ぱちり、と審神者がゆっくり瞼を開ける。目の前に広がるのは、まだ整備されていないように見えるただ広いだけの空間。取ってつけたような見慣れた鳥居。その奥には仮の住まいになるのであろう建物が見えている。
 審神者と山姥切長義が調査につくことは極秘とされ、本丸のいかなる刀剣男士にも知らされることはない。政府へ出向く、という名目で二人は本丸を後にしたのだ。いつもなら護衛を務める加州清光ではなく山姥切長義を連れて行くことに全員不思議そうにしていた。けれど、なんと答えようか悩んでいた審神者を押しのけるように山姥切長義が「政府からのご指名でね」とフォローを入れたことでバレずに出立できたのだ。その瞬間に審神者は山姥切長義を選んだことを正解だ、と胸を張って再確認することとなった。
 仮住まいである建物はこれまでの失敗≠教訓とし、万が一元のサーバへ戻ることができないバグが発生したときのために用意されているようだ。データ上の存在なのに不思議なことだが、審神者は何も食べなければ餓死する。元のサーバへ戻れないまま閉じこめられ、餓死した審神者は四名いたそうだ。その失敗≠煖ウ訓とし、それなりに保存できる食料と飲み水だけが用意されているらしい。審神者は資料でそのことを知っていたが、これまでの内偵における犠牲を失敗≠ニ書き捨てる政府に苦笑いをもらしたものだった。
 鳥居をくぐると、バチッと久しく感じていない刺激が審神者にぶつかる。鳥居には結界が張ってあり、本丸に居住する者以外にはこうして刺激が走るようになっているのだ。これにはいくつかの意味がある。一つは不浄を祓うこと。まだまだ本丸システム、各サーバには解明できていないことも多い。不浄、と呼ばれてはいるが何かしら結界に引っかかるものがあるのは事実だ。これを本丸内に持ち込まないように、簡単にいってしまえば消毒のような意味を含んでいる。もう一つは守護。この結界が反応したとき、審神者にはそれが感覚で分かるようになっている。鳥居だけではなく本丸をぐるっと囲った結界のどこからでも捕捉は可能である。弱い時間遡行軍であれば結界をくぐることさえ容易ではない。他にも政府が本丸の位置を見失わないための目印だとか、支給品を配布する際の手間がどうだとか、システム上の理由も多く含んでいる。つまるところ、この結界なくして本丸は存在していけないのだ。
 本来は審神者が就任時に己で張るものだが、今回は仮住まいであることと、審神者がこのサーバに存在しないデータであるためうまく結界を張ることが困難であると判断されたのだろう。山姥切長義もとくに気にすることなく結界をくぐった。

「それにしても嫌な感じだね」
「……何か感じるの?」
「いや、このサーバの名称だよ。まるで流罪になったような気持ちだ」
「るざい、ってなんだっけ」
「島流し、と言えば分かるかな」

