※諸々捏造あり。




 水上敏志は子どもの頃から、周りの男子とは少し違っていた。子犬のじゃれ合いのように騒ぐ男子たちを、まるでブリーダーの立場かのような視線で見ていることが多かった。かといって冷めているわけでなくきっちり遊びには付き合ってやる。大人に叱られるときは大人しく一緒に叱られてやる。セーフとアウトの線引きがしっかりしており、一線を越えそうな子犬にはしっかり罰を与える。もちろんそのあとのフォローも忘れない。やり手ブリーダーだ。血統書付きの犬を迎えるときは彼のようなブリーダーの元からがいい。そう思うくらい、まあ、端的に言えばクラスメイトを掌握していたのだ。誰も気付かないうちに。
 わたしと敏志の共通点は、騒がしい教室の中でも集中して読書ができるところだった。誰かに話しかけられても、適当な返事をしつつ本を読むことをやめない。それを共通点として指摘してきたクラスメイトが「お前ら、気合いそうやな」と発言したことがきっかけで、交流を深めることになった。仲良くなってからは進行が速かった。お互い本を読むのも速い。それが仲良くなってから付き合うまでの速度に比例するかは、何の研究結果もないから分からないけれど。
 中学二年からそれなりに順調にお付き合いを続けた。そして、高校に上がる少し前、わたしたちの関係はがらりと変わった。敏志がよく分からないナントカ機関にスカウトされ、それに乗ったというのだ。大阪から引っ越した先の高校に進学すると、とっくに入試が終わった時期に聞かされた。
 棋士を目指していたのは? わたしと同じ進学校を受けると言っていたのは? 来年も一緒に初詣に行こうと言っていたのは? あれは全部、一体なんだったのか。ただの彼女という立場では人生に口を挟めず、わたしは「じゃあ、向こうでも頑張ってな」としか声が掛けられないまま、敏志は当たり前のように新幹線に連れ去られていった。



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 ずっと同じページに挟まっている栞の気持ちがよく分かる。本を読んでいるはずの主は別の本を読んでいるのか、それとも読書という趣味に飽きてしまったのか。この世はありとあらゆる娯楽に溢れている。別の趣味を見つけてしまえば、読書などいつでもできる下等な趣味に成り下がるかもしれない。ずっと同じ場所の目印として挟まれている栞だけが、この物語の続きを知りたがっている。そんな、可哀想な立場だ。
 返信をするのが苦手な人であることはちゃんと分かっている。元々そういう性分だと知っていたのもあるし、本人の口から苦手だと聞かされていたこともある。でも、電話の折り返しもなければメールへの返信もない。トークアプリでは既読は付けても返信はもちろんなし。これは、彼女への対応としてはアウトなのではないか。
 敏志はボーダーとかいうよく分からないところで、隊員としてヘンテコな生き物と戦っているという。イコマという人が隊長の部隊で、敏志はシューターとかなんとかというポジションだと聞いた。なんだそれ。一つも分からん。眉間にしわを寄せながら敏志からの報告メールを読んでからもう随分経つ。わたしたちは高校三年生になった。敏志は相変わらず、あまり連絡はくれない。
 わたしはお気に入りの本を何度も読むタイプだ。言葉の運び方、リズム、雰囲気。何度読んでも同じところで感動するし、いつだってはじめて読んだかのように新鮮に思える。同じ展開でも何度も読むと味が変わっていく。そんな気がして、少しでも気に入ったら必ず二度は読む。何度も読むほど好みに合う本はそう多くない。
 読んでいる本を閉じる。今読んでいる本はこれまで読んだ中で最も好きな本で、かれこれ何度読んだかは数えていない。何度読んでも好きだと思う。先の展開が分かっていても、次の言葉を覚えていても、いつまでも飽きない。それくらい好きな本だ。一等お気に入りの栞はずっとこの本に挟んでいる。
 敏志は、一度読んだ本はもう読まない人だった。内容は覚えているし、言葉の運び方にこだわりもない。話がどれだけ面白くても、もう一度読もうとは滅多に思わない。同じ展開を読んでも新鮮味がないし面白くないから。なんなら途中まで読んだ本も、あまりにもつまらなかったら読むのをやめてしまう。書店でもらった栞が中途半端なところに挟まったままの本が本棚に結構たくさんある。そう言っていたっけ。
 敏志にとってのわたしは、つまらなくて途中で読むのをやめてしまった本なのだろうか。もう次の展開をわくわくしてページをめくってもらえることもなく、この先物語がどうなるかを考えてもらえることもない。ただただ書店でもらう宣伝が書かれた栞が、決定的につまらなかったところに挟まったまま。ずっとここがだめだと指摘されているような気持ちのまま、本棚に取り残される。たくさんのつまらなかった本たちと一緒に、ずっと、帰ってこない持ち主を待ち続ける。そんな本。そんな本に挟まっている栞。どちらも、なんだか可哀想だ。
 次いつこっち来るん? そう送ったメッセージへの返信はなし。既読は付いている。それに返してこないということは、まだしばらく帰ってこないということ。それくらいのことは読み取れる。敏志は無駄なことはしない人だ。帰る予定があれば日程を伝えてくるだろうけど、帰る予定がないのなら返信しなくても十分伝わる。そう思っているのだ。分かる。分かるのだけど。
 もう、振ってくれればいいのに。あっちにはもっと綺麗な人やかわいい人がいるんだろう。先を読む価値のない本みたいなわたしより、もっともっと先を知りたい人がたくさんいるのだろう。そう思うと、途端にムカついてきた。
 わたしはどんなに合わない本でも必ず最後まで読む。一度読んだからには物語を最後まで知りたいと思う。最後まで読んでもつまらないままの本はもちろんあるけど、中には最後まで読んでよかったと思う本だってたくさんあった。休憩するように何度も栞を小刻みに挟み続けた本も多い。それでも、最後まで読まなかった本は、一冊としてない。栞をただ本に挟まっているだけの紙切れにしてしまったことは一度たりともない。
 わたしを怒らせたら怖いことを教えてやる。読んでもらえない本の恨みを、きっちり教えてやる。そう決心してわたしはスマホを握りしめた。



