松川くんのことを好きになったのは、芋虫を逃がしてくれたからでも助けてくれたからでもなく、ただただ純粋に優しい表情をする人だと思ったから、だと思う。 困っていたところを助けてくれたのは事実だし、本当に心から助かって安心したのも事実。 昔から虫は大の苦手で、あのとき松川くんが来てくれなかったらちょっと泣いていたかもしれないくらいだ。
 松川くんに告白されたとき、本当にうれしかった。 まさか松川くんがわたしを好きになってくれたなんて信じられなくて、まさか告白されたなんて信じられなくて。 言葉にちょっと詰まってしまったけど、「はい」って言えて心から安心した。 友達にからかわれたり男子部の人の視線を感じたりするのは恥ずかしかったけど、毎日楽しかったなあ。
 甘やかされている。 そう感じるまでに時間はかからなかった。 松川くんは本当に優しい人で、何でもかんでもわたしを優先してくれた。 あんまり会える時間がなくて、せっかくオフになってもわたしがもともと自主練習の予定を入れていたらすぐに「いいよ」と言ってくれたり。 空いた時間、わたしは恥ずかしくてなかなか松川くんのクラスに行けないのに、松川くんは来てくれたり。 そういうのが積み重なっていくと、あ、わたし、松川くんの負担にしかなっていないのでは? なんてことを思い悩むようになっていって。
 日に日に、松川くんの優しさが、ちょっと重く感じてしまって。









 男子部の体育館をバスケ部が練習試合で使うそうで、今日は女子部が使っている体育館を半面ずつ使うこととなる。 主将の指示のもとコートを仕切る準備をしていると、男子部の活気ある声が聞こえてきた。 女子部も挨拶を返し、一年生の手によって体育館の真ん中に仕切りが張られた。
 コートが一面しか使えないこともあり、女子部は部内での仮想練習試合となる。 AチームとBチームに分けるのだけど、Aチームは基本的にいつものレギュラーメンバーでBチームは控えメンバーで構成される。 その次にどちらでもない部員を振り分けたチームによる試合が行われる、という流れだ。 監督に呼ばれチーム分けと役割分担が説明されていく。
 わたしの名前は、Aチームで、呼ばれなかった。 呼ばれたのはBチーム。 控えチームのリベロだった。 Aチームのリベロで呼ばれたのは、一年生の子。 ああ、わたし、レギュラー落ちしたんだ。 きゅっと握った拳。 もっと頑張らなきゃだめだったんだ。 別のことにかまけていたからだめだったんだ。 Bチームの子に名前を呼ばれた。 振り返って笑って返すと、なんだか気まずそうな顔をされる。 ああ、気を遣われている。 そりゃそうだよね。 一年生にレギュラーを取られた、っていうふうに映るもんね。 気付かないふりだ。 うまい子がレギュラーになるのは当然だ。 別のことにかまけていたわたしに落ち込む権利はない。 控えとして万全の状態で練習試合、大会を迎えられるようにしなきゃ。
 そう考えつつ体育館の仕切り近くで靴紐の確認をする。 近くで話している他のチームメイトの話に相槌を打っていると「」と聞き慣れた声が降って来た。

「あ、岩泉くん」
「悪いけど女子部ってストップウォッチ余ってないか? ついさっきこっちのやつ壊れてさ」
「あ、うん、あるよ。 ちょっと待ってね」

 わたしが立ち上がろうとしたら、気が付いた二年生の子が先に「取ってきます!」と走って行く。 岩泉くんが「悪いな」と頭をかくと三年の子が「なんで壊れたの?」と笑いながら声をかけた。 わたしもその会話を笑いながら聞いていると、ふと、遠くから視線を感じた。 そうっと岩泉くん越しにその視線を辿ってみると、入口近くで座っている松川くんがいた。 岩泉くんの背中を見ているのかもしれない。 そう思って視線に気が付かないふりをした。
 二年生の子がストップウォッチを持って戻って来たところで、「ちーっす」と軽いノリで花巻くんが岩泉くんの背後から顔を出した。

「そっち何すんの? 試合形式?」
「そうだよ。 今からレギュラーと控えで試合」

 ふつうに言ったつもりだったけど、何も知らない岩泉くんと花巻くんを放ったらかしにして女子部の空気が硬くなったのを感じる。 苦笑いがもれてしまうとさすがの岩泉くんたちも事情を察したようだった。 気にしないでほしいなあ。 内心そう思いつつも言葉にはしない。 ここでわたしが「気にしないで」って言うと余計に気にされる気がする。
 岩泉くんたちとはそこで解散をして、女子部は早速試合形式での練習がはじまる。 いつもはいっしょのコートにいるチームメイトが目の前、ネットを挟んだ向こう側にいる。 変な感じ。 それを感じながらも、気付かないふりをして、一つ深呼吸をした。 さっきから気付かないふりばかりだなあ。 わたしは逃げているだけなのかな。
 久しぶりに受けた女子部主将のサーブ。 きれいにセッターの頭上へ返った。 うん。 大丈夫。 ちゃんとできてる。 ほっとした。









