※捏造過多。
※主人公が那須隊設定。




 水上先輩の部屋は、正直あまり落ち着かない。氷が溶けてカランと音を立てるだけでびっくりしてしまう。それくらい、なんだかそわそわする。
 任務がない日、授業を終えてからそのまま帰宅しようとしていたときだった。水上先輩から着信。あまり電話をかけてくることがないから、緊急事態でもあったのかとおっかなびっくり電話に出た。すると、水上先輩はいつもと変わらぬぼんやりした声で「今どこ? 今日なんかある?」と聞いてきた。特に用事もなかったのでそのまま答える。それに対して水上先輩は、別段特別なことでもないような口ぶりで「ほな今からうち来おへん?」と言ったのだ。
 両親は帰宅が遅いとボーダー本部にいたのだと勝手に思ってくれるようになっている。夕飯はなくていいことだけを連絡しておいた。それから自宅とは反対方向へ向かい、駅前で水上先輩と合流。そのままどこにも寄り道せずに水上先輩の家にお邪魔している。

「前も確認しましたけど、女子禁制とかはないんですよね?」
「ないない。その辺りは自己責任でなんでもせっちゅう感じ。そもそも寮とちゃうしな」
「え、そうなんですか?」
「ボーダーが提携しとるだけのアパートや。三つ隣にオペレーターの子住んでるし」

 それは知らなかった。てっきり寮なのかと思っていた。素直にそう言うと「北側は寮やで」と教えてくれた。隣り合って男子寮と女子寮が建っているそうだ。位置的に大学生の隊員が多く住んでいるそうで、高校生はほとんど入寮していないのだとか。
 三門市出身のわたしには全く関わりのない話なので知らないことばかりだ。水上先輩によると本部内にも居住区があるそうで、生駒隊のスカウト組もはじめはそこに住む予定でこっちに来たのだという。ただ、本部内の居住区だとそれぞれの学校まで距離があるし、正直自由が少ない。そういった理由でそれぞれが生活しやすい位置にあるアパートを住むことになったそうだ。
 冷蔵庫から麦茶が出てきた。どん、とテーブルにペットボトルを置いてからコップも置かれる。注ぐのはセルフのようだ。一応「いただきます」と言ってからペットボトルのふたを開けた。

「結局マリオとあれ行けたんか?」
「行きました。あとものすごく仲良くなりました」
「そらよかったな」
「明日は真織ちゃんの家にお邪魔する予定です」
「そこまで仲良うなったんか。ビビるわ」

 コップに麦茶を注ぎ、しっかりふたを閉めてからテーブルに置く。冷えた麦茶をごくごくと飲んでいると「ちゅうことは明日は予定があるっちゅうことやな」と水上先輩が呟いた。

「何かありました?」
「いや。なんもないんやったらどっか行こかと思うただけ」

 水上先輩もペットボトルに手を伸ばす。気怠そうにペットボトルを掴むと「ま、別に行きたいとこがあるわけちゃうねんけど」とあくびをこぼした。
 意外と、休みの日が合えば大体何かに誘ってくる人だ。たまにはのんびり一人で過ごしたい、と言いそうなのに。何かしたいことや見たいものがあるわけじゃなくても誘ってくれる。結構寂しがりなのかな、とこっそり思っておく。
 ペットボトルがまたテーブルに戻される。もう表面に水滴が浮いてきていて、もう少ししたら垂れていくだろう。コースターか何か敷けばいいのに。内心そう思いつつ、近くに置かれていたティッシュを一枚いただく。それでペットボトルの表面を軽く拭いていると、水上先輩が「そんなんどうでもええで」と言った。わたしが気になるので。そう返せば「そらどうも」と軽く言うだけで、特に咎めてくることはない。