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 一ヶ月後、わたしは三門市内の駅で電車を降りた。行き交う人に紛れてなぜだか息を潜める。今、敏志が暮らしている街。そう思うと、妙に胸が痛かった。
 世間は大型連休中だ。わたしもそう。両親には友達とテーマパークに行くと嘘をついて、二泊三日の旅行を装って家を出た。実際には二泊三日、三門市内で潜伏するだけだ。まずはホテルにチェックインをしなければ。スマホで場所を確認しながら駅を出た。
 駅から出て思わず見てしまったのは、巨大な建物。どうやらあればボーダーという機関の本部なのだという。街にはボーダー隊員募集のチラシが貼られているのをよく見かける。三門市にとってボーダーという存在が当たり前なのだとそれで分かる。三門市だけに変な生き物が出現する理由は不明なのだと聞いた。なんやねんそれ。正直な感想がそれだ。三門市に変な生き物が出現するのは事実だとしても、どうしてそれに敏志が関係するのか。どうして敏志がそれを排除する機関に所属することになるのか。それが未だによく分からない。棋士になるのはどうなったの。わたし、応援していたのに。
 ホテルの場所までの案内を表示していたスマホに通知。見てみると、SNSの更新通知だった。SNSのユーザーは王子という人。一ヶ月かけて敏志の周辺人物を特定できるだけ特定した。SNSをやっているこの王子という人と、あと隠岐という人の特定に成功。王子という人は何度か敏志の名前も出していたから仲が良いのかもしれない。
 更新された内容は大したものではない。「大型連休。何しようかな?」という一文だけ。ボーダーにも連休はあるのか? そう思っていると、その投稿に返信がついた。「防衛任務あるから連休じゃないでしょ」という一文。相手の人はどうやら女性。この人も恐らくボーダーの人なのだろう。
 スマホの画面を案内のものに戻す。こうやって周辺の人のことを見ていると、敏志もこんなふうに過ごしているのかも、とぼんやり思う。防衛任務が何なのかはよく分からない。まあ、任務と付くようなものなのだから仕事なのだろう。どんなたいそうなお仕事なのかは知らないけど。
 無事に到着したホテルでチェックインを済ませ、ホテルマンに荷物を運んでもらいつつ部屋へ。運んでもらったことにお礼を言ってからドアを閉めた。さて。ここからどうするか。当然ながら敏志には何も言っていない。どうせ言ったって既読スルーされるだけだからだ。
 そのときだった。SNSの更新通知が鳴る。ベッドに放り投げたスマホを拾って見てみると、隠岐という人が更新した通知だった。この隠岐という人。どうやら敏志のチームメイトらしいのだ。普段は猫の写真や風景の写真ばかり載せるけど、稀にチームメイトの人たちとのことを投稿する。名前は出さないし具体的なことも書かない。でも、一度だけ写真の端っこに見たことがある指先が写り込んでいて確信した。
 今からみんなで久しぶりのお好み焼き。そう書かれた投稿に思わず立ち上がる。適当に荷物の準備をして、ルームキーを引っ掴む。敏志が通っている高校とボーダーの建物の位置関係。そして、王子という人と隠岐という人の生活範囲。それをすべて加味すれば、このホテルの周辺は敏志の生活範囲である可能性が高い。ここから一番近いお好み焼き屋さん、もしくは鉄板焼き屋さん。スマホで検索をかけてヒットしたところが六軒。人気店から順番に見ていこうと思ったけど、クチコミを読んで思わず指が止まる。ボーダーの人の実家らしい。そんなクチコミを見つけたのだ。



