山姥切長義の先導により、審神者たちは山へ入った。審神者は入らないほうが良いのではないかと言ったが、夜になれば敵短刀・脇差の能力値が上がる。先ほどのように囲まれれば勝ち目はないと山姥切長義は言い切った。審神者は術のほとんどが使えないとはいえ、多少札を使用したものであれば使える。気配を悟られないように隠し術をかければ山の中にいたほうが捕捉されにくいとの山姥切長義からの見解だった。
 阿津賀志山へ出陣経験のある山姥切長義は地理を把握しているのか、すぐに川のある場所へと審神者を連れて行った。きれいな山の湧き水が流れており、飲んでも大丈夫だろうと山姥切長義は先に自分が水を飲む。それに続いて審神者も飲むと、山姥切長義が言った通りきれいだとすぐに分かった。審神者は座り込んで「これからどうしよう」と途方に暮れる。その隣で山姥切長義は辺りを見渡しつつ「待つしかないだろう」と冷静に言い放った。通信が取れず、簡単な術さえ札がなければ使えない状況だ。こちらから何かをするのはほとんど不可能といって過言ではない。
 辺りが闇に包まれていく。長い夜がやってくるのだ。先ほどから山姥切長義は刀を鞘に納めず、ずっと警戒したまま立っていた。複数の気配が蠢いている。恐らく山姥切長義には自分たちをつけ狙う時間遡行軍の気配であると分かっている。審神者は直感的に感じ、ただただ息を潜めることに徹した。
 月が高く浮かぶ。審神者は本丸のことを思い出していた。近侍を務める加州清光は突然の外出と、護衛が自分でないことに不満をもらしていた。その隣で宥めるように鶯丸が「留守居役は任せろ」とどこか嬉しそうに言っていたが、あれは審神者が外出するということは出陣はないと踏んだ顔だった。それを思い出して審神者は少しため息をついてしまう。鶯丸は強く頼もしい刀ではあるが、とにかくさぼりたがる。出陣の命を出せば従ってはくれるが遠回しに断ろうと果敢にチャレンジしてくるのだ。これまでの功績もあるし、できる限り希望には沿ってやりたいと思っているが、生死を懸けた戦いではそうは言っていられない。代わりに休日を増やし内番を少なくしているが、もう少し気を遣ってあげないとなあ、などと審神者は反省した。そんな鶯丸でも、今頃帰ってこない審神者と山姥切長義を心配しているかもしれない。政府はもちろん本丸とすら連絡が取れないのだ。恐らく加州清光がこんのすけを呼び出して状況を聞き出そうとしている頃合いだろう。
 少し冷たい夜風が吹くと、審神者は自然と腕をさすってしまう。朝食を食べたきり、水以外のものを口にしていない。山なので何か食べるものはあるだろうが、今の状況で動くのは得策ではない。ただ耐えるのみ。そう身を縮めると、山姥切長義がばさっと審神者に布をかけた。

「少しで良い、仮眠を取る努力を。今は君の体力回復が最優先だ」

 山姥切長義は刀を構えて周辺に気を配ったままそう言う。審神者は山姥切長義の布を被り直しながら「いいの?」と聞く。山姥切長義は基本的に人にあまり物を貸さないように審神者には見えていた。心が狭いとかそういうわけではなく、心を完全に開いた人にしか物を貸さないのではないか、と審神者は思っている。というのも、山姥切国広には緊急時でない限り物を貸したり持たしたりしない。とくに本体である刀と身に着けているもの、これらを誰かに触らせているところは滅多に見られない。緊急時や致し方のないときは除くが、山姥切長義は几帳面かつ神経質なところがあるらしいと審神者には見えていた。けれど、山姥切長義が顕現した当初にお目付け役として傍についてもらっていた五虎退には物を渡したり預けたりする。他の関係をうまく築けている刀剣男士も同じくである。そういうところを見ていて、審神者は山姥切長義が人間と同じように自分が持つ物に対して思い入れがあること、それなりに人を選んで行動していることを察した。緊急事態とはいえ、そう感じていた審神者にとって、少しうれしいことでだったのだ。山姥切長義がそれを知るわけもなく、いいのか聞いてきた審神者を見て不思議そうに「何がだ?」と首を傾げた。
 審神者が思い返してみると、こんなにも長い時間を山姥切長義と過ごしたのははじめてだった。何せ山姥切長義が顕現したころにはもう本丸には多くの刀剣男士がいたし、なかなか一人ずつに時間を取ってコミュニケーションを取るなんてできなかったのだ。お祭り好きの次郎太刀や日本号らによって宴会は開催されるが、あまりに刀剣男士が多く一人に気を向けることは難しい。それに山姥切長義は決して審神者に対して嫌悪的でない。むしろどちらかといえば好意的なほうであるとほとんどの審神者が回答するだろう。この審神者も同様だ。しかし好意的ではあるが、積極的に自ら関わろうとしてくるわけではない。近頃は職務に追われて満足に時間を取ることのできなかった審神者は、自ら山姥切長義に声をかけることがあまりできないままに月日を過ごしていた。こんな形にはなってしまったが、山姥切長義との時間を得られたことは不幸中の幸いだったかもしれない。

