あ、これ、恋だ。 自分でそう気が付いたのは高校一年生の春が終わりかけていたころだった。
 厳しい部活の練習に疲れ果て、もうサボってやろうかと思っていたとき。 重い足取りで体育館へ向かっていた俺は、何の気なしに中庭のほうを見た。 そこには美化委員らしき女子生徒が一人で何かをしていた。 何をしているんだろうと不思議に思って歩きつつ様子を見ていると、その女子生徒が手に小さなスコップを持っていることに気が付く。 それをなぜだか恐る恐るどこかに向けながらそうっと歩いていた。 ますます何をしているのか意味が分からない。 さらによく見てみると、そのスコップには少量の土が乗っている。 女子生徒の横顔を見てみたら、なぜだか泣きそうな必死な顔をしていた。

「ご、ごめんね、ごめんね、でもわたし、花壇の掃除しなきゃだめだから……」

 そう何かに話しかけている。 変な子。 そう思いつつ、よーくスコップを見る。 そしてようやくそこに土と一緒に小さな芋虫が乗っているのを見つけた。 そうしてようやくその子が何をしているのかを悟る。 きっと美化委員の仕事として花壇の手入れを任されているのだろう。 いざ仕事に取り掛かると花壇に芋虫がいて、女子生徒はきっとそれが苦手だったのだ。 けれど、殺すことはできないし人に頼もうにも周りに誰もいない。 怖いけれど仕事をするためと殺生を避けるため、泣きそうになりながらも芋虫を別の場所へ逃がそうとしている。 きっとそういう場面にちがいない。
 まあ、女の子って虫が苦手な子多いしなあ。 内心そう思いつつ、ここで自分が声をかけたらきっと驚くだろう。 そう思って声をかけずに通り過ぎようとした。 けれど、次の瞬間、その女子生徒がこちらが驚くくらいの悲鳴を上げた。 背けかけた視線を再びそちらに戻すと、どうやら芋虫が自分のほうへ動いてきたらしい。 スコップを離してしまった女子生徒はパニック状態だった。 「ご、ごめんね、落としちゃった」、「どうしよう、どうしよう、自分で逃げてってくれないかな」、などなど。 女子生徒は周りに誰もいないのに、まるで誰かに話しかけているように独り言を繰り返す。 あまりの怖がりっぷりに、さすがに見て見ぬ振りができなくなる。
 そうっと近付いて、女子生徒が落としたスコップを拾い上げる。 女子生徒は想像通りひどく驚いていたが、俺の様子を見るとどうやら何をしているのかが分かったらしい。 拾い上げたスコップの下にいる芋虫をまたスコップですくい上げる。 そのまま花壇から離れた茂みのほうへぽいっと投げた。 振り返ってスコップを手渡しつつ「はい」と声をかけたら、女子生徒は「あ、ありがとう、ございます」と放心状態で言葉を返してくれた。 放心状態だったけど、ひどく安心したような顔だった。
 こつん、と何かが何かにぶち当たったような感覚。 軽い星が頭に当たったような、鋭い針が心臓に刺さらんばかりにぶつかってきたような。 そういう感覚だった。 俺にもよく分からないけど。
 それが、俺との出会い。














「ねえ、このミノムシすごく邪魔なんだけど」

 若干笑いを含んだ及川の声にイラッとしつつも黙る。 及川の声に花巻が真っ先に反応し、「仕方ないだろ、今日くらい許してやれって」とこれまた笑いを含んだ声で返した。 それにもイラッとしつつも黙っている。 岩泉は「つーか、俺のロッカー開けらんねえんだけど」と言いつつ俺の頭を軽く叩いた。 それはすまんかった、すぐに退きます。