 審神者は「ああ」と声をもらす。刑罰の一つ、追放刑でありかつては重い刑として扱われていたものだ。歴史的に見ればたしかに隠岐という場所は罪人が流された島の一つではある。戦に負けた位の高かった歴史上の人物が何人も隠岐を含めた島へ流されたと教科書に書いてあったのを審神者は思い出していた。ただ、審神者からしてみればそれは遠い昔の話。いまいちピンと来なかったらしい。
 山姥切長義は審神者の半歩前を歩き、ゆっくりと仮住まいの戸を開けた。中は殺風景、もちろん出迎えなど誰もいない。二人でそうっと足を踏み入れると、突然宙を舞って封書が落ちてきた。サーバの状態が不安定であるこの場所ではこんのすけも満足に動けない。指令がある場合はこのように封書のみが送られてくるシステムになっているのだ。ぱしっと山姥切長義がそれをつかみ取る。審神者へ差し出すと、封書が独りでに開いた。
 封書の内容はこうだ。八時の方向に異常あり、至急対処せよ。それだけ書かれた封書はまるで砂と化したように跡形もなく消えてしまう。審神者はため息をつく。方向のみ書かれていただけの封書。どんな異常があるかも分からぬまま迎えというのだ。しかも的確な場所の情報すらない。そりゃあ半数以上が死ぬだろうね、と審神者は苦笑いをもらす。山姥切長義はそんな審神者の様子に言葉はないままに同意を持っていた。政府に所属していたからといって、山姥切長義は政府側の刀剣男士というわけではない。審神者たちが政府へ持つ不信感には共感しかないし、政府の対応の甘さは非常に腹立たしいものなのだ。
 政府側にも言い分がある。戦いが激化していく中で、政府へも時間遡行軍からの攻撃がある。その中で戦死していった職員も多い。命の危険があると知りながら、多くはない政府所属の刀剣男士たち。本丸所属の刀剣男士と違って練度を上げるための出陣は滅多になく、多くは強敵と戦えるほどの力を持たない。ほとんどが事務仕事の手伝いとただ門前に立つ守護をさせられているのみ。時間遡行軍に大量侵入を許してしまえば、政府は簡単に崩れる。もちろんそうされないように強力な術使いを常駐させており、結界や建物の気配を消す術で時間遡行軍からの追跡を逃れているのだ。政府も本丸システムを継続させることに必死である。けれど、そんな中で職員は減っていく一方。内偵調査に出向きたくても行けない状況な上、何かアクシデントが起こっても対処できるだけの戦力が政府所属の刀剣男士、ならびに審神者代行にはないのだ。

「こういう場合って私、足手まといになるよね。ごめんね」
「主がいなければ俺は動けないのだから足手まといではないよ。ただ、戦闘になったら俺の手の届く範囲にいてくれ。それ以上離れられると庇えなくなる」

 刀の柄に手を置いたまま山姥切長義は入ったばかりの本丸を出る。審神者もついて出て行くと、山姥切長義が一つ息を吐いた瞬間だった。
 瞬時に審神者は理解した。山姥切長義は、緊張している、と。
 山姥切長義という刀は基本的には冷静沈着、思考は落ち着いており判断を下すのも早い。だが冷たい性格というわけではなく、他の刀に気を遣うこともでき、感情的でないにしても柔軟な考えをできるため、自らを犠牲にして仲間を護ることもある。戦いにおける短所はあまりなく、遠征にも不満をもらすことは少ないという各本丸からの報告が多い。唯一の短所、と各審神者が必ずあげるのは山姥切国広との関係だろう。とくに山姥切国広を初期刀として迎えている本丸において、その仲は最悪といっても不自然ではないらしい。もちろんうまくやっている本丸もあるというが、それも長い月日をかけて培うことのできたものであると審神者たちは苦笑をこぼすという。しかし、それと同じように山姥切長義を所持する本丸の審神者は口をそろえて言う。「山姥切長義はいかなる任務を前にしても、緊張することなく冷静なまま向かってくれる」と。
 刀剣男士は本丸システム内に存在している間は人間と同じ生き物である。傷ができれば血が出るし、怪我をすれば痛みを感じる。感情があるし、感覚もある。人間のそれと何ら変わりはない。だから戦いの前に高揚することもあるし、仲間の死を悼むし、何より、強敵を前にして立ち竦んでしまうこともある。緊張、という状態になることもあるのだ。
 だが、山姥切長義という刀剣男士にその状態が見受けられることはあまりなかった。報告書にまとめられた山姥切長義の基本的なステータス、基本的な性格。文字として審神者はそれを知っているし、一人一人をちゃんと理解したくてしっかり読み込んでいた。だからこそ、目の前の山姥切長義の表情に、驚いているのだ。

「……長義も緊張することがあるんだね?」
「ああ……政府からの説明書、ちゃんと読んでいるんだね」

 基本的に政府が各本丸から集めた刀剣男士のデータの集計、先ほど山姥切長義の口から出た説明書≠ニいう表現が一番分かりやすいだろう。これを刀剣男士本人が目にすることは滅多にない。むしろ存在していることすら知らない刀剣男士がほとんどだ。機密というわけではないのだが、こういったものに不快感を示すだろうという政府の判断で、必要がない限りは隠すようにと指示されているのだ。しかしながら山姥切長義という存在はこれに当てはまらない。とくに事務仕事を手伝わされていたこの山姥切長義などは、説明書が作成されていくところを直接見ているほどだ。ああ、己はこういったふうに表現されるのか。山姥切長義はそう画面を眺めた日々を思い出していた。

「あれに間違いはないよ。ただ、多くの俺は嘘吐きでね。君たちはきれいに騙されているのさ」

 薄く笑う。山姥切長義はくるりと布を翻らせて「さあ、行こうか」と軽やかに言った。
 ゆっくりと歩き出した二人の耳に波の音が聞こえてくる。各サーバはそれぞれ違った地形をしており、その特色は様々である。山に囲まれたサーバや、湖や川など様々な形で水辺の多いサーバ、砂漠とまではいかないものの自然の少ないサーバなど。それぞれに特色があり、採れる山菜や生き物は変わる。審神者が提示されたサーバ数種類から好きなサーバを選ぶことができ、人気のサーバとそうでないサーバは一目で分かるようになっている。隠岐国サーバはどうやら、海にぐるりと囲まれたサーバになっているようだ。
 すん、と山姥切長義が鼻をすする。この審神者が所属するサーバには海がない。山姥切長義も政府所属時代に様々な場所へは赴いているが海を見たことはなかった。潮の匂いに興味を持っているのだ。感覚でこれが海によるものだと理解はしているようだ。審神者も懐かしい現世での記憶を思い出し、山姥切長義と同じように潮の匂いを嗅いでいた。
 周囲は見渡す限りの森。伸びきった雑草や飛び交う虫。自分たちが過ごしているサーバより乱暴な自然が広がっているように山姥切長義には感じられていた。実際に開放される前には政府の手が入り、もう少しきれいに整えられた自然にはなるだろう。そうなれば案外人気のサーバになるかもしれない。山姥切長義がそんなふうに考えていたときだった。
 ピリッと、明らかに周辺の空気が変わった。山姥切長義は審神者の前に左腕を出し、無言で止まれと指示を出す。審神者も静かに足を止めると息を潜め、何か異物がいないか気を張る。山姥切長義も同じくじっとしたまま辺りを警戒しているが、何かが向かってくる様子はない。時間遡行軍であれば審神者と刀剣男士の気を察した瞬間に必ず向かってくるはず。だが、時間遡行軍も初期のころは知能が低かったが、ここ最近のは知能が上がってきているのだ。もしかしたら何かしら作戦を立ててくるかもしれない。山姥切長義の頭の中で冷静に様々なパターンが組みあがっていく。しかし、びくりとも気配が動くことはなかった。
 審神者も時間遡行軍の気配を感じることはなく、何か異物がそこにあるということしか分からない。山姥切長義は審神者を振り返ると、審神者が小さく頷く。戦場ではそうはいかないのだが、本丸システム内に置いて気配の探知は審神者が最も優位となる。そんな審神者が良しと判断したということは、敵はいない。山姥切長義は言葉のないままにそれをしっかり理解し、再び歩み始めた。