 びくっと肩が震える。下の名前。それに思わず反応してしまった。誤魔化すように「はい?」といつも通り返すと、水上先輩がちょいちょいと手招きしてきた。いつも通りの顔に見える、けれど。呼び方は二人きりのときにしか呼ばない下の名前。水上先輩の表情は読みづらくて困る。わたしばかり後手後手に回っている気がして、いつも少し悔しい。
 なんだかんだで付き合って半年くらいになる。それなりにお互いの感覚やパーソナルスペースは把握しているつもりだ。わたしが認識している水上先輩のパーソナルスペースは結構広めだ。相当仲が良い人じゃないとべたべたされることを嫌う。面と向かって嫌がるわけじゃないけど、相手に気付かれないよう自然に距離を置く姿をよく見る。本人は無意識なのかもしれない。
 わたしもどちらかというとパーソナルスペースは広いほうだと思う。ボーダー内での交友関係もあまり広くない。特に異性とは結構距離を取るほうだと思う。基本的には那須隊のみんなと行動していて、他の隊とはそこまで。
 水上先輩とこういうことになるきっかけは、一年前の出来事だ。ランク戦終わりに一人で歩いていたとき、角を曲がった際に水上先輩とぶつかってしまった。水上先輩は後ろにいた人に意識を向けていて、わたしは俯きがちで歩いていた。お互いの不注意だった。
 大抵の人はそこで、自分が悪かった、と全面的に謝罪してくる。わたしもそうだった。何より相手が男性だ。先に全面的に謝罪されることを予想して先に全部自分のせいにして謝っておいたのだ。気を遣わせたくなかったし、あまり知らない異性と会話をするのも緊張する。早くその場を治めてしまいたかったが故の行動だ。
 水上先輩は、それに全乗っかりしてきた。「ちゃんと前見んとあかんで」と言って。びっくりした。だって、普通の男の人はそういうときは自分が悪いと否定するか、お互い悪かったと気を遣うかのどちらか。わたしが今まで関わってきた人はみんなそうだった、のに。水上先輩は躊躇いなくわたしが悪いことにした。
 ちょっとイラッとして「そちらも後ろを見ていたみたいですけど」と言ってしまった。水上先輩は「謝ってきたん建前かい」と愉快そうに言ってから「そう思うんやったら自分が悪いです〜みたいな顔せえへんほうがええで」と頭をかいた。あのときの顔は忘れられない。面倒な女に捕まった、という億劫そうな顔。今思い出しても腹が立つ。

「なんでしかめっ面すんねん。早よ来いや」

 ちょいちょいとまた手招きをしてくる。来いと言うならそっちが来ればいいのに。そう思いつつも、相手は一応家主だ。ついでに先輩。もっとついでに、一応、好きな人。来いと言われたら行かないという選択肢が正直なかった。
 第一印象は生駒隊の賢い人。第二印象は性格があまり良くない人。それだけの印象の相手だったけど、ぶつかってしまった日以来やけにわたしにちょっかいをかけてくるようになって、唯一軽口を叩ける異性となった。どういうわけか他に誰もいないときしかちょっかいをかけてこなかったから、周りには関わりがあると思われていなかったはず。
 どうして水上先輩は、あれからわたしにちょっかいをかけるようになったのだろうか。突っかかられて苛立ったからとか、そういう感情的な理由で動く人じゃないだけにずっと疑問のままだ。
 まあ、疑問といえば、水上先輩がわたしを好きになった理由もそうだ。そして何より、わたしが水上先輩を好きになったことが一番の疑問だ。

「……なんですか」
「もうちょいこっち」
「だからなんですかってば」

 ため息交じりに言いつつ、水上先輩の近くに座る。まだ水上先輩が近くにいることには慣れない。この人のパーソナルスペースに入り込むことに未だに緊張する。何かしたら一気に突き放されそうというかなんというか。そういう油断できない空間のように思えてしまうから。
 じっとわたしを見ていた水上先輩が「ん〜」と悩ましげに唸ったのが聞こえた。わたしの顔に何か。そんなふうに思わず眉間にしわを寄せてしまう。水上先輩はそれにも「ん〜〜」と余計に唸る。
 一体何なんだ。怪訝に思っているわたしを放ったらかしにして、突然ごろんと寝転んだ。わたしの膝を枕にして。

「ちょっと、なんですか」
「嫌ならやめるで言うたらええやろ」
「嫌とは……言ってませんけど」
「やったらええやろ」

 それきり黙ろうとするので、慌てて「痺れるので脚、伸ばしたいんですけど」と言う。水上先輩は「お好きにどーぞ」とだけ返して動きつもりはないらしい。人の頭が乗ったまま脚を動かすの難しいんですが。そう思いつつゆっくり脚を伸ばしておいた。
 急にどうしたんだろう。水上先輩の考えていることはわたしの何歩も先にいるように思えて仕方ない。

「あの、なんですか? 疲れているなら布団で寝たほうがいいんじゃないですか?」

 水上先輩を見下ろすと、当然だけど目が合った。それと同時に水上先輩がわたしの顔に手を伸ばしてくる。思わずきゅっと目を瞑ったすぐあと、顎の下辺りを指先で撫でられた感覚があった。目を開けると水上先輩が薄く笑っている。ちょいちょいとわたしの顎を触りながら。

「……本当になんですか?」
「いや? なかなか懐かへん猫やなあと思うただけや」

 とりあえずくすぐったいので手を払っておく。猫って。変な言い方をしないでほしい。クレームをつけておくと「やってそうやろ」と悪びれる素振りはなかった。
 水上先輩はそのまま机のほうへ手を伸ばし、置きっぱなしになっていた本を掴んだ。そうしてわたしの膝を枕にしたままそれを読み始める。わたしはこのままでいろってことですか。自分勝手すぎるんじゃないですかね。そんなふうにじとっと水上先輩を見下ろす。
 水上先輩が目線だけこちらに向けると「心配せんでもあとで構ったるわ」と言ってわたしの太腿の側面を軽く叩いてきた。別にそんなつもりじゃない。そう無言でおでこを軽く叩き返してやった。