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 わたしはどこでも読書ができる。どこでも寝られる人がいるのと同じ。どんなにうるさくても、どんなに鬱陶しい人がいても、気にせずに本を読める。それくらい読書が好きだからだ。
 とはいえ、さすがに鬱陶しすぎる人が近くにいるのは好ましくない。三門市は変な生き物が出るわ、鬱陶しい人が出るわで治安に問題があるのではないか。そう、ため息をこぼした。

「聞いてる? 暇してるならお兄さんたちとカラオケでも行かない?」

 どう見ても読書をしています。ため息交じりでそう返すと「だから暇してんでしょ?」と言葉が返ってくる。馬鹿と会話をするのは疲れる。読書を暇と捉えるようなやつは総じて馬鹿だ。アホではなく馬鹿。構う価値がない。それに、わたしは今、読書をしながらターゲットを待っているところだ。決して暇ではない。どちらかといえば大忙しだ。
 お好み焼き屋・かげうらの横にある電柱に寄りかかって時間の経過を待っている。お店の中には結構人がいるらしく、賑やかな声が外まで聞こえている。さすがに中を覗くのはマナー的に宜しくないだろうと判断したため、中に敏志がいるかは確認ができていない。
 そんなところに、よく分からない男共が声を掛けてきた。暇そうにしている女を見つけてちょうど良いと思ったのだろう。引っかけてやろうという下心が透けて見えた。さすがに鬱陶しすぎてここにいるのが嫌になってきた。行き交う人にもちらちら見られている。目立つのは本意じゃない。敏志にバレないように姿を確認して、さっさと帰ってやるのが今回のミッションなのだから。会いに来たわけじゃない。話に来たわけじゃない。どんな生活をしてやるのか勝手に見てやろうと思っただけだ。
 一時避難の必要がある。そう判断して本を閉じる。男共はわたしが一緒に行く気になったと勘違いしている。いろいろ声を掛けてくるがすべて無視。背中を向けて歩き出そうとしたところを、一人が腕を掴んで阻止してきた。「さっきから感じわりーな」と苛立った声で言われる。こっちからすれば興味がないとはっきり態度で示しているのに、めげずに構ってくる目障りなやつらでしかない。それがどうして分からないのか。ため息交じりに「迷惑です」と伝える。腕を掴んでいる男の癇にさわったらしい。腕を掴む力が強まったのが分かった。
 そのときだった。カラカラとドアが開く音がする。なんだか懐かしい音だ。弾むような軽くて高い音。思わず視線がそちらに向くと、見つけてしまった。水上敏志、その人の姿を。まずい。見つかる。なんでもいいから逃げようと男の腕を振り払おうとしたけど、力では勝てない。「急に暴れんなよ!」と男が怒鳴ると同時に、店から出てきた集団の視線が、こっちを、見た。

「……は?」

 まぬけな声だった。久しぶりに聞いた声にしては、あまりにも。そう眉間にしわを寄せていると、敏志が「おい、何してんねん」と言いながらこちらに寄ってくる。それを見た周りの人がなんだか意外そうな視線を敏志に向けるけど、敏志はそれを気にも留めずにずんずん近寄ってきて、わたしの腕を掴んでいる男の近くで立ち止まる。
 敏志の視線は、分かりやすく怖いものではない。目つきはあまり良くないけど、睨んで迫力がある強面タイプじゃないからだ。ただ、ねっとりと絡みついてくるような嫌な感じを放つ視線を嫌う人は、恐らく多い。じわじわと追い詰められていくような感覚。ヘビが獲物を牽制するかのようなそれに、大抵の相手は音を上げる。