「……長義、危険かどうか分からないけど、変な感じがする」
「変、というと?」
「なんだろう、吸い込まれそうな感じがする……なんとなくしか分からないけれど」

 山姥切長義はじろりとまっすぐ先を睨むように窺う。山姥切長義にもピリピリとした感じたことのない気配は伝わってきている。ただ、審神者が感じているような吸い込まれるような、という感覚は分からないようだった。審神者は山姥切長義と同じようにじっと前を見据えてただただ感覚を離してしまわないよう気を張る。自分の判断一つで自分だけではなく、山姥切長義にも危機が迫るのだ。そして、もし危機が迫ったとき。審神者は確信していた。必ず山姥切長義は己を切り捨てる。仮住まいから出立する直前の言葉。「それ以上離れられると庇えなくなる」。山姥切長義ははっきりと迷いなくそう言い切った。それは山姥切長義だけではなく他の刀剣男士にも言えることなのだが、彼らには躊躇がない。主たる審神者に危険が迫れば平気で自分を斬り捨てて守る。この調査中、審神者に危険が及べば山姥切長義は必ず自らの死を進んで選ぶだろう。だからこそ、審神者は間違えるわけにはいかなかった。自分が死なないために、山姥切長義を折らせないためにも。
 普段戦へ出ない審神者にとって、緊張感を解けないまま集中を切らさないようにするのは困難を極める。それにプレッシャーが合わされば体力の消耗は激しい。しかしながら審神者が倒れれば刀剣男士への供給がなくなるだけでなく、怪我をした際の手入れさえ儘ならなくなる。まだ少ししか進んでいないというのに審神者はすでに額から汗を流していた。予想以上に体力の消耗が激しい。それに内心焦りを感じているが、焦りは気配に揺れを生じる。もし敵が近くにいてそれを悟られてしまえば簡単に狙い目となる。審神者は何度も自分にそう言い聞かせ、ただただ気配を辿ることに集中した。

「待て」

 長義が手を出す前に声を出した。その次に「伏せろ」と言おうとしたようだったが、その声が出る前に二人の意識は暗闇へと落ちていく。意識はあるのだが、恐ろしく何も見えないし聞こえない。水中を漂っているような感覚に、審神者は思わず手足をばたつかせるが、不思議と呼吸ができていることに気が付く。次第に落ち着きを取り戻し、何やらゆっくりと降下していることを察する。ただの暗闇が見えるだけで山姥切長義の姿を見つけることはできない。審神者はもしや自分は死んだのでは、と良からぬことを考えたがあまりにも唐突な出来事に何も思考がまとまらないままだ。
 次第に水の中のようだった感覚が変わっていき、風のようなものを感じてきた。それはまさに、空から、落ちている、ような?

「体を捻って上を向け!」

 突然の大声にはっとして目を開く。先ほどまでの暗闇は消え去っており、今まで自分が目を閉じていたのか開いていたのか思い出せない。緩やかだったはずの降下はいつの間にか猛スピードの降下に変わっており、審神者は自分が空から落ちていることをようやく目で見て知った。眼下に広がるのは広い場所。枯れた木々がいくつか見えているが、今はそれどころではない。真下に山姥切長義の姿が見えている。審神者を見上げて必死な顔をしている。審神者はまたはっとした。受け止めようとしてくれているのだ。だが、こんなスピードで落ちてくる人を受け止めて、果たして無事でいられるのか。心配がよぎったが、山姥切長義ができると踏んでこちらに叫んでいるのだ。それを信じない理由が審神者にはなかった。
 体を動かすことはあまり得意ではなかったが、審神者は必死で体を捻って正面を空に向けた。きれいに晴れた空から、まるで祝福を注ぐかのように暖かな日の光が降り注がれている。ああ、美しい光景だ。そう思う余裕が自分にあることに、審神者は少し驚いた。