「山姥切長義って」
「何かな」
「きれいな刀だね」
「…………君は馬鹿か。この状況で」

 それっきり山姥切長義は黙ってしまった。先ほどまで横顔は見えていたのにそっぽを向かれたように、審神者からは顔が一切見えなくなる。機嫌を損ねたようだった。審神者は少し残念に思いつつも、たしかにこんな状況で言うことではなかったと反省する。
 けれども。審神者の瞳に映る、月明りに照らされた山姥切長義の銀色の髪は、刀のようにきらりと美しく輝く。刀もまた、山姥切長義の髪のように美しくきらりと輝く。これをきれいと言わずになんと言うのか。審神者は山姥切長義の布から顔を出したまま、そっぽを向いている山姥切長義の後ろ姿を眺め続けた。
 そうして、知らぬ間に、審神者は眠りに落ちた。
 眠りこけた審神者を振り返ると、山姥切長義は一つ息をつく。「急に何を言い出すんだか」と呟いて、前髪を軽く払う。その顔が少しだけ赤く染まっていることは誰も知らないまま、夜は流れて行った。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 二日目、朝。審神者が目を覚ますと山姥切長義が川の水で顔を洗っているところだった。声をかける前に山姥切長義が「よく眠れたかな」と声をかける。審神者は挨拶をしたのち、「私だけ寝ちゃってごめん」と苦笑いをこぼしたが山姥切長義は気にしない様子だった。持っていたハンカチのような布を濡らし、山姥切長義は審神者にそれを手渡す。審神者は有難くそれを受け取ると、できる範囲で体を拭かせてもらった。布を畳みながら審神者がゆっくり立ち上がると、山姥切長義は振り返って布を受け取ろうと手を伸ばした。審神者がその手に布を返すと、山姥切長義はなぜだか深々と頭を下げる。審神者が驚いて黙っていると、山姥切長義は「申し訳ない」とこぼした。

「な、なにが……?」
「俺が護衛役についていながらこの失態。主を危険に晒すなど護衛役失格だ。本丸に戻り次第、如何なる処罰も受けよう。なんなら刀解も、」
「馬鹿なの?」
「…………君、昨日眠る前のことを根に持っているのかな」

 声は笑っているが恐らく顔はむかついているだろう。山姥切長義という刀は基本的にプライドが高い。馬鹿、などと言われた日にはへそを曲げて口を利かなくなりかねないほどだ。審神者もそのことを知っていたが、言わずにはいられなかったのだ。
 この状況を作り出したのは山姥切長義ではない。究極、いろんな不手際を除けば誰のせいでもないのだ。政府のせいなり、審神者のせいなり、山姥切長義のせいなり。誰にでも押し付けることのできる事態であり、誰のせいでもない事態でもある。審神者はそのことをよく分かっていたし、山姥切長義を責めるつもりなど毛頭なかった。
 審神者が頭を下げたままの山姥切長義の前で身を屈める。その顔を覗き込むと、山姥切長義は目だけを審神者に向けた。声を潜めて「何かな」とだけ山姥切長義の顔をじいっと見つめて審神者は、「うん」と一人で頷く。

「まじまじとはじめて見たけど、長義ってきれいな顔してるなあと思って」

 「刀だけじゃなくってさ」と笑う。山姥切長義の濡れた前髪に気が付くと、自分の服の裾で少し拭く。審神者は山姥切長義の前髪を勝手に整えて満足げに「今日も頑張ろう」と言い、軽くその頭を撫でた。山姥切長義は固まったまましばらくそのままでいたが、はっとしたように顔を上げると「君は馬鹿か!」とここ最近で一番覇気のある声で言った。