「それ、自分のツレなんやけど。何か用なん?」

 誰がお前のツレやねん。余計に眉間にしわが寄った。舌打ちがこぼれそうだ。見つかったし、変なところを見られたし。何もいいことがない。最悪だ。
 ぱっと手が離れた。あんまりにも呆気なく解放されて少し驚いてしまう。掴まれていたところにじんわり血がめぐる感覚。気持ち悪い。どれだけ強く掴んでいたんだ。痕が残ったらどうしてくれる。そんなことを考えているうちに、鬱陶しい男共はそそくさと街のどこかへ消えていった。

「で、何してんねん。そもそもなんでこんなとこおんねん。何も聞いてへんのやけど」

 わたしが小説の中の登場人物だったならば、この男をここで刺し殺して自分も死んでいたことだろう。それくらい劇的な展開が起こっても悪くない。あんたがわたしを放ったらかしにしているからでしょう、他の誰かに盗られるくらいなら殺してやる。そんなお決まりの台詞を吐いてもいい。よくある展開だろうがなんだろうが、言葉の選び方とリズムと雰囲気が良ければ面白い物語が綴れるものだ。
 残念なことに、ここは物語の中ではない。ただ現実世界。だから、血が流れるような展開は好ましくない。ぶん殴るくらいはいいかもしれないけど、それではわたしの手が痛くなってしまう。それは実に好ましくない。

「世間は大型連休やろ。ただの旅行や」
「いや、無理があるやろ。どこが観光地やねん」
「わたしがどこへ行こうと勝手やろ。口挟まんといて」
「あー、はいはい。口は挟まんからとりあえず腕見せろや」

 なんでやねん。すっと腕を後ろに隠しておく。赤くなりやすいことを覚えていたらしい。まあ、一応彼氏ですから。かれこれ付き合って五年目。お互い知らないことのほうが少ない、はずだった。
 背が伸びている。髪が伸びている。身長だけじゃなくて体が少し大きくなった気がする。顔も声もほとんど変わっていないのに、知らない人になったみたいに見えた。
 本棚に置き去りにされたわたしの知らないところで、わたしが知らない敏志のページが増えていく。わたしの新しいページはめくられることはなく、また敏志の新しいページを見ることもない。栞だけが、お互いずっと同じところで止まっている。そんな気がする。それが、わたしは、嫌だった。

「ちゅうか、なんで俺がここにおるって知ってんねん。エスパーか?」
「はあ? 自惚れんなや。あんたがおるからって来たわけちゃうわ」
「いやいや、そのノリもうええって。なんや、俺GPSでも仕込まれてるん?」
「誰があんたの位置情報なんか好き好んで見んねん。興味ないわ」

 なんでや、の連続で鬱陶しくなってきた。舌打ちをこぼしつつ、すっと指を差す。後方でぽかんとこちらを傍観している集団の一人。黒髪泣きぼくろの、猫好き。指を差された本人は「え?」と困惑した様子で首を傾げた。

「あの子やろ、隠岐くん。猫好きの」
「は? なんでお前隠岐のこと知ってんねん」
「あとここにはおれへんけど、王子とかいう人もおるやろ」
「ほんまに意味分からへん。なんで王子のことまで知ってんねん」
「この世にはな、ネットストーカーっちゅう存在がおんねん。恐ろしい世の中になったもんやな」

 敏志が固まる。そんな敏志の目の前にスマホをずいっと寄せてやる。つい一時間前に投稿された隠岐くんのSNS画面。お好み焼き。このワード一つではなかなか特定は難しかっただろう。けれど、これまで王子くんという人の投稿も含めて、とにかく敏志の周辺を嗅ぎ回った甲斐があった。高校の位置とボーダーの建物の位置、王子くん隠岐くんの生活範囲。クチコミの情報。全部を加味してここに辿り着いてやったよ。どれだけわたしから離れようとも、こうやって線と線を結び合わせて見つけられるんだよ。どうだ、わたしの怖さを思い知ったか。
 もう読まない本の栞は、どうか抜き取ってあげてほしい。永遠に読まれない本に挟まれた栞は、もう栞ではなくただの紙切れでしかないから。この続きが知りたいと願っても知ることは叶わない。めくられることのないページの先。それを待ち続けるなんて、わたしなら耐えられない。
 こっちの生活がそんなに楽しいですか。ボーダーとかいうところでの活動は夢中になるほど気に入っているのですか。そこで知り合って人たちとの時間は、わたしとの時間を無下にするほど、敏志にとって必要なものなのですか。折り返しの電話も、メールの返信も、トークアプリの返信も、全部忘れてしまうほど、わたしは敏志にとってつまらないものになったのですか。
 まくし立てるように呟いたわたしに、敏志が目を丸くした。これまでずっと聞き分けの良い彼女だったから驚いているのだろう。さぞ、残念がっていることでしょう。こんな女なら五年も付き合わなかったと後悔しているかもしれない。
 じっとわたしを見下ろしていた敏志が、ぎゅっと目を瞑った。梅干しを食べたあとみたいなブスな顔になっている。その顔をぽかんと見つめ返す。敏志は口元に右手を当てて「なんやねん」と小さく呟いた。

