目を開けるとそこはもともと派遣された先の隠岐国サーバの入り口だった。審神者はすぐに山姥切長義の顔を見る。真っ青になった顔色、山姥切長義はほんの少し苦しそうにしつつ「なんなんだ、一体」と呟いた。ゆっくり審神者を下ろすと刀を鞘に納める。一つ大きく深呼吸をしてから「仮の本丸へ一旦戻ろうか」と言った。
 審神者が山姥切長義の肩を支えつつなんとか仮住まいの本丸へと帰還する。政府からの連絡は一切ない。通常であれば一定時間経過したら政府から定期連絡がある、と手引書には書かれていたが。それがないということは政府にとってイレギュラーなことが起こっている、もしくは何かしらの策に嵌められているということだった。
 仮の本丸では満足に手入れをすることができない。体の所々を負傷している山姥切長義を完全には手入れできず、審神者はただただ唇を噛んだ。どうしてこんなことに。山姥切長義が言っていた言葉をよく考えると、もしかして、と思い至ることが審神者にはあった。政府が勝手に各サーバの審神者に順位を付けている。それで審神者は二年連続で一位となっていた。政府からはそれなりの報酬を与えられたし、純粋に喜ばしいことだと審神者は感じていた。だが、一つ気がかりなことがあった。別サーバで一位となっている審神者が、次の順位表にいないことが数回あったのだ。順位を落としたわけでもなく、引退したと聞いたわけでもなく。きれいさっぱり名前が消えていた。本丸が解体されたとかどうとか、そういう情報は別サーバである審神者の耳には入ってこない。不思議に思っていたが審神者は気に留めないようにしていた。もしかしたらあれが。時間遡行軍側からすれば、刀剣男士たちが手強く霊力の強い審神者のいる本丸は脅威でしかない。それを内側から消してくれるのであれば願ってもみない話だろう。
 山姥切長義を布団に寝かせたかったが、仮住まいには布団はなかった。審神者は「ごめんね」と声をかけつつ畳の上に山姥切長義を寝かせることしかできなかった。

「食料は無事かな」
「え?」
「ここに急に戻したということは、仮想空間で殺すことは諦めたということだと思う」

 審神者は急いで食料を確認した。すると、たくさんあったはずのそれがすべてなくなっていた。審神者は本丸システム内であったとしても、食べなければ餓死する。寝返った政府職員はそれを利用するつもりなのだろう。山姥切長義は「やはりか」と笑った。

「ああ、嫌だな。これだから人間は」

 山姥切長義の口から血が溢れる。ごほ、と咳をする山姥切長義に駆け寄って審神者はその体を起こし上げた。寝かせたままでは血がたまって苦しいだろうと思ってのことだ。山姥切長義は口から血を流してまた二、三咳き込むと大きく呼吸した。
 その瞬間、突然冷たい風が審神者の頬にぶつかる。先ほどまで特に暑くも寒くもなかったはずだ、と審神者は思わず空を見上げた。目に映ったのはどんよりと重たそうな雲。雨雲ではない。審神者がそれを見つめていると、しんしんと、雪が降り始めた。朝でも昼でも夜でもない、曖昧だった時間軸が急速に進んでいくと、冷え込みの激しい夜で時間が止まる。苦しそうに息をする山姥切長義を静かに抱きしめながら、審神者は覚悟した。ああ、きっとここで死ぬのだろう、と。
 山姥切長義をなんとか抱えて審神者は屋敷の奥へ進む。少しでも寒さから逃れようと思ってのことだ。山姥切長義もそれは分かっているようで何も言わなかった。部屋に着くとまず山姥切長義を壁際に座らせて「ちょっと待ってて」と声をかける。せめて何か布団のようなものはないかと審神者は辺りを物色する。しかし、座布団の一枚さえもどこにもなかった。本当に何もこの仮の本丸から、物という物が消え去っている。ただ、意味ありげに名もなき古びた短刀だけが台所に残されており、審神者はそれを首謀者からの「楽に死にたければこれを使え」というメッセージだと理解した。短刀を庭へ投げ捨て、ようとして審神者は手を止める。この短刀にもかつては主がいたのかもしれない。錆びていても何かが残っているかもしれない。そう思うと捨てることなど審神者にはできなかった。
 短刀は入れてあった棚に戻し、審神者は何の成果も得られないまま山姥切長義の元へ戻るしかできない。山姥切長義の手入れをしようにも、本丸のようにうまくいかない上に十分な休息と食事をしていないため、山姥切長義が全快するのはかなり先のことになる。供給がないものを無理に使い続ければ、審神者は体力を無くし死ぬだけである。山姥切長義は人間ではない。怪我をして、血を流して、苦しんでいても、本体である刀さえ折れなければ死なない。それは審神者の資格を持つ者であれば誰もが知っていることだし、例にもれず審神者も重々承知していた。だからこの状況、生存を考えて選ぶとすれば山姥切長義の手入れは後回しにするべきだとも分かっている。だが、審神者は、それを選ばない。
 山姥切長義を寝かせた部屋に戻ることにする。刀剣男士は、たとえば日頃の内番中にできたかすり傷などは自然治癒で治る。だが時間遡行軍の刃によって負った傷は、審神者にの霊力に頼らなくては治りが恐ろしく悪いのだ。いくら眠って安静にしていても治りの遅さは変わらない。それに拳を握り、一つ深呼吸をしてから山姥切長義を寝かしている部屋を覗く。