「なあ」
「もう、なんですか。これ以上何も貸せるものがないんですけど」
「今日泊まってかへん?」
「…………今日は、ちょっと、だめですね」
「あー、水上了解」

 あっさり引いた。それに少し驚く。もう少し粘られるものかと思っていた。今日は誘ってきたときからなんとなく、いつもより少しくっつきたそうな感じがあった、気がするし。そういうことがしたくて呼んだのかな、と少しだけ思っていた。
 明日は友達と遊ぶ、と両親にすでに言ってある。今日が急に泊まりになった、と言うと不審がられる可能性がある。嘘を吐くことが元々得意ではない。事前に友達の家に泊まる、と両親に言った日じゃないと少し厳しいところだ。

「あの、怒ってます?」
「は? なんで怒らなあかんねん」
「いや……泊まれないから」
「アホか。どんだけ最低男や思てんねん」

 さすがに呆れたような顔をされる。視線は本に向けたまま「心外やわ」と呟かれる。まあ、確かに。今のは少し失礼だったかもしれない。
 ほんの少し開いている窓から風が吹き込む。ミラーレースカーテンがふわりと膨らんで、ゆっくり切れ間が広がった。そこから差し込む夕日。床にオレンジ色の水たまりを作ったみたいにきらきら光っている。風が弱まってミラーレースカーテンがゆっくり定位置に戻っていく。それに覆われるようにして、差し込んできた夕日のきらめきが弱まった。

「水上先輩」
「言うとくけどまだ退かへんで」
「そうじゃなくて。あの、膝は貸すので」
「なんやねん」
「……キス、して、ください」

 ぶわっと強い風が吹く。またミラーレースカーテンが舞い上がり、どばっと夕日のオレンジが部屋に流れ込む。生ぬるい風だ。あまり気持ち良くない。けれど、この場において、風の温度なんかどうでもよかった。
 ちらりと視線がこちらを向く。いつもとなんら変わりのない瞳が捉えるわたしはどんな顔をしているのだろう。馬鹿な女に映っているだろうか。

「水上先輩≠ヘそういうことはせんなあ」

 本を閉じた。のっそり起き上がると、髪を軽く左手でかく。閉じた本を机に置いてあるペットボトルの近くに置く。水滴がまた落ちてきている。本が濡れたらどうするつもりだ。そう思いつつも、水滴を拭くことも本を移動させることもできずにいる。
 特別になってみたい、と思ってしまった。それこそがわたしが落とし穴にはまってしまったきっかけ。表立って誰かを特別扱いするタイプじゃない。蝶よ花よと異性を愛でるタイプでもなさそう。誰にでも平等で、誰にでも少し距離を取る。そういう人の、特別に、なりたかった。
 かといって、この人がそういう人≠セから好きになったわけじゃない。はじめてちゃんと話した場面、ぶつかった相手が別の人だったら、わたしはあんなふうに言い返さなかった。この人だからあんなふうに言ってしまったのだ。そこが、一生わたしが分からないところ。どうしてこの人だったのだろう。どうして、この人じゃなきゃいけなかったのだろう。
 気怠そうな猫背がもっと丸まる。わたしの顔を楽しそうに覗き込んできた。誘うような指先が、床についているわたしの手の甲を静かに撫でる。

「……敏志くん」
「はいはい。なんでしょう」
「わざとやってるでしょ……」
「そらそうやろ。滅多に甘えてこおへんし」
「まあ、そう、かも」
「で、なんやねん。何してほしいんか言うてみ」

 、と二人きりの部屋に密やかな声がこっそり響く。わたしの名前。はじめて呼んだそのとき、敏志くんは見たことがないくらい耳が赤くなっていた。意地悪で、賢くて、どこか気怠そうな人。そんな人でも普通の人のように照れたりするのか。そう少し驚いたのを覚えている。
 ああ、わたしは、この人を暴いてみたかったのか。ふと腑に落ちた。人並みに恋愛をして、人並みに日々を過ごすこの人を、隣で見ていたかったのかもしれない。今こうして目の前で、普通の人みたいに楽しそうにしている顔を、こんなふうに一番近くで見たかったのかもしれない。

「キス、して」

 こうやって満足そうに笑って、優しい声で「ええよ」と言う。そんな誰も知らない敏志くんを、知りたかったのかもしれない。もしくは誰にも知られたくなかったのかも。そんなことを思いながらそっと目を閉じた。


素敵な黄昏