「何かわいいことしてくれてんねん……」
「は?」

 この「は?」は後ろの集団とユニゾンした。当たり前だ。周辺の人間のSNSを一ヶ月間探り、それを元に居場所を特定してくる女の何がかわいいというのか。敏志のツボが分からない。そもそも、わたしと付き合っている時点でツボがよく分からないのは昔からか。今更だった。
 がしっとわたしの手首を掴む。ずるずるそのまま引きずるように歩いて行きつつ、隠岐くんを含めた集団に「これ彼女っす」と適当に紹介をされた。

「ちょ、ちょ、おい待てや、どこ連れてくつもりやねん。わたしもうホテル戻りたいんやけど」
「一人旅なら別に戻らんでもええやろ。ホテルでもうちでも寝床があったら変わらへんし」
「変わるわ! 人の旅行プランを勝手に変えんなや!」
「怒んなや。久しぶりに会うたんやでもっと嬉しそうにせえや」
「どの口が言うねん、この無表情が! ちゅうかわたし半分別れ話のつもりで来たんやけど!」
「は?」

 ピシッと周囲の人が固まったのがよく分かる。一人の子が「シュラバってやつですか?」とどこか楽しげに言うのを女の子がチョップして黙らせる。それが横目に見えたけど、ひたすら敏志の瞳の奥を窺うことしかできずにいる。
 なんか、怒った、っぽい。声が低くなったしほんの少しだけ目を細めた。眉毛が少し動いたのも見えたし、腕を掴む力も強くなった。

「なんでそうなんねん」
「や、やって、あんた、わたしのこと別に好きちゃうみたいやし……」
「は?」
「電話しても折り返してこおへんし、メールもラインも無視するやん。ええ加減こっちも目覚めるっちゅうねん」
「いや、無視っちゅうか」
「無視以外のなんやねん」
「直接顔見て話したいやろ。せやけど会えへんし、連絡したら会えへんのに会いたなるで嫌やん」

 顎が外れるかと思った。敏志は大したことは言っていない、という顔のまま「必要なことは返信しとったやろ」と呆れたように言う。いや、呆れるな。それでも連絡を返していない頻度が多いことは事実だ。偉そうにするな。

「まあ、が電話なりメールなりもっとしたいんやったら、今度からもうちょい返すわ」
「……なんか、気色悪いんやけど」
「なんでやねん。大好きな彼氏に言う台詞ちゃうやろ」
「大好きってなんやねん。やめえや、サブイボ出たわ」
「そら大好きやろ。連絡してくれへんって拗ねてこんなとこまで一人で来た上で探し回ってくるんやで」
「探し回ってへんわ、調子乗んなや」

 けらけらと楽しそうにする敏志をシッシッと払っておく。大好きって。勝手に決めつけるな。ムカつく。電話も連絡も返してこないような人のことを大好きなわけがないでしょう。
 めくられることはないはずだった。わたしの先のページも、敏志の先のページも。もう読まないからと置いて行かれた気持ちになっていたのに。まるでもう一度すべて読んだから知っている、みたいな顔をされている。わたしだけが敏志の本を最後まで読んでいないように思えてきて、勝手に一人で悔しくなる。思い起こせば、わたしも敏志も本を読むのが速かった。そして、わたしより敏志のほうが断然速かったっけ。
 わたしの手首を掴んでいる敏志の手が少し熱い。前を見て歩けと言いたくなるくらいわたしのことを見ている。無表情なことが多い顔に薄く笑顔が浮かんでいる。敏志のチームメイトらしい女の子が「デレデレやん」と呟いたのが聞こえた。デレデレ。そんなふうに、わたし、思ったことなかった、な。
 わたしが読み落としたページがあるというのか。これまでの敏志のどこかを、見落としたのだろうか。わたしのミスなのか敏志が巧妙に隠していたのか。こんなにも好かれていたなんて、わたしはこれまで知らないままだったようだ。一つ読み落とせば物語が成立しないこともある。展開の意味が分からないこともある。読書好きなわたしがそんなミスをするわけがない。だから、敏志がそのページだけをわざと抜いたのだ。そうに違いない。そう思うしかできなくて、悔しくなった。


夢寐の落丁