壱ノ型 霹靂一閃
 月がきれいな夜だった。見慣れたと言ってしまえばそうなのだけど、それでもきれいな月だったのを覚えている。きっと満月だったのだろう。それくらいに明るい夜だった。けど、いくら明るくても鬼は出る。夜なら、どこにでも。
 握った刀が震えているのが分かる。いや、震えているのは刀ではない。俺の手だと頭では分かっている。けれど、震えを止められない己の手が恐ろしく、刀が震えているのだと思いたくてならないのだ。

「震えているぞ、なあ、震えているぞ鬼狩りよ。哀れなことよなあ」

 目の前にいる鬼の傍らに横たわる数人の亡骸。すべて鬼殺隊の隊服を着ている。全員血を一滴も流さずに死んでいた。その亡骸が徐々に灰になっていくと、どんどん鬼に吸収されていく。鬼の体からは煙が出ていて、長くあの煙を吸うと人間にとっては毒なのだろうと想像はできた。鬼は煙を操りながら弄ぶように俺を崖の端っこへ追い詰める。もうこれ以上後ろには下がれない。反撃しようにも、鬼は本体を隠しているのか何度斬っても煙を斬るだけ。耳を澄ましても他に音は聞こえてこない。

「良い。毛の色がきれいだ。喰うに値する色をしているぞ、喜ぶがいいぞ、鬼狩り」

 にたり、と笑う。喜ぶわけがない。自分の体の奥から妙な音がする。煙をそれなりに吸ってしまったのだろう。血鬼術を早く見抜けなかった俺の失態だ。このまま少量でも吸い続ければ俺も灰になる。けれど逃げられない、首を斬れない。どうすれば。
 そう考えている俺の耳が音を拾った。誰かが向かってくる音だ。足音。救援か、柱が来たのか? 鬼もそれには気付いているようで「女の足音だぞ、喜べ鬼殺の隊士よ。呼吸が女のものだ」と笑う。後ろも振り返らない余裕ぶりに唇を噛んでしまった。
 刹那、鬼に誰かが飛び掛かった。月を背に刀を振るう彼女を俺は、誰よりも知っていた。





▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 はっと目を覚ますと額や首、体全身から恐ろしい量の汗をかいていた。気持ちが悪い。不快感を抱きつつ起き上がると、カーテンの隙間から眩しすぎる日の光が入り込んでいた。
 太陽の光を見るとほっとする。夜は、たまに怖いから。




▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「善逸、遅かったな」
「いや炭治郎が早いんだよ……」

 とある場所にあるとある部屋。情報を一つも言えないのはいろいろわけがあるからだ。部屋にはすでに数人集まってきている。炭治郎の隣に座ると前に座っていた人がくるりとこちらを振り向く。

「お久しぶりですね」
「…………えっ?! 胡蝶しのぶ、さん?」
「ええ、当たりです」

 にこにこと笑うその人に驚いてしまった。胡蝶さんは「もう一人いますよ」と言って隣に座っている子の肩を突く。くるりとこちらを向いたのは栗花落カナヲちゃんだった。ぺこりと小さく会釈されたので「久しぶり」と声をかけるのだけど、なんだか様子がおかしい。どうしたものかと首を傾げていると、炭治郎が苦笑いしながら「昨日思い出したばかりなんだって」と言う。ああ、なるほど。そう納得してから「我妻善逸だよ。昔の知り合い」と笑えば、カナヲちゃんも小さく笑い返してくれた。
 前世の記憶、なんて言ったら大体の人が笑うだろう。「なんだそれ」と。俺だってそうだった。はじめて炭治郎と会ったとき、炭治郎が涙ぐんで抱き着いてきたものだから驚いた。炭治郎は必死に俺にいろいろな話をしたけれど、俺は苦笑いして「え、なにそれ?」と返したんだ。あのときの炭治郎、とても悲しそうな顔をしていたなあ。けれど仕方がなかったんだ。あのとき俺は、記憶なんて何も思い出していなかったのだから。

「あの子はいないんですか?」
「あの子?」
「あ、あの、しのぶさん……」
ちゃんですよ。我妻くん、いつも一緒にいたじゃないですか」

 何の他意もない言葉。そうだ、胡蝶さんは知らないから仕方ないのだ。いや、触れないでほしいと言ったことはないのだけど。胡蝶さんはあの出来事が起こる前に、あの時代では、死んでしまったから。
 。胡蝶さんが言った名前は、俺が誰よりも覚えている。鬼殺隊の記憶がなかったときでさえ、その名前だけはなぜだか覚えていた。ずっと探していた、ような。なくしてしまった大事なものをずっと探している、ような。よく分からない感覚が怖くて子どものころは忘れよう忘れようとした名前だ。
 俺のに関する最後の記憶。満月がきれいな夜、が灰になって消えてしまう、記憶。俺を庇ったんだ、鬼から。の手を握ろうと必死に手を掴んだけれど、ぼろっと灰が崩れて宙に流れていく。その光景を思い出した瞬間、何もかも口から出て行った。食事を受け付けなくなり、眠れなくなり、死のうとさえ思った。俺のせいで死んだんだ、は。俺が殺したんだ。