「口を固く閉じろ! 拳を握って腕を胸の前で畳め!」

 言われた通り、口を閉じ、拳を握って腕を畳む。そうしてぎゅっと目を瞑り、無意識に呼吸が止まった瞬間、体中に衝撃が走った。審神者はしばらく目を開けられずにいたが、どうやら自分が地上に降りたことだけはなんとなく分かっていた。そうっと目を開けると自分は横たわっており、そんな自分をしっかり抱きとめた山姥切長義もまた、横たわっていることに気が付く。山姥切長義は審神者を受け止めると同時に受け身を取るように転がって衝撃を少しでも和らげようとしたのだ。勢いが予想以上でかなり転がってしまったようだが、審神者は多少のかすり傷で済んでいた。
 ゆっくりと山姥切長義も息をつくと、「怪我は」とどこか怒っているような声色で呟く。審神者は少し怖気づきつつ「かすり傷くらい」と答え、山姥切長義が起き上がると同時に体を起こした。山姥切長義は審神者から腕を離すと、審神者の頭についてしまった砂を払ったり背中を払ったりする。そのあとで自分の身なりを整えてから、珍しく一つ舌打ちをこぼした。山姥切長義もかすり傷くらいの怪我で済んでいるようで審神者は一人でほっと胸をなでおろす。だが、山姥切長義は安堵する間もなく辺りに気を気張り続けていた。

「最悪だよ」
「え?」
「状況は最悪だ。政府との通信は取れるかな」
「……取れないみたいだけど、あの、ここは……?」
「阿津賀志山だよ」
「え?」
「まったく、何がどうなってるんだ」

 審神者ははっとした。先ほどまで辿れていた様々な気配が薄くなっている。そこに何かがいる、くらいにしか分からないのだ。そんな感覚は審神者にとっては政府に向かう際の道中や、町へ出るときの道中くらいしかない。この感覚があるとき、審神者が置かれている状況としては、本丸システムの外へ出ている場合が多い。
 目の前に広がる山。そこに様々な気配が蠢いていることは審神者にも分かった。そして、それが恐らく時間遡行軍であることも。阿津賀志山は就任初期の審神者の一つのボーダーとなっている。ここを突破できなければ様々な特殊任務には就けず、いつまでも手をこまねいていると審神者の任を解かれる。ここを突破できずに本丸を去った審神者は数知れない。基本的に太刀や大太刀の独擅場となることが多く、短刀や脇差はそのフォローに回ることの多い戦場だ。練度が高い編成でなければ簡単には突破できない。つまり、たった一振では突破が難しい戦場なのだ。
 審神者は、いや待てよ、と思考を止める。別にここには出陣をしに来たわけではない。阿津賀志山に入れと命じられているわけでもない。つまり、別にこの戦場を突破しなければいけないわけではないのだ。それであれば話は別だ。山に入らなければ基本的に時間遡行軍、とりわけ強い敵は降りてこない。いや、そもそも。ふつうの出陣の際にもあるように、強制撤退をすれば戻れるのではないか。審神者はそう思い試してみたが、どうやら一切審神者としての能力を発動できないようになっていた。
 恐らく、バグの一種だろう。先ほどの落ちるような感覚は刀剣男士たちが戦場へ出陣する際の転送時に感じる感覚。だから山姥切長義はあまり取り乱さずに対処できているのだ。

「恐らく閉じこめられているのではないかな」
「たぶん……強制撤退もできないし、通信も取れない。サーバ内から私が消えたことは政府の人たちも分かっているだろうけど……」
「君の数字を辿っていつかは見つけるさ。政府は外道だが無能ではないからね」

 外道と言い切った山姥切長義に若干苦笑いをこぼしたが、無能ではないという言葉に少しの情を感じる。審神者はようやく立ち上がると辺りを見渡す。たしかに過去阿津賀志山へ出陣した際の映像で見た景色だった。
 山姥切長義の見解はこうだった。恐らく審神者が感じた吸い込まれる感覚は、この強制転送のもので、転送されたことのない審神者にはそれが不思議な感覚に思えた。強制転送の位置はバグにより発生したものであり、政府が仕組んだものではない。こういったバグも過去に何度かあったそうだが、そのどれもが時間が経てばいつの間にか元の場所に戻っていることが多い。敵を無理に倒す必要はない。山姥切長義はそう説明してから一つ息を吐く。

「君はこれまでの例を見て俺が相応しいと思って護衛に選んだ。それ自体は間違いではないが、今回はかなりのイレギュラーだった。素直に鶯丸か加州清光を選ぶべきだっただろう」

