人間は肺呼吸をする生き物。そんなことはとっくに知っている。水中に潜れば息ができずに死んでしまう。そんなことも当然知っている。それは人間であれば無条件で当てはまるものだし、誰も疑問に思わないところだ。それでもわたしは、陸にいるより水中にいるほうが、呼吸が楽そうだと羨ましく思うことが、よくある。
 ビールをぐいぐいと呷り、飲み干したジョッキをどんっとテーブルに置く。一つ息を吐いてから項垂れると、目の前に座っている赤葦京治が「おっさん」と軽く窘めてきた。うるさい。おっさんでもいいでしょ。ジョッキから手を離してそうけらけら笑ってやると赤葦は呆れたようにため息をついた。

「それで? また別れたの?」
「またって言うな、またって」

 うんざりしつつそう答えるわたしに赤葦もうんざりした様子で「はいはい」と返してくる。赤葦の言う通り、また、ではある。またしても彼氏とたった三ヶ月で別れてしまったのだ。ビールを呷るようないい歳の女のくせに。
 いい人だった。合コンで知り合った自営業をしている人で、金払い良し人柄良し経歴良し。合コンなんか来なくてもいくらでも彼女ができるだろうに、と思うような男性。本人は自分が奥手で人見知りだから、と謙遜していたけれど、女性側に合わせた会話の運び方や細やかな気遣いはなかなかできたものではない。参加男性の中で付き合うならこの人だな、とはじめに目を付けた。
 幸運なことに、その人が選んでくれたのがわたしだった。他の女の子からのアプローチされていたようだけれど、会話のテンポが合うから、という理由で気に入ってくれたらしい。合コンから三日後の仕事終わりに二人でご飯へ行き、また一週間後にもデートをし、三回目に会った際に告白されてお付き合いに至った。
 それを赤葦に報告したときは「今度は良い人そうなんだね?」と疑い深そうに確認をされた。胸を張って大丈夫と答えたけれど、今思えば、赤葦のその質問に大丈夫と答えた数は実に四回目。赤葦が「本当かよ」と返してきたのも頷ける。でも、今回こそは、大丈夫だと思った。何一つ嘘は吐いていない。

「なかなか良い男はいないもんだね」
「みんな良い人だったんだけどなあ。わたしがだめなんだよ、結局」

 けらけらと情けなく笑うわたしに、赤葦はなんだか難しい顔をして「そんなことないと思うよ」とハイボールを飲みながら言ってくれた。
 昔のくだらない話である。高校三年生の夏、わたしは生まれてはじめての彼氏ができた。中学校からの同級生で、わたしが片思いをしていた相手だ。ちなみに付き合うまでの間に相手のことを相談していたのが、目の前でハイボールを飲んでいる赤葦だった。赤葦は高校からの付き合いで、高校二年生のときに同じクラスになったことがきっかけで仲良くなった。お互い良き相談相手であり、良き傍観者的な存在だ。それは今でも変わらない。
 話を戻す。はじめての彼氏は念願叶ってお付き合いできた男の子だった。告白が成功したときは泣いてしまったほど嬉しかったし、はじめてのデートは目的のお店が臨時休業でも楽しかった。はじめて手を繋いだ瞬間も忘れられないほど良い思い出になっている。
 けれど、わたしはそんな彼氏と、たった半年で別れている。理由は単純。一緒にいることが嫌になってしまったから。わたしは、あんなに好きだった彼と、一緒にいることが不快で堪らなくなってしまったのだ。はじめて招かれた彼の家で押し倒されたことがきっかけとなって。
 気持ち悪く思えた。わたしのことを、性的対象として見ている彼のことが。どうしてわたしの裸を見ようとするのか。どうしてわたしの体を触ろうとするのか。どうしてわたしとセックスしようとするのか。そうぐるぐる考えたら気持ち悪くて仕方なくて、体が固まったことを覚えている。
 そんなのは変だ。好きな相手とならセックスがしたくなって当たり前だ。そう自分に失望した。好きな相手とならセックスしたくなって当然。当たり前のこと。そう自分に言い聞かせて、言葉を飲み込もうとしたけれど無理だった。今日はしたくないと呟いたわたしを、彼は許さなかった。無理やりベッドに押しつけて、無理やり服を剥いで、無理やりわたしの体をまさぐった。ヤっているうちに気持ち良くなるから大丈夫、痛いのははじめだけだから大丈夫。そう言ってわたしの手を押さえつけたまま、膣口に気色悪い熱を持ったそれを押し当てて、処女膜を無理やり貫いた。ほら、できたでしょ。そう、ちぐはぐに優しく笑いながら。
 痛いことが怖いわけじゃなかった。ただ気持ち悪かっただけ。わたしのことを性的対象として見ていることが気持ち悪いだけ。それだけだった。無理やり初体験をさせられたあと、わたしは彼と別れた。他に好きな人ができたと適当な嘘を吐いて。彼はあっさりそれに頷いてものの十秒で別れ話は終わった。それも、気持ちが悪かった。
 大学生になってからできた彼氏も全滅。全員気持ち悪かった。そのうち何人かには無理やり抱かれたけれど、それでもやはり同じこと。セックスを求められるまでは楽しくお付き合いをしているのに、一度求められるとだめになる。その繰り返しになるのだ。

