弐ノ型 稲魂
「シケた面してんじゃねえよ。じいちゃんが心配するだろうが」

 どかっと足を蹴られた。「いってーな!」とやり返すと舌打ちをして再び「黙れ、うるせえ」と足を蹴られる。獪岳は作業着のボタンを外しながら「朝から晩までビービーうるせえやつだな、ちったあ黙ってろ」と呟いた。そのまま俺の横を通り抜けて自分の部屋へ戻っていく。その後ろ姿に、ほっとするんだ、いつも。まあ少しくらい思うこともあるけどね。「じいちゃんなんて呼ぶな」ってあんた言ってたのにね、とか。死んでも口にしないけど。
 獪岳は俺より五歳年上の、血のつながらない兄弟だ。高校を卒業してからすぐに町工場に就職して働き出した。こっそり職場を覗きに行ったことがあるけど、そこには鬼殺隊関連の人は一人もおらず、ほっとしたのを覚えている。仲は良くはない、けど悪くもない。喧嘩してじいちゃんに怒られる毎日だけどあのときとは違う。ちゃんと話ができる。話しかければ言葉を返してくれる。それだけで俺には十分すぎることだった。
 じいちゃんは遠い親戚である獪岳が両親を亡くしたのを引き取り、一人では寂しいだろうと俺を施設から引き取ったと聞いた。何人かいた孤児の中から俺を選ぶとか、じいちゃんあまりにもすごすぎない? そのときは俺はまだじいちゃんがじいちゃんだって分かってなかったけど、選ばれたときすごく嬉しかったのを覚えてる。この人なら大事にしてくれる、って直感で思ったんだ。

「善逸」
「あ、じいちゃん! おかえり!」
「獪岳はもう帰ったか?」
「うん、ついさっき帰って来たよ!」

 そうか、とじいちゃんは少し笑ってゆっくり椅子に座る。「お茶飲む?」と聞いたら「淹れてくれるか」と言ったので、じいちゃんの湯呑を手に取った。幸せだなあ。俺、これでもう十分だよ。十分幸せだ。これ以上は何もいらない。何もいらないから、どうか、どうか神様、このまま二人が何も思い出さないように、してください。毎日そう祈る。夢を見ないように。何も見ないように。今だけを見てくれるように。
 着替えた獪岳がリビングに降りてくる。じいちゃんに「ただいま」と言うとじいちゃんが「今日もご苦労様だったな」とその腕をぽん、と優しく叩いた。獪岳は「ガキじゃねえんだから」と言ったけど、少しだけ嬉しそうに見えた。




▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 鬼は夜に出る。それは昔と変わらない。自分の部屋の窓からこっそり家を抜け出す。玄関から出ようと思うと獪岳の部屋が近い上、じいちゃんの部屋を横切らないといけないからだ。二人に見つからないようにいつもこうして部屋の窓から出て行く。家の敷地から出てしばらく走ると、炭治郎の姿が見えてきた。

「善逸!」
「もう最近任務多すぎない? 死ぬよそのうちにさあ」

 現代の鬼殺隊は鎹烏じゃなくて、スマホで伝令を送ってくる。どういう仕組みかは知らないけど、電源を切っていようが電波のないところにいようが届くのだから逃げることもできない。内容は場所と簡単な概要だけなので行ってみないとどういう任務か分からない。大体はその近辺で謎の失踪が相次いでいるとか、誘拐されたような形跡がある未解決事件が発生したとか。そういう内容ばかりなので鬼の仕業じゃないことも多くある。今日は俺と炭治郎二人での任務らしく、行先は隣町だった。
 電車もバスも動いているわけがない時間帯。炭治郎と話をしながら急ぎ足で隣町へ向かう。今回の伝令は隣町のとある区域で三日連続で女の子がいなくなっている、というものだ。中学二年生の子からはじまり小学四年生の子、そして昨日は大学一年生。年齢がバラバラだけど全員隣町に住んでいる女の子で、警察も一応関連付けて捜査はしているらしい。目撃情報もなければ何の痕跡もないそうなので捜査は困難を極めていると詳細に書かれていた。
 隣町に入った途端、気味の悪い音が聞こえた。炭治郎も同じく何かの匂いに反応しているのが分かる。これは、まさしく鬼の仕業で間違いない。刀を抜くために手を腰のあたりに持っていく。右手をぐっと握った瞬間、その手に刀が現れた。これは鬼殺隊から支給されているブレスレットとか指輪とか、本人が好きな形を選んで身に着ける装置によるものだ。俺はミサンガ、炭治郎はピアスに装置が組み込まれている。現代で刀なんて持っていたら大騒ぎどころの事態じゃないから、隠すための装置を何とか開発したらしい。仕組みはまったく分からないけれど。
 刀を抜いて走ると、その先に花屋が見えてくる。炭治郎が言った「鬼の匂いだ!」と。よく見れば花屋の前に一人で立ち尽くしている男がいる。こちらをゆっくりと振り返ると、びきびきと嫌な音を立てて顔が砕けた。

「鬼狩りか、クソが、ここの娘を待っていたというのに邪魔に来たか」

 長い爪が勢いよくこちらへ伸びた。斬り伏せようとしたが斬った傍からすぐに伸びる上に自在にその角度を変えられるらしい。寸で避けると爪が鬼のもとへ戻っていく。いつの間にか鬼の背後にいた炭治郎が刀を振るうが軽々避けられる。続けて斬ろうと俺も刀を振るうけど、それも避けられた。
 前世の記憶での俺はなんとも情けない剣士だった。鬼を見れば泣いて喚いて嫌だ嫌だと駄々をこねる。恐怖が限界に達すると気絶するように眠り、ようやく刀を抜ける。そんな自分に呆れつつも、こんなの怖くないほうがおかしいだろ、と思ってしまう。今の俺は、過去にもっと強くて怖い鬼とたくさん会っているから、気絶まではしないけど。