「……ごめんなさい。よく事情は分かりませんが、思い出させてはいけないことだったんですね」
「え、あ、いえ、大丈夫、です」

 力なく笑う。それを見た胡蝶さんは「無理をしなくても分かりますよ。カナヲと同じ顔をしているので」と言った。ああ、そうか。きっと思い出した瞬間、カナヲちゃんも似た表情を浮かべたんだろう。目の前で大好きな人が朽ちる記憶。そんなもの、誰だって思い出したくなんかない。炭治郎だってきっとそうだ。今も唇を噛んでいる。胡蝶さんもだけど。変な空気になってしまった。俺のせいだ。そう無理やり笑って「そういえば今日は何の集まりなんですか?」と聞いてみる。胡蝶さんは少し困ったように笑ってから「いつもの定期集会でしょう。変わった動きはないと聞いていますし」と教えてくれた。
 鬼殺隊。かつて俺も所属していた組織は現代まで残っている。長く組織が存在していることは喜ばしいことではない。まだ残っている、それはまだ目的を果たせていないのと同義。記憶を思い出すまで鬼なんていうものがこの世にいるなんて思ったこともなかった。でも、思い出してからもまさかこの時代にも鬼がいるなんて、思いもしなかった。
 そんな俺に鬼殺隊がまだあることを教えてくれたのは炭治郎だった。生まれたときから記憶が残っていたという炭治郎は、あのときのまま鼻が利いた。鬼の匂いも覚えていたからこの時代にも鬼がいること、恐らく鬼殺隊もあるであろうことを推測できたという。記憶に残る人の匂いを辿って鬼殺隊にたどり着いたという炭治郎に、「もう鬼殺隊に入った当初の理由はないのにどうして?」と聞いたことがある。あのときの炭治郎は鬼になってしまった禰豆子ちゃんを人間に戻すために鬼殺隊に入ったと言っていた。まさかこの時代でも、と思ったけど「禰豆子はちゃんと人間だよ」と笑って教えてくれたっけ。禰豆子ちゃんに記憶はないらしいのだけど、この時代でも兄妹として生まれることができたと喜んでいた。なんとか鬼殺隊に入った炭治郎から、鬼殺隊の存在を教えられ、なぜだか入隊していたわけだけど。思った以上に前世の記憶を持って生まれ変わった人が多くて驚いた。もちろん記憶がない人もいるけれど。

「そういえば竈門くん。冨岡さんはその後どうですか?」
「全く……。何も思い出していないみたいで、相変わらずです」

 炭治郎の親戚として冨岡義勇さんは生まれ変わっているという。炭治郎がいくら積極的に話しかけても「なんだそれは」という反応しかしてくれないそうで、思い出す素振りは一切ないらしい。そのやり取りを聞きつつ、こっそりと、そんなに思い出させなきゃいけないのかな、と思ってしまう。
 記憶が戻ったとき、のことはもちろん、じいちゃんや獪岳のこと、たくさんのことが一気に頭を巡った。取り乱す俺を落ち着かせようと声をかけ続けてくれたのが、じいちゃんと獪岳だった。笑えることに俺はこの時代でも親に捨てられていて、施設にいたのをじいちゃんが引き取ってくれたんだ。そこに、これまた笑えることに獪岳がいた。二人とも何も覚えていなかった。二人の顔を見て瞬時に思った。「思い出させちゃいけない」、と。どちらが思い出してもこの幸せな生活が崩れてしまう、そう思った。それから俺は二人があのときのことを思い出さないように、炭治郎や鬼殺隊関係者に会わせることはもちろん、自分からそういうような話をすることもしないと誓った。
 思い出したら楽しかったこととか嬉しかったことももちろん思い出せる。けれど、あの時代を生きた俺たちにとって、記憶の多くは悲しいものであったりつらいものであったりするのではないだろうか。そう思えてならないのだ、俺は。

「久しいな、竈門少年!」
「れ、煉獄さん?!」
「覚えていてくれて嬉しいぞ!」

 豪快に笑う。煉獄さんも前世の記憶を最近思い出した一人だった。その上驚きのスピードで柱になった超人だ。俺の隣にどかっと座りつつ「我妻少年も久しぶりだな!」と相変わらずの声で言われる。何も変わらなさすぎて少し笑ってしまう。胡蝶さんも笑いながら挨拶していた。煉獄さんはこの時代でも大活躍しているようで、現代の鬼殺隊にも存在する柱になっていた。もちろん炎柱だ。柱の顔触れは少し俺が覚えているメンツとは違うけれど、宇髄さん、不死川さん、甘露寺さんはまた柱となっている。胡蝶さんは柱ではなく、胡蝶さんのお姉さんが柱になっていると教えてくれた。

「そういえば時透に会ったぞ!」

 その言葉に炭治郎が勢いよく立ち上がる。「本当ですか!!」と言う顔は嬉しそうだった。カナヲちゃんも、胡蝶さんも。俺だけが置いてけぼりだった。
 なあ、炭治郎。俺は怖くてたまらないよ。昔の記憶を持った人が大勢集まってくる。そこから何かがあふれ出して、じいちゃんや獪岳に及んだらって思うと怖くてたまらないよ。それから、どこかにいるかもしれないにまで届いたらどうしようって、ずっと怯えているんだ。そんな俺を臆病だなって、軽く笑ってくれよ。

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