「あーあ、わたし、やっぱ変なのかなあ」

 居酒屋の硬い椅子の背もたれに、ぎしっと体を預ける。赤葦はわたしのことをじっと見てから「無理に付き合うのやめたら?」と静かな声で言った。それは無理。わたしは将来結婚して、二人子どもを産んで、一軒家に住んで、大きな犬を飼うのが夢だから。そう笑って言ったら赤葦が「そりゃ前途多難なことで」と呆れたように言った。

「そういう赤葦は? 彼女できた?」
「こんな激務でできるわけない。絶望的」
「合コンとか行けば? 漫画の編集とか食いつかれるでしょ」
「合コンが身近で開催される世界で生きてない」

 そうぼやく赤葦の空のジョッキに「お疲れ様です」と空のジョッキをこつんと当てておく。わたしと飲んでいる時間があるならそういうコミュニティを探しに行けばいいのに。元強豪運動部のツテなら結構良い子が揃いそうなもんだけどなあ。そう不思議がっていると「そうでもないよ」と哀愁たっぷりに返されてしまった。
 赤葦とはこんなふうに恋バナもするし割とセンシティブな内容も話す。でも、ただの一度も男女の雰囲気になったことはない。それがわたしにとってはとても有難いことで、赤葦にならなんでも話せるのもそのおかげだ。
 はじめての彼氏に無理やりされたときの話も、赤葦にしか話したことがない。それを聞いた赤葦は黙ってわたしの隣に座ったまま、しばらく何も言わずに一緒にいてくれた。多感な時期である男子高校生に女子高校生が話す内容ではなかっただろう。大人になった今はそれを反省しているけれど、赤葦に聞いてもらえてよかったと思う気持ちは今もある。赤葦はその話をどう飲み込んでくれたのかはよく分からない。でも、変わらずにいてくれたことが嬉しくて歴代の彼氏の話はすべて赤葦にだけは話してきた。

「あー、赤葦は本当何にも変わらないよね、高校生から。眼鏡をかけたこと以外」
「そう?」
「変わんない変わんない。落ち着く。実家みたい」
「いや、実家って。せめて人間扱いしてよ」

 田舎のおじいちゃんとか、と付け足して笑った。笑った顔も学生のときから変わっていない。それも落ち着く。いつまでもわたしはわたしのままでいていいのだ、と思わせてくれる。それに内心こっそり感謝しつつも軽口を叩いてしまう。赤葦はそれを咎めることはなく、高校生のときと同じ対応をずっと続けてくれる。
 本人には言わないけれど、親友みたいな存在なのだ。男女に友情は成立しないと言う人も多いけれど、赤葦とわたしに関してそれは当てはまらない。わたしはそう、心から信じている。

「ずっと変わらず赤葦のままでいてね。じゃなきゃわたし、死んじゃうもん」
「いやいや、大袈裟でしょ。俺に生死を握らせないでよ」

 そんなふうに笑っていてくれればそれだけでいい。それでわたしはとても救われるよ、本当に。


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