「あ! もう九時だぞ! みんなもう帰れよー」

 茂庭さんの声が体育館に響く。黄金川くんの練習に付き合っていたわたしもその声に返事をして、ボールのかごを片付ける。作並くんもそれを手伝ってくれたのですぐに体育館に戻ったが、すでに他の部員の手によって素早くネットは外されていた。何か片づけるものは、とあたりを見渡していると後ろから突然現れた青根くんに「もう大丈夫」と声をかけられた。着替えに行っても大丈夫、という意味だろう。
 舞ちゃんは家の用事で部活終了とともに帰ってしまったので一人で女子更衣室に向かう。辺りは真っ暗な上に他の運動部もほとんど帰ってしまっている。少し心細い。あまり暗いところは得意ではない。まだついている電灯の近くを歩きながら女子更衣室にたどり着く。他の部のマネージャーさんも数人だが残っていたようで、ほっとした。けれども知り合いではない。着替えが終わったらみなさんそれぞれ散り散りに帰っていくので、結局はわたし一人が残される。怯えつつ着替えを済ませ、外に出る。更衣室の鍵はもう閉め切って大丈夫そうなので職員室にある専用のキーケースに入れに行くことにする。校内は外よりも余計に不気味でならない。何度も何度もため息をついて鍵を返し、また何度も何度もため息をついて外に出る。
 体育館の電気はすっかり消えている。もうみんな着替えを済ませて帰ったのだろう。少しは気を遣ってくれる部員はいないのか! ちょっとそう思ったけど、気付いてしまう。前までは二口くんが必ず送ってくれていたから、みんなもそうだと思い込んでいるのか。思い至ってしまった自分の考えに、思わず唇を噛んでしまった。

「そんなに怖いのかよ、暗いの」

 突然聞こえた声に肩が震える。ゆっくり顔を上げると、だらしなく制服を来た鎌先さんが壁に寄りかかっていた。わたしが驚いてぼけっとしているとこちらに近付いてきて、「帰んぞ」と呟いて背を向けた。「え、あ、はい」とようやく声を出してその背中についていく。鎌先さんは正門を通り過ぎてから「あ」と声を上げて立ち止まる。

んちってどっち?」
「×○中の方向です」
「おーじゃあこっちな」

 あれ、鎌先さん、反対方向ですよね? そう思いつつももしそれを言葉にしたら一緒に帰ってくれる人を失いかねない。それはわたしとしては困ってしまうので、気付かないふりをさせてもらった。鎌先さんの歩くペースは少し早くていつもより歩幅を広げないとうまくついていけない。なんか犬の散歩してるみたい。思わず自虐してみる。

「鎌先さん、あの」
「あ?」
「ありがとうございます」
「素直なって気持ち悪いな」
「なんてこと言うんですか」

 少し拗ねたふりをしてみる。鎌先さんは少し吹き出して「ガキみてえな顔してんじゃねえよ」と言ってわたしの頭を軽く叩いた。
 生ぬるい風が吹いて髪を揺らす。その風が、どこか懐かしい温度に思えて、少しだけ視界がうるんでしまった。ああ、もう、終わってしまったんだなあ。終わってしまったらこんな風にいっしょに帰ることもできなくなっちゃうんだ。いまさらいろんなことが分かってしまった。部活中に練習していたものができたら一番に駆け寄ってきてくれて「見た?!」と笑顔を見せてくれたりとか。ボトルやタオルを運ぶのに苦労していたら後ろから突然現れて「半分な」と言って持ってくれたりとか。舞ちゃんと楽しく話してたら割り込んできたりとか。帰り道に突然空を見上げて「星きれーだな」とほほ笑んでくれたりとか。そういうの、もう、ぜんぶ、手元からなくなったんだ。

「お前は怒っていいと思うぞ」
「……え」
「二口から聞いた。一方的にフラれたんだろ、理由も言われず」

 だから怒っていいぞ。鎌先さんはそう呟き直して一つため息をついた。お節介だって分かってる、そういう意味のため息なんだろう。そんな風に優しくされたら余計にいろんなものが零れ落ちてしまう。誰の口からでも、どんな状況からでも、二口くんの名前が出ると、こうしてわたしの頭はばかみたいに思い出を上映し始めるのだ。美しい思い出。音も色も匂いも、まだぜんぶ記憶の中に残っている。それがぜんぶ押し寄せてきてわたしを飲み込む。二口くんの名前が出たときだけじゃない。ちょっと温かい風が吹いただけで、覚えのある花の匂いが漂ってきただけで。わたしの頭は二口くんとの思い出で埋め尽くされてしまう。恥ずかしいやつだと思う。未練たらたらじゃん。そう笑ってくれた方が気持ちが楽なほど。

「いや、怒れって」
「……かまさきさあん」
「泣くんじゃなくて怒れって」

 ぐしゃぐしゃ頭を撫でる手は、やっぱり二口くんと違っていて乱暴だった。


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