「褒めたんだから怒らなくても」
「こんなときにそんなことを言っている場合じゃないと言ってるんだ!」
「それでも思っちゃったんだもん、仕方ないでしょう」

 審神者は空を見上げる。「何も変化なしだなあ」と冷静に辺りを見渡すと、一つ伸びをする。山姥切長義はその姿を眺めつつも呆気にとられたままでいた。その中でこれまでの審神者の言動を思い出す。山姥切長義が顕現したすぐあとに顕現した南泉一文字には「猫かわいいね」と発言したり、さらに後に顕現した肥前忠広には反抗的な態度を取られているにも関わらず「ロックだね」などと理解不能な発言をしていた。山姥切長義の頭の中で審神者の様々な理解不能な発言が巡り、「この子は思考回路がおかしいのだ」という結論に至るにはそう時間はかからなかった。そう、何も今に始まったことではない。山姥切長義はそう思い直し、一つ息を吐くにとどめた。そうして審神者と同じように空を仰ぎながら「あのときもそうだったか」と、審神者には聞こえないくらいの小さな声で呟いたのだった。
 ずっと同じ場所にいるわけにもいかない。二人は身を潜めながら山をぐるりと回り始める。登って行くと敵が強くなるのと、遭遇する確率が上がると山姥切長義が判断して、ひたすら戦闘を回避するために隠れ続けることを選択したのだ。ついでに食料の確保も優先事項となった。火を使うと場所がすぐに見つかってしまうため、生で食べられる木の実や果実を探しながら二人は歩き続けた。そうしてようやく道中、柿が生っている木を見つける。すぐさま山姥切長義が柿を数個選んで取り、審神者に手渡した。審神者がそれを口にしたのを見るとほっとしたような顔をする。食料が確保できないことに焦りを覚えていたのかもしれない。

「すごい、この柿、ものすごく甘いよ」
「小夜くんに教えてもらったんだよ。ヘタが実にくっついていて、深い緑色だとおいしいとね」

 審神者は山姥切長義の言葉に少しほほえむ。五虎退だけでない短刀ともうまくやっているのだとうれしくなったのだ。小夜左文字がそんなことを他の刀剣男士と話しているなど、うれしくないはずがない。小夜左文字は、少し人付き合いが苦手なところがあるが心優しい一面がある。うまくそれが伝わらずにいた時期もあったが、もうそんな心配はいらないようだ。
 再び歩き始めた山姥切長義は周辺の異変に気が付く。先ほどまでところどころに感じられた気配がきれいさっぱりなくなっているのだ。知らない間にまた転送などされたのかと思うほどに周りの空気がきれいになっている。山姥切長義はそれに怪訝な表情を浮かべつつ、気を張っているがやはり何も感じない。審神者もその異変に気が付いているようで、山姥切長義に「変だね」と声をかける。山姥切長義は短く返事をしてから、さらに集中を高めて辺りの様子を窺い知ろうとする。しかし、やはり気配は感じられない。
 山姥切長義が小声で「どういうことだ」と呟くが、答えをくれる者はいない。新たなバグかとも思ったがバグにしてはあまりにも静かに発生したものだ、と山姥切長義は疑念を拭い去れなかった。基本的にバグが発生する際には電気が走ったような、バチッと短い音がすることが多い。これは政府が作ったシステムから外れた動作が起こったことによるものだとされているが、謎は多いままである。
 ただ、バグだったとしても一先ず悪い方向に転んだわけではない。気配がなくなったということは敵がいなくなったということ。潜んでいる可能性は残るが、基本的にここまできれいさっぱり気配を消すことは難しい。できるとすれば阿津賀志山より先にいる戦場に出現する練度の高い短刀、苦無くらいだ。阿津賀志山にそんな高度なことができる時間遡行軍はいない。

「主、山を登ろう」
「え?! で、でも、登らないほうがいいんじゃ……?」
「今のうちに頂上へ登る。出陣して、敵大将を倒した後は本丸へ自動帰還するだろう? そのシステムが生きていれば、頂上へ到着したらシステムが起動するかと思うんだが、どうかな」

 山姥切長義のその考えに審神者は少し感心していた。そうしてやはりこの役を山姥切長義にしてよかったと心から実感していた。この状況で冷静に判断し、冷静に様々な手段を思いつく。なかなかできることではない。ここへ来てからの山姥切長義は審神者の目には非常に落ち着いているし、非常に淡々とアクシデントに対処しているように見えていた。
 ただ、山姥切長義は一つ懸念を提示する。もし山を登って何もなかった場合、この気配が消えた状態がいつまで続くか分からない以上、突然敵に囲まれる可能性が有り得る。それは頂上についた瞬間かもしれないし、システムが起動せず落胆して山を降りようとした瞬間かもしれない。それが分からない以上はどうなるか分からない、と淡々と説明した。山姥切長義は最後に「主、決断は君に任せる」と言い、黙って審神者の答えを待つ。
 審神者は迷わなかった。迷わず「登ろう」と山姥切長義に答えた。その速さに山姥切長義は面食らったように「少しは迷いなよ」と困ったように笑いをこぼしたほどだった。
 山を登り始めて、二人はここにはもう時間遡行軍はいないとついに確信した。山には動物一匹いなくなっている。恐らく二人以外の生き物はいないのだ。何がどうなっているのかは分からないが、とにかく助かったという認識でとりあえずは良しとした。山姥切長義はようやくずっと刀にかけていた手を下ろす。
 審神者の体力に気を配りながら山姥切長義がペースを合わせて山を登っていく。その中で山姥切長義は静かに驚いていた。人間という生き物はこんなにも脆いのか、と。自分はまだ息一つあがっていないというのに、審神者はすでに肩で息をしていた。額には汗をかいており、話し声が先ほどから途切れ途切れになりはじめている。純粋な体力の差ではあったが、山姥切長義にとっては衝撃的なことだったようだ。

「休憩しよう」
「だ、だい、じょうぶ、登ろう」
「君に倒れられるのが一番困ると言っているんだよ。どうしても進むというなら俺におぶられることになるが?」
「……休みます」
「それで良し」

 ちょうど良い大きな岩の近くで山姥切長義が立ち止まる。軽くそこを払うと審神者に座るように言った。山姥切長義が耳を澄ますと川のせせらぎがかすかに聞こえている。審神者の体力が少し回復したらそちらへ移動しようと考えつつ、山姥切長義はこれからの行動をどうするか考えはじめた。審神者の体力を考えれば休憩なしに動けるのは約一時間半。頂上はあと少しだが、もし何も起こらなかった場合も想定すると頭を抱えてしまう。何も起こらないのであれば頂上に用はない。危険を含んでいる可能性が高い場所からはすぐに退散したいと山姥切長義は考えていた。ルートを変えることも考えていたが、一度来た道であれば危険がないことは分かっている。できれば審神者には歩きやすい道を歩かせてやりたい。山姥切長義はさまざま考えつつもなかなか良い案が浮かばずにいた。
 難しい顔をしている山姥切長義の顔を審神者が見上げる。眉間にしわが寄り、口元に手を当ててほとんど声になっていないくらいの小声で独り言をつぶやき続けていた。そんな山姥切長義の顔をじっと見て審神者は、きゅっと見つからないくらいかすかに唇を噛みしめる。

「長義」
「ん? 何かな」
「ごめんね、ありがとう」
「……君は先ほどから唐突すぎる」
「そう?」

 くしゃっと山姥切長義が前髪を触る。どうやら髪に触るのは癖のようだ。審神者はそんな小さな発見をして少し喜んでしまう。
 ゆっくりと審神者が立ち上がる。まだ座って五分も経っていない。山姥切長義がそれを指摘したが、審神者は笑って「もう平気」と言うだけだった。山姥切長義はそれに若干不満を覚えつつも「進もう」と主たる審神者に言われてしまえば従う他ない。
 審神者は一つ、思い出したことがあった。それは遠い昔、本丸へ就任した初期のころ。本丸に山姥切国広が顕現したときのことだ。そのときはまだ刀剣男士の数が少なく、一人一人との時間を今以上に大切にしていた。相手のことをよく知りたいと審神者は願い、山姥切国広にも積極的に声をかけていたのだ。山姥切国広は当時から自分が写しであることを異様に気にしており、審神者はもちろんそれを気にかけた。だからと本人に「写しって具体的にどんなの?」と聞いたことに関しては、あとで加州清光にこっ酷く怒られたっけ、と笑いをこぼす。けれど、山姥切国広は嫌な顔などせずに真面目に写しの説明をしてくれた。そこではじめて審神者は山姥切長義という存在を知ったのだった。これまたデリカシーのない審神者は山姥切国広に対して「どんな刀なの?」と好奇心に任せて聞いた。そのときの山姥切国広の答えは、山姥切長義に聞かせてあげたいほど、己の本歌たる山姥切長義を褒めたたえた。あまりにも必死に褒めるものだから、審神者が笑ってしまうほどで。山姥切国広がはっとして黙ってから、審神者が「私も会ってみたいなあ、本歌さん」と答えた。すると山姥切国広は、顕現してからはじめて優しく笑ったのだ。「あんたはきっと、本歌を気に入るだろう」と、嫌味でも卑屈でもなく、心からそう思っているというように呟いて。その言葉を、ふと、審神者は思い出していたのだった。ああ、山姥切国広の言うことはたしかだったかもしれない、と。

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