ言い過ぎ。大丈夫?」

 情けをかけられた。悔しくて柵をだんっと叩いていると「汗かいたからビール飲も」と赤葦が一本手渡してくれた。確かに、今飲んだらこの世で一番ビールがおいしい瞬間かも。ビールを受け取り、赤葦と二人で同時にぷしゅっと開ける。すると、勢いよく中身が吹きこぼれてきた。

「わー! ちょいちょいワトスンくん!」
「あー走ったときに振ったからか。どんまい」
「どんまいはこっちの台詞ね?!」

 げらげら大笑いしながら吹きこぼれるビールを二人で飲む。手はべたべただしビールはなんだか腐抜けた味だ。いいことなんか一つもないのに、一緒に飲んでいる相手が赤葦というだけで全部どうでもよかった。
 またバーベキューセットに火を付けて肉を焼く。途中で赤葦が「白米は?」と言うのでまだ開けていない食材を漁ると、しっかりお米が入っている。「やばい、飯盒炊爨だわ」と返すと赤葦が「やってやろうじゃん」と調理器具の中から飯盒を取りだした。

「小学生のとき以来かも。どうやるんだっけ?」
「赤葦もしゃばしゃばのカレーだった?」
「そうそう。あのめちゃくちゃ水っぽいカレー」
「でも不思議とおいしいよね〜」
「分かる」

 しっかり説明書がついているそれを二人で見ながら準備をしていく。三十分ほど白米にありつけないと分かると赤葦が天を仰ぎながらショックを受けていた。肉には白米が必ずいるもんね、分かる分かる。まず最初にやるべきことだったと二人で反省した。これもそれも楽しいだけの出来事。なんて贅沢な休日だろうか。


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