「長義」
「……ん、何か収穫はあったかな」

 弱弱しい声だった。審神者に気を遣わせぬようにと何とか気丈に振舞っている。体を起こすことはできないままでいるが、顔だけなんとかちゃんとあげている。審神者はそんな山姥切長義に駆け寄って「いいから、動かないで」と声をかける。山姥切長義は薄く笑いながら「情けない」と呟き、静かに目を閉じたままゆっくりと呼吸をした。審神者は屋敷の中には何もないことだけを伝える。短刀があったことは言わなかった。今の山姥切長義は怒ることさえ惜しいほど体力がないからだ。
 山姥切長義の横に腰を下ろしつつ、ゆっくりと手を傷に向ける。山姥切長義は「いい」と言ったが審神者の手を払う体力さえ残っていない。審神者が山姥切長義の言葉を無視して霊力に集中すると、山姥切長義は諦めたように「五分ごとに休憩を」と言ってため息をついた。
 言われた通り五分経ってから審神者が小休憩を挟む。そのときに山姥切長義の額にかすかに残る血を拭き取ろうとその肌に触れたとき、審神者は「あ」と声をもらす。山姥切長義は三条大橋に転送された際、川に落ちていた。そのことを失念していたのだ。転送されても戦場で受けた傷が治らないのと同じように、濡れた衣服は元通りにはならない。寒いこの中、山姥切長義の服が濡れたままであることを審神者はすっかり忘れていた。

「ごめん、長義、服のこと忘れてた」
「ああ……構わない。代わりのものもないし、どうせ死にはしない」

 山姥切長義はそう言うが、外は雪が降っており、しっかり服を着ている審神者でさえ寒い室内だ。濡れた服のままでは山姥切長義は凍えてしまうのは明らかだった。審神者は膝立ちしつつ山姥切長義の体を支え、ゆっくりと起こす。傷口が痛むのに山姥切長義は顔をゆがめたが審神者に気付かれないよう声は出さなかった。審神者は山姥切長義を壁にもたれかけさせると、まずいつも山姥切長義が身に着けている布を取る。どう留められているのかいまいちよく分からず取ろうと少し手間取っていると、山姥切長義が「金具を」を取り方を教えてくれた。どうにかこうにか布を取って畳んでそっと置く。それから苦労しつつも装飾のようなものやジャケットのような上着をなんとか脱がしていくと、ようやくシャツ姿にまで脱がすことに成功した。審神者は山姥切長義の服を一つ一つ丁寧に畳んで置いていたが、ここまで脱がしてもそのあとどうすれば良いかは思いつかないままだった。

「主、もういい。これで十分だ」

 ずる、と壁をつたうように山姥切長義が倒れ込みそうになる。それを審神者がなんとか受け止めると、はた、と審神者はようやく思いついた。思いついたままに審神者は、山姥切長義のシャツに手をかける。慌てた様子で山姥切長義が「これ以上はいい」と言うがその手を押しのけて審神者は山姥切長義のシャツを脱がした。山姥切長義はされるがままになるしかなく、「何なんだ一体」とぼやく以外何もできない。上半身裸にさせられた山姥切長義は「寒いんだが」と審神者に対して恐らくはじめて不満を漏らす。
 審神者はいつも羽織っている上着を脱ぐと、山姥切長義の肩にそれをかける。そしてそのまま山姥切長義のことを抱きしめると、「ごめん」と小さく漏らした。

「君に謝るべき理由はないよ」
「長義を選んだのは私だから」
「……君は、まだ刀剣男士というものを理解していないのかな」
「どうして?」

 審神者の首元に遠慮なく頬を寄せると、山姥切長義は笑った。

「主に選ばれて嬉しくない刀なんてないんだよ」

 肌が冷たかった。審神者はたしかに山姥切長義を冷たいと感じていたけれど、それが刀だからだとは思わなかった。彼は人間としてここにいる。審神者にはそれが嬉しくて嬉しくて、たまらず笑ってしまうのだった。

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