「まあまあ、そんなに落ち込まなくてもさ」
「そうそう。 次行こうよ、次」
「なんかあったのか」
「え、岩ちゃん知らないの? まっつんね」

 ニヤニヤ笑ってるの分かってるんだからな、及川。 だいぶイラッとした。 及川の足を軽く蹴ってやると、花巻が「これは重傷だわ」と苦笑いをこぼす。

「一年片思いしてやっとの思いで付き合えた彼女にフラれたんだよ〜」
「しかも記念日にな」

 及川と花巻、マジあとでぶっ飛ばす。 こいつらに話したつい数時間前の自分をぼこぼこに殴り倒してやりたい。 とくに及川、自分も彼女にフラれたからって必要以上に仲間認定しやがって、くそ。
 岩泉が興味なさそうに「へえ」と答える。 及川はそれに「岩ちゃんらしい反応だね」と笑った。 まだ後輩たちは来ていない三年だけの空間だ。 誰もが俺の話を笑ったり同情したりしている。 いや、マジでそういうのいいんで。 内心そう思いつつ、部室へ来てからずっとミノムシとして黙って佇んでいる。 後輩が来たらさすがにこんなことしてられないけど、いつもみたいにできる自信は一切ない。
 高校三年生の夏前。 松川一静、はじめての彼女に、一年記念日である本日、別れを告げられました。 それはつい数時間前の出来事なのに遠い昔のように感じてしまうくらい、現実味がなくて。 いや現実味がないというよりは現実だと思いたくなくてそう感じてしまうのかもしれない。 あまりにも信じ難くて。
 そりゃね、はじめての彼女だし俺はただの高校三年生の子どもなわけで。 きっと至らない点だってたくさんあったと思うんですよ。 部活が忙しくてろくにデートもできなかったし、一緒に帰るなんてことは幻想だったし。 あと相手も女子バレー部員でしてね、余計に時間を合わせるなんて厳しかったわけですよ。 ふつうの高校生が思い描くような嬉し恥ずかし青春ライフではなかったと思うんですよ。 でも。 それでもですよ。 一年間片思いした相手だったし、付き合えるってなったらもっと好きになったし。 至らない点の多い俺なりにできることはしたし、できるだけ時間を作る努力はしてたんですよ。 だって好きだから。 一緒にいたいし、一緒に何かしたいし、あわよくばって気持ちも正直なところいつでもあったわけですよ。 それなのにですよ。

「今は部活のほうが大事、って結構キッツイよね〜」
「まあ三年だし仕方ないっちゃ仕方ないけど」
「あ? 松川の彼女って運動部なのか?」
「嘘でしょ岩ちゃん知らないの?! 女バレのだよ!」
「マジか」
「マジか、はこっちの台詞なんだけど?!」

 岩泉が俺を見て「全然気付かなかったわ」と少し興味を示した。 何を隠そう、男バレ部員で件のと一番はじめに仲良くなった、と思われるのが岩泉なのだ。 今でもと話している姿をよく見る。 今、というか俺と付き合っている間もと岩泉が仲が良いことはひしひしと感じていた。 どうも馬が合うらしく、岩泉が自分から話しかける数少ない女子の一人として及川が認識しているほどだ。 女バレ部員の何人かは、の彼氏は俺じゃなくて岩泉だと勘違いしている子がいたほど。 あれは今思い出しても腸が煮えくり返りそうなほどイラッとしたっけ。

「うまくいってると思ったんだけどなあ。 、何が気に入らなかったんだろうね?」
「松川はかなりいい彼氏やってたと思うけどな」

 花巻がそう言ってからぽん、と俺の肩を叩く。 「お前ならすぐまた彼女できるって」と慰めてくれているらしいが、正直そういうことじゃない。 次の彼女がほしいわけじゃない。 彼女にフラれたことに落ち込んでいるわけじゃない。 彼女なんて曖昧な存在じゃなく、にフラれたということが俺にとってはミノムシになってしまうほどに、ショックなのだ。

