※公式の呼称が不明なところは捏造です。




 訓練場を出てどこかで時間を潰そうか考えながら広間を歩く。そんなとき、「!」と声をかけられた。びっくりして声のほうに顔を向けると、真織ちゃんが生駒隊の人たちといるのを見つけた。真織ちゃんとはボーダー本部内で偶然話す機会があってから仲良くなった。学校が違うから会えるのは基本的に本部内が多い。たまに二人でお茶をしに行ったり映画を観に行ったりするくらい仲良しだ。
 ちょっと、緊張する。人にはあまり言っていないけれど、わたしは男の人があまり得意ではない。話せないというわけではないけれど何を話せばいいのか分からないし、わたしみたいにおどおどした相手は面倒臭がられることが多い。生駒隊の人たちは会話のテンポが速いから余計にだ。一つ息をついてから真織ちゃんに「お疲れ様」と返事をする。そうっと近付きつつ、やっぱり、どきどきした。
 水上先輩、いる。そう内心でぽつりと呟く。水上先輩とはただの一度も話したことはない。真織ちゃんを通して存在を認知されているかも、くらいの関係だ。そうだとしても、わたしにとっては絶対に秘密の、好きな人として見えてしまう。

「あれ、一人なん? 他の人らは?」
「一人で訓練に来ただけだよ。今からどうしようか考えてたの」

 見ると目が合う。真織ちゃんのことだけをじっと見て、どうにか視線が散らないように気を付けた。どきどきする心臓を無視して真織ちゃんに「何かあった?」と聞いてみる。真織ちゃんが「ああ、そうやった」と言いつつ鞄を開ける。鞄から出てきたのはかわいい包み。首を傾げていると「この前実家帰ってん。お土産」とにこにこ笑って手渡してくれた。

「え、いいの? ありがとう!」
「この前お菓子くれたやん。そのお礼」

 きゅんとした。一人でそれを噛みしめていると、真織ちゃんが「大袈裟やねん、はずいわ」と軽くわたしの腕をはたいた。他校の子ではじめて仲良くなった真織ちゃんは、わたしにとっては特別な友達なのだ。実家に帰ってもわたしのことを思い出してくれたのだと思うと嬉しくて仕方なかった。
 真織ちゃんがくれたお土産を鞄にしまおうとしたときだった。わたしの鞄を見た真織ちゃんが「イヤホン?」と不思議そうに覗き込んでくる。鞄の外ポケットに入れたイヤホンが出ていたらしい。何かに引っかけて落とす前でよかった。お礼を言いつつポケットにしまい直した。

、音楽とか聴くんやっけ?」
「あ、いや……音楽は聴かない、けど」
「動画とか?」

 う、と固まってしまう。ここで、言うの、ちょっと恥ずかしