陸ノ型 電轟雷轟
 煙溺の意識が俺から外れた。月明かりに照らされた煙がゆらゆらと不気味に影を成す。その様はまるで笑っているようで、気味が悪い。煙を蠢かせてただただ見下ろしていた。それを見上げるはひどく怯えた様子で、ほんの少し足が震えている。パジャマ姿のは恐らく煙が見えて思わず追いかけてきてしまったのだろう。ただの好奇心だったとしても、それが憎くてたまらなかった。なんで来るの。危険かもってふつう、思うでしょ。来ないでしょ、こんなところにさ、ねえ。なんでよりによって来たのが、なんだよ。呼吸を抑えてそう憤る俺を嘲笑うように、煙溺は辺り一帯に煙をまき散らして、喜んだ。

「見つけた、見つけた、あのときの女だ!」

 煙がに降りかかろうとする。寸のところで体を引き寄せて転がり避けると、煙溺はそれでもなお笑い続けた。殺せる、ようやく殺してやれるぞ。そう声にならない声が聞こえている。は訳が分からずただただ怯えていた。俺に何かを訪ねようとしてくるのを手で塞ぐ。息を吸わないでと伝えると余計に怯えた。そりゃそうだ、覚えてないもんね。ちょっとだけ笑ってしまった。不謹慎だけど。
 息が出来なくて苦しそうにしているを抱えて距離を取る。急いで息を吸わせてから、また襲い掛かってくる煙をすべて薙ぎ払っていく。斬れないものは死なない。を庇いながらずっとそうやって煙溺の隙を待ち続けた。
 に呼吸をさせてはまた耐える。それを繰り返していくうちに、ご機嫌だった煙溺が再び苛立ってきたのが分かる。体のところどころから血が出ていた。受け止めきれなかった煙で切れたのだろう。呼吸を抑えているから苦しい。を庇うのでほとんど手一杯で、先ほどまでの余裕がなくなっていく。ここからを安全な場所へ逃がすにはどうすればいいか。こいつを殺すことよりもの身の安全のほうが優先だ。走って逃げてもすぐに追いつかれる。庇って戦い続けても勝機が未だに見えない。煙溺が再び空へ舞い上がった隙に呼吸を整え、を振り返る。

「あ、あの……」
「なんでここに来たの」
「え?」
「なんで来ちゃったの? こんな危ないところにわざわざ。なんで来たのさ!」

 声を荒げた瞬間、ほんの少し煙の臭いがした。すぐに呼吸を止めたが遅かった。少量の煙を吸い込んでしまった。体の中で煙が動いているのが嫌というほど分かる。吐き出そうと思いっきり咳いたが出て行かない。次第に脇腹がふつふつと熱を持ち始め、肉が裂けるように血が飛び出た。少量を吸い込んだだけでこの威力。あの日、煙溺のほとんどを飲み込んだはどれだけ苦しかっただろうか。そう思うと刀を握る手に力が入る。あまりの少量だったため脇腹を裂かれただけで済んだが、確実に不利な状況であることに変わりはない。脇腹を押さえながら煙を払い続けていると、の様子がおかしいことに気が付いた。呼吸の音が一切聞こえない。抑えているのかと思って気にしていなかったが、あまりにも聞こえなさすぎる。恐る恐る振り返ると、目を見開いて固まっていた。ほんの少しだけ体が震えている。口の端から煙が溢れていた。

さあ、斬るがいい、あのときと同じように、斬ってみろ鬼狩り!

 どこからともなく奴の声が聞こえる。俺が必死に払っていた煙が集まるようにの口に入って行く。体は崩れていない。煙溺はあの日の再現をしようと遊んでいる。斬っても恐らく煙溺のことは斬れない。首に刀が刺さった瞬間に煙となって消えるに違いない。
 手が震えた。あの日みたいに。切先が同じように情けなく震える。斬れない。もう斬れない。のことをもう二度と斬りたくない。ずっと夢に見た。を斬ったあの瞬間。感覚。すべてが鮮明に夢に現れた。人間を斬った。を斬った。その悪夢を繰り返し見続けていた。もう同じことは死んでも起こさない。
 ではどうすればいいのか。考えても出てこない。相変わらず壱ノ型しか使えない俺は首を落とすくらいしかできない。考えても考えてもあの日、の首が落ちた光景しか思い出せない。息がつまる。
 の瞳がしっかりと俺をとらえた。見開かれた目が少しずつ閉じていく。そうして目が閉じた。しばらく目を閉じたままのの顔を眺めていると、煙溺が高笑いをした声が聞こえる。俺の絶望を笑っている。分かる、俺も笑えそうだから。なんでまた俺、を斬らなきゃいけないのさ。どうしてだよ。記憶なんてなければよかった。何も覚えていないままでいたかった。そうしたら、こうして、と再会することもなかったのに。
 ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。ああ、嫌だ。が死ぬのが嫌だ。でも俺が斬らなきゃは死ぬのに煙溺は死なない。俺が斬ったら煙溺は死ぬけど、も死ぬ。どうすることもできない。あの日から抜け出せないまま、俺の刀は迷っていた。
 音が止んだ。先ほどまで聞こえていた煙が漂う音、の心臓の音、気色悪い煙溺の声。すべてが止む。の目がこちらをしっかり見つめていた。明らかに意図的に呼吸を止めているのが分かった。口をしっかり閉じて、は何かに耐えていた。次の瞬間、の口から一斉に煙溺が飛び出してくるとともに、が走った。俺が知っている記憶の中の速度で俺の目の前に来ると、「貸して!」と叫びながら俺の刀を持っていく。
――雷の呼吸 伍ノ型 熱界雷
 が切り上げた刀の勢いに乗って煙溺の煙が巻き込まれるように上へ飛ばされていく。の口から血がもれたのが見えた。そんなことに構わずは刀をそのまま手放すと、俺の手元に刀が落ちてくる。

「善逸!」

 声色が変わった。この前会ったときとは違う、あの日とも違う。もっともっとよく知った声だった。

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