 山姥切長義はゆっくりと審神者を見つめる。そうしてほほえむような、そうでないような曖昧な表情を浮かべて「君は間違っていなかった、運が悪かったんだ」と言った。審神者はその言葉を飲み込むのに少し時間をかけた。山姥切長義が何を言わんとしているのかを読み取ろうとしているのだ。

「もしかして、自分では力不足だと思ってる?」
「君は品がないね。わざわざ言い換えなくとも」

 はは、と山姥切長義は審神者を笑う。山姥切長義という刀は基本的には冷静、落ち着きがあり、思いやりもある。だが、自分に自信がある個体が多く、弱音を吐くことは少ないとされていた。

「阿津賀志山へ出陣経験はあるが……だからこそ分かるよ。俺一人では君を守り切れない」
「山に入らなくてもここにいれば……」
「時間遡行軍はすでに俺たちに気が付いている。こちらへ来ているんだよ」

 戦場における探知能力は刀剣男士が優位となる。審神者は戦場では基本的にはただの人間に成り下がるのだ。審神者は何かが蠢いている、という程度にしか時間遡行軍の動きは分からない。けれど山姥切長義にははっきり分かっているのだ、こちらへ向かってきていると。ただ山姥切長義が言うには強い敵は降りてきておらず、下っ端の連中が先に来ているとのことだ。山姥切長義は山を見上げてから、静かに刀に手をかけた。

「俺が言ったことを覚えているかな」
「……うん」
「そうか、それなら良し。下がっておいで」

 優しく笑った。審神者はそんな山姥切長義の顔を見たのははじめてだった。しかし、その表情は一瞬で消え去る。
 光を斬り裂くような鋭い閃光。思わず目を閉じると当時に空気すらも斬る刀の音が聞こえた。それと山姥切長義の舌打ちが聞こえると同時に目を開けると、すでに辺りを敵短刀に囲まれていた。ゆっくり呼吸を落ち着かせる努力をする。審神者が焦ったところで何かができるわけではない。山姥切長義の邪魔をしないこと。審神者はそれだけを考え続けていた。そうする以外審神者には何もできないのだ。
 戦場において審神者は無力である。審神者就任前に受ける研修でまず教わることだ。一歩本丸から出てしまえばただの人。簡単な術しか使えず気配も辿れない。だから基本的に戦場へ出ることはないし、政府もそれを良しとはしない。

「左手をこちらへ」

 焦ってしまいそうな審神者と違い、山姥切長義は非常に落ち着いていた。審神者が伸ばした左手をしっかりつかむと、審神者の体をしまい込むようにきつく抱き寄せる。それと同時に振り下ろされた刀により、敵短刀が数本消え去った。

「力不足だと思っているよ」
「え?」
「けれど、だから諦めたとは言っていない」

 きつく刀を握る手が審神者の視界に入る。それが一瞬で振り下ろされるたび、審神者の目には見たことのない輝きが走った。こんな状況でそれを美しいと見惚れてしまうほどに、審神者の瞳に印象強く焼き付いていく。山姥切長義が振るう刀はそれほど美しく見えた。上から叩き割るように、下からすくいあげるように、横からかすめ取るように。山姥切長義の刀はまるで生きているように敵を斬り続けた。片手で審神者を庇いながら何度も振るわれる刀に、敵の何振かが山へ戻っていくのが見える。けれど、審神者を庇いながらそれを追跡できる余裕はない。山姥切長義はその後ろ姿に舌打ちをこぼしつつ、目の前に残る敵だけを見つめて耐え忍ぶ。敵の数が減って来た。編成を変えるために一度伝令で戻って行っているのだ。敵も馬鹿ではない。山姥切長義は内心そう思いつつも、今の状況ではそれを好機だと考えることにした。戦線を離脱する際、多少の隙が生じる。それを残らず斬り落としていくと、気が付いたときには夕日が射していた。
 そうして二人はようやく、一つ目の危機から脱することができたのだった。

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