 試合はAチームの勝利で終わった。 汗を拭きつつチームメイトに声をかける。 最後は二年生の子のサーブミスで終わってしまったから、みんな二年生の子に声をかけていた。 わたしも同じく声をかけると落ち込んだ表情で「すみません」と謝られてしまった。 気持ち、分かるなあ。 わたしも相手のマッチポイントでサーブレシーブがうまくできなくて、チームが負けてしまったことがある。 でも誰もわたしを責めなかった。 次は絶対勝とうって言ってくれた。 あれには、本当に心を救われたなあ。
 懐かしい気持ちになりつつ自分のタオルが置いてある壁際へ寄る。 試合を終えた部員は一旦休憩に入っていいとのことだったので、顔を洗いに行くことにした。 タオルを片手に水道へ歩いていく途中、「あ」と声が聞こえたので振り返る。 そこには花巻くん、と、松川くんがいた。

「お疲れ様」
「お疲れー……休憩?」
「うん。 いま別のチームが試合中だから」

 松川くんがなんだか気まずそうにしているのが分かる。 心の中で謝りながら、ここはわたしが去ったほうが賢明だろうと思って「じゃあ、」と去ろうとしたのだけど。 花巻くんがそれより先に「あ、やば、俺部室に忘れもんしたわ」と言い出した。 話し出すタイミングを失ってしまいそのままでいると、花巻くんはあれよあれよという間に松川くんに「じゃ、俺先行くわ」と言って走り去っていった。
 あれ、わざとだよね。 内心苦笑いをこぼしつつどうしようか迷う。 声をかけないと去ろうにも去れない。 残るのであれば余計に声をかけないと変だ。 なんて話しかけるのが正解なのかな。 悩んでいるわたしの顔を、覗き込むように松川くんが見ていることに、ふとした瞬間気が付いた。

「……久しぶり、ってほどでもないかな?」
「あ、う、うん、ちょっと前に会ったしね」

 にこりと笑われる。 よかった、ふつうにしてくれてる。 ほっとしていると松川くんがまだじっとわたしの顔を見ている。 何かついてるかな? そう思うくらいに。 少しどきどき、してるけどしていない、していないふりをする。 松川くんとの間にしばらく沈黙が流れたけど、はっとしたように松川くんが目をそらしつつ「じゃあ」と言ってくれたことで解放された。 自分から言う勇気がなかったからほっとする。 それに笑って「うん、じゃあね」と返す。 そのとき見えた松川くんの横顔が、なんだか気になってしまったけど聞く勇気はなかった。
 わたしって不器用だなあ。 自分でそう分かっている。 部活を頑張って、勉強を頑張って、毎日を頑張って。 そうやって過ごす中で松川くんとお付き合いするだけの余裕をわたしは失っていった。 松川くんと一緒に過ごす時間がほしい。 けれど、松川くんと過ごす時間を作るためには練習時間を削らなくちゃいけない。 恥ずかしくて休み時間に松川くんに会いに行くことすらできないくせに、練習時間を削るなんてことできるわけがない。 いつもいつも会いに来てくれる松川くんの顔を見るたびに少しずつ首が締まっていくような感覚があった。 松川くんはこんなにもわたしを大事にしてくれるのに、と。 そうしてある日、ぷつっと糸が切れたように思った。 わたしって、松川くんにとって、邪魔なだけなのではないだろうか。
 はっとする。 違う、違う、いまはそういうことを考えている場合じゃない。 さっきの試合、一歩を踏み出すのがほとんどすべての場面で遅かった。 もっと早く動けたはず。 ブロックフォローも全然できていなかった。 Aパスだけできてもだめなんだ。 気を引き締めないと。 三年生。 今年が最後。 絶対にレギュラーとして試合に出たい。 あの子のほうが実力があるし実績もある。 それでもわたしにだってプライドとか意地とか、そういうのがある。 頑張らなきゃ。
 松川くんのことをかき消すように、ぱちんっと自分の頬を叩く。 きゅっと噛んだ唇が痛い。 きっと怖い顔をしているのだろう。 でも仕方ない。 今はたった一秒でも、気を抜いていられないのだ。

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