「善逸!」

 炭治郎が鬼の脇腹に刃を立てる。鬼が喚いた瞬間に隙が生まれた。一直線に刀を振るえば、ぼとりと鬼の首が落ちる。しばらくすると鬼は燃え尽きるように消えていった。

「任務完了ってことで」
「……いなくなった子たちは、もう」
「炭治郎」

 肩を叩く。炭治郎はぐっと唇を噛んでから「ああ、帰ろう」と笑った。刀をしまって踵を返そうとした瞬間、「てめーら不審者か!!!」と大声が響き渡る。その声は確実に聞いたことのある、ものすごく懐かしい声だった。

「人ん家の前で何してやがる! お前らがあれか! この辺の女攫ってる不審者か!!」
「……伊之助……伊之助!!」
「あ?! なんで俺の名前知ってやがる!!」

 伊之助だった。俺たちがいる花屋の隣の家、の二階から顔を出してわーわー騒いでいる。その雰囲気、声には一切変わりはないが、口ぶりからして記憶は戻っていないらしい。当たり前だけど猪の頭を被っていなくてほっとしたのは内緒にしておく。炭治郎は泣きそうな顔をして必死に伊之助に話しかけているけど、記憶がない伊之助からすればただの不審者だ。「てめーらそこで待ってろ! 俺が捕まえてやる!!」と二階から飛び降りた。俺のほうが変な悲鳴が出たわ! 相変わらず破天荒のようだ。こちらへ勢いよく走ってくる伊之助は「てめーら、まさか」と怒りに震えている。昔ほど耳が良いわけじゃないけど、少しはその名残りがある。そんな俺の耳には伊之助から激しい怒りの音がひしひしと伝わって来た。伊之助が噛みつくように何かを言おうとした瞬間、「こら伊之助! 近所迷惑でしょ!」と、女の子、の、声、が。

「うるせー黙ってろ! 今度はお前が連れ去られっかもしれねえんだぞ!!」
「縁起でもないこと言わないで。それよりもご近所さんから苦情来ちゃうから、ちょっと静かにしなってば」
「ああ?! こいつらがお前んちの前うろうろしてっから怪しいだろうが!!」
「だから……」
「お前は隠れてろ! こいつらは俺が仕留める!!」

 花屋の二階の窓からこちらを見下ろしている女の子。伊之助に必死に声をかけている。最終的に「もう! 言うこと聞かないんだから!」と言って、引っ込んでしまった。その数秒後、花屋のドアが開くと女の子が飛び出してきて、伊之助を取り押さえるように抱き着いた。

「すみません! 決して悪い子じゃないんです! ちょっと頭が悪いだけで!」
「なんだとォー?!」
「うるさいから黙ってて! 本当にすみません、不審者なんて失礼なことを!」

 ぺこぺこと頭を下げている。俺は、言葉が出ず、ただただ固まるしかできなかった。炭治郎は「あ、いや」と控えめに言いつつ、ちらちらと俺の様子を窺っていた。

「本当にすみません。わたし、と申します。伊之助はあの、幼なじみで……」
「てめーなに不審者にフツーに自己紹介してんだコラァ!」
「もう!」

 ゴッ、と拳が伊之助の頭にぶつかる。「イッテェー!!」と伊之助が叫んだところで、伊之助が出てきた家の玄関が開いた。母親らしききれいな女の人が伊之助をぽかぽか叩きながら「ごめんなさいね、うちの子ちょっと頭がね」と笑って、伊之助を引きずっていった。、はそれを見送ってからこちらを向き直って深々と頭を下げる。「本当にごめんなさい」と謝るそれにも、俺は反応できないままだった。代わりに炭治郎が「あ、いえ! こんな夜中にうろついてる俺たちが悪いので」と言葉を返してくれた。、は「ここ最近物騒なので、伊之助がなんでかピリピリしているみたいで」と苦笑いしながら頭を上げる。目が、合った。

「……?」
「あの、さん、何か……?」
「あ、いえ、すみません。なんだかどこかで会った気がして」

 びくっと肩が震えた。怖い。幸せが壊れる音がする。、からは幸せな音が聞こえていた。伊之助を叱りつけているときも、今も。でも壊れる音がどんなものか、すぐに想像できた。怖い、壊してしまう、俺が。また。
 炭治郎がぱっと俺の前に出てくれて、「ここ最近物騒だって聞いたので、ちょっと気になってしまって」と言う。それを聞いた、はちょっと驚いた顔をして「危ないですから、警察の方に任せたほうがいいですよ」と心配そうな声色で言った。
 帰り道、俺は一言も話せなかった。炭治郎もそれを分かってくれて言葉を無理やり引き出そうとはしてこなかった。無言のまま合流した場所で分かれ、俺はそのまま家に帰った。
 だめなんだ。思い出させちゃだめなんだ。じいちゃんも、獪岳も、も。思い出しちゃ、だめなんだ。全部俺が、だめなんだ。窓から部屋に入ってすぐに蹲ってしまう。吐き気が襲ってくる。煙の臭いがする気がして、震えてしまった。情けない。情けない。俺はこんなにも情けないままなのに、どうして思い出してしまったんだろう。ぎゅうっと拳を握りしめたら、ぷつっと皮膚が切れた感覚がした。

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