「岩ちゃん、とよく話してるのに気付かなかったの? まっつんの話とか聞いてたでしょ?」
「いや、これっぽっちも。 聞いてたらさすがに気付く」

 傷口に塩を塗り込むの、やめてもらっていいですかね。 岩泉のはわざとじゃないだけにナチュラルに傷付く。 あとの二人は他人の失恋を今日の肴と言わんばかりのからかいようだからふつうに殴る。
 一年とちょっと前。 花壇で芋虫に怯えると出会った俺は、それまで感じたことがないくらいにきゅんとしていた。 ただ芋虫を逃がしただけなのに、命でも救われたくらいにほっとしていた顔。 守りたい、この表情。 まさにそんな感じ。 どこかで聞いたことのあるフレーズがこんなに自然と頭に浮かぶ日が来ようとは。 どうにかして、なんとしてでも仲良くなりたい。 そう思うまでに時間はそんなにかからなかった。
 正直なところ、女の子に自分から声をかけるのは得意ではない。 俺だってふつうの男子高校生なわけで、ふつうに用もないのに声をかけるのは本当に勇気のいることだった。 見た目のせいで女の子に慣れてるとかなんとか、好き勝手言うやつがいるけど本当にただの高校生なもので。 一年生のころ、クラスが違うに話しかけるのは至難の業だった。 と同じクラスにいる岩泉に用事があるように振舞い、自然に話しかけられないかチャレンジしたっけなあ。 結局岩泉と話して終わっていたなあ。 最終的にはじめて会った花壇のところでが作業しているのを見つけ、めちゃくちゃ平常心を保ちながら話しかけたのだ。 も俺を覚えてくれていて、「あのときはどうもありがとうございました」と自然に会話をしてくれたので助かった。 そこから俺はになんとか話しかけられるようになったのだ。

、レギュラー争い中でしんどそうだしそれどころじゃないんじゃねえの」

 岩泉がさも当然のように言った言葉に思わず顔をあげてしまう。 なにそれ、俺知らないんですけど。 が女バレのリベロをレギュラーで務めている、と俺は認識していた。 実際新人戦はそうだったし、他の練習試合もそうだった。 そこまで思い出して、あ、と思った。 そういえば一ヶ月ほど前の練習試合から、の口からバレー部での話を聞いた記憶がない。

「一年に上手いやつがいるんだと。 中学のときにベストリベロ賞取ったとかなんとかっつってたな」

 全部初耳なんですけど。 青葉城西の女子バレー部も男子部に負けず劣らず強豪で、レギュラー争いは激しい。 男子部も今年入って来たばかりの一年生が何人かレギュラーに加わりそうな雰囲気がある。 それは女子部も同じことだと思うのだ。 けれど、それがまさかのポジションで起こっていたなんて、まったく知らない。

「一昨日、練習試合してただろ。 そこでその一年がスタメンで出たっつって、昨日へこんでた」

 岩泉がとてつもなく自然にそれを口にする。 俺よりよっぽど、岩泉のほうがのことを知っていた。
 心が折れるってこういうことなのでしょうか。 あまりのショックに呼吸の仕方さえ忘れそうなほど、今の俺は無力でちっぽけな人間だ。 なんだそれ。 なんだそれ。 なんでそれ、俺には話さないのに岩泉には話すの、。 仲が良いからですか。 お友達だからですか。 でも俺、一応彼氏だったよね? ふつうお友達より彼氏のほうがそういうの、話し相手にしやすいのではないでしょうか。 というかちゃんと彼氏だったのかな、俺は。 に「付き合ってください」って言った日のことは一生忘れない。 死ぬほど緊張したし、正直ちょっと心臓止まってた気がする。 はちゃんとそれに「はい」って言ってくれたよね、忘れるわけがないよ。 うん、俺、ちゃんと彼氏だったじゃん。 うわ、今の、ナチュラルに自分で過去形にしちゃうのめちゃくちゃ悲しいね。 セルフでへこむな、俺。

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