やっとの思いで頂上にたどり着いた二人だったが、そんな二人を嘲笑うように何の反応もないままに数刻が過ぎた。通常の出陣であれば所謂ボスや敵総大将などと呼ばれる存在を倒せば任務完了と判断され、自動的に本丸へ転送される。これは自動設定されているものであり、何らかのバグや人為的な作動がない限りは必ず発動するもののはずだ。だが、阿津賀志山の頂上に来ただけでは発動しないらしい。山姥切長義は一つ大きなため息をこぼしてから審神者に謝罪した。もちろん審神者はそんなことで山姥切長義を責めるわけもなく、二人とも途方に暮れるばかりになってしまう。
 どうしたものか、と審神者が立ち上がった瞬間だった。ぐらり、と視界が揺れる。この感覚は、と審神者が思い出すより先に、その意識はまたしてもどぼん、と水の中へ落ちるように暗闇へ飲み込まれる。阿津賀志山へ強制転送されたときの感覚だ。二度目とはいえ、出陣など経験のない審神者にとっては慣れない感覚のままだ。山姥切長義の姿がまたしても見えなくなっており、今度はどのように戦場へ転送されるのかを考えると少しの恐怖感が生まれる。刀剣男士たちを転送させるのとは違い、審神者という存在を転送させるのは難しいと政府から審神者は説明を受けていた。そんなことを覚えていさえしなけれがここまで不安にならなかったのに、と少し自分に苛立ちを覚えてしまう。審神者は水中を降下していく感覚と一緒に、ひやりと体が冷えたように感じ始める。今度はどうやら落下しての転送ではなさそうだ。ほっとしたが、この感覚は一体。審神者がそう身構えた瞬間、突然両足が地上についていることに気が付く。驚いて目を開けると、闇。審神者は真っ暗な夜の街に降り立っていた。この光景、どこかで見たような。審神者はぐるぐると頭を動かして考える。そっと辺りを見渡したが山姥切長義の姿がない。それにかすかな焦りを覚えつつ、できる限り音を立てないように少しだけ前に進んだ。そうして審神者の目の前に、見覚えのある大きな橋が見えたのだった。

「……三条大橋」

 この戦場が見つかったとき、別の本丸で明石国行の発見報告があった。それを聞いた愛染国俊が審神者に何度も出陣したいと駄々をこねたことを、審神者はふと思い出す。その輝く瞳に負け、審神者は愛染国俊と蛍丸を入れた編成で出陣をしたが、予想外に敵が強かった。三度ほど途中帰還、一人として折れはしなかったが五度敗北して強制帰還されたのだ。三条大橋に関する情報をいろいろ読んだ審神者が「大太刀は不利になるから編成から外す」と告げると、蛍丸はむくれて丸一日布団にまるまって出てこなくなったなんてこともあった。そんな出来事を経て、明石国行を顕現させたことを、昨日のことのように審神者は思い出せた。
 建物の陰から様子を窺うが、暗くてよく見えない。月明りがそれなりに明るく照らしてはいるが、現代と違って街灯などない暗闇に目が慣れない。敵がいる、ような。いないような。審神者の目にはそれくらいにしか分からない。ただこのまま隠れていても、山姥切長義と合流できなければ審神者は死ぬ。審神者の手で時間遡行軍を倒すことはできない。あれを倒せるのは刀剣男士が振るう刀のみなのだ。
 何度見ても敵がいるのかいないのかよく分からない。審神者は迷いに迷った末、そうって建物の陰から出た。一か八かだった。隠れていては時間遡行軍だけではなく山姥切長義も自分の姿を見つけられない。そう思ってのことだったのだが、これが悪い方へ向いてしまったとき、そのときどうするかについて審神者に良い案はなかった。
 その瞬間、稲光のような殺気をはらんだ光が審神者の瞳に刺さらんばかりに向かってきた。審神者は考える暇もなかったが、ただただ思った。「ああ、死ぬんだ」と。それくらいの殺気だった。禍々しくはない、ただただ純粋な殺意。目を瞑る間もなく審神者が諦めから体の力を抜いたとき、水の音が聞こえた。

「顔を左へ傾けろ!」

 その叫び声に一瞬で呼び戻されたように体が動いた。審神者の顔すれすれに刃が走り、顔の真横で時間遡行軍が朽ちるのを審神者は感じていた。それと同時に何かが落ちたような音が響く。そうっと審神者が足元を見ると、一本の刀が転がっていた。呆然としたまま審神者が顔を声の方向に向けると、とんでもなく怒った表情を浮かべた、なぜだかずぶ濡れの山姥切長義の姿が見える。山姥切長義の姿を見て自分の足元に転がっているのが山姥切長義の本体であること、山姥切長義が咄嗟に投げたそれで時間遡行軍を倒したことを察する。審神者は一瞬で山姥切長義が言わんとしていることが分かった。ゆっくり山姥切長義の本体を持ち上げる。思っていたより重たいそれに驚きつつも、近寄って来た山姥切長義に恐る恐る手渡した。山姥切長義も黙ってそれを受け取ってから鞘に納め、ゆっくりと瞬きをして、じろりと審神者を見つめる。

「君、なぜ物陰に隠れていなかったのかな」
「……ちょ、長義が見つけにくいかな、って」
「俺が見つけるより先に敵が見つけたらどうするつもりだったのかな。一歩も動かなかったあの状態からどうしようとしていたのか、ぜひご教授願いたいのだけれど」

 にこり、と顔は美しく笑っているように見えるが、審神者にはよく分かった。まったく笑っていない。不自然なほどに。その恐ろしい表情に内心怖気づきつつも審神者は素直に「ごめん」と声を絞り出す。山姥切長義はしばらくその表情のまま固まっていたが、突然大袈裟なほどのため息をついて前髪をかきあげた。どうやら審神者を許したようだった。
 審神者を連れて物陰に隠れると、審神者は山姥切長義がなぜずぶ濡れなのかを聞いた。通常、三条大橋へ転送される際には橋の入口付近に出現するようになっている。今回の審神者が出現したところがまさにそうだ。だが、山姥切長義はそうではなかった。気付いたときには橋の下を流れている川に落ちていたのだそうだ。混乱しつつもなんとか河原へ這い出て一息ついていたところ、審神者が時間遡行軍に襲われかけているのを発見。走っても間に合わないと判断し、己の本体を審神者に斬りかかっていた敵短刀へ投げつけた、という時系列だったようだ。下手をすれば審神者に刺さっていたのでは、と思うだろうが山姥切長義は投石兵をよく連れているためその腕には自信があったらしい。そこへの心配は一つもなかったようで言及することはなかった。
 びしょ濡れになった布を取り、軽く絞りつつ山姥切長義は息をつく。周りは暗闇、打刀の能力が大きく落ちることはないが、夜戦へ単騎での出陣はありえない。もし橋を渡る、などという状況になればかなり不利な状況だ。審神者もそれは承知しており、橋を見つめはするが渡ろうなどとは言いださない。山姥切長義も渡ることへの必要性を感じないこともあり、言い出す気配はなかった。

「それにしてもこのバグって何にあたるのかな? 強制転送?」
「まあそんなところだろう。別サーバ開放の際にも起こった例があるからね」

 濡れた前髪を鬱陶しそうにかきあげながら山姥切長義はため息をもらす。ここにきて何度目だろうか、と内心うんざりしている様子だ。山姥切長義曰く、サーバにおけるバグというのは基本的にそれなりのパターン化をされており、いくつかの解決方法に分類されるのだという。よくあるバグだという一つ、元の本丸へ帰還できなくなるバグ。これが発生した際には政府との連絡が取れる状況であれば、審神者と刀剣男士を強制的に転移させることによって解決が可能である。他の例だと時間遡行軍の侵入を許している場合、これは侵入してくる箇所さえ見つけられれば早期に対応が可能。こういったようにバグには必ず対処法があてがわれているのだ。しかしながら今回のパターン。山姥切長義が言うように過去にも強制転送させられ合戦場へ行かねばならなくなる場合はあったという。そのどれもが通常任務が行われている場所への転送であり、他の本丸から出陣している部隊と鉢合わせることも多かったのだとか。だが、今回は少し状況が違う。山姥切長義たちが飛ばされるのはどこもまだどの本丸も出陣していない時間軸にある阿津賀志山ないし三条大橋である。まだ時間遡行軍が手つかずで残されているし、そもそも時間遡行軍の侵入も浅く感じられる。
 それ以上にだった。審神者は気が付いていない様子だが、山姥切長義はかすかな違和感を抱え続けている。何か、様子がおかしい。時間遡行軍と対峙するたびに山姥切長義は違和感を覚えていた。気配が変なのだ。それを詳細に説明しようと山姥切長義は何度も思考を巡らせてはいるが、言葉にしがたい違和感でうまく表現ができない。だから未だに審神者への報告ができていないのだ。自分の思い過ごしかもしれない。そう思って阿津賀志山では黙っていたようだが、先ほどの時間遡行軍を斬った瞬間に山姥切長義はそれを確信へと変えた。明らかにおかしいのだ。これまで戦ってきた時間遡行軍とは明らかに違う気配。恐らく刀を振るって戦う刀剣男士にしか分からないものだろうと山姥切長義は予想している。

「夜戦では少々不利かな。時間遡行軍は短刀ばかりのようだし、一人では索敵もできない」
「……役に立てなくてごめんね」
「何を言うかと思えば。君がいなければ俺はとっくに折れている」
「それは……そうかもしれないけど」
「実際、審神者の霊力がなければ刀剣男士は無力でしかない。政府にいたときにそういう実験を行っているところを見学していたけど、痛いほどに実感したよ」
「実験?」
「ああ。政府が時間遡行軍を解析して似たようなものを作っているんだ。仮想空間でそれと刀剣男士を、戦わ、せ、て……」
「長義?」
「……そうか」

 山姥切長義の中ですべてがきれいぴったりかみ合った。そうして山姥切長義は笑って見せた。なるほど、そうか、と。

「これはバグなんかじゃあないよなあ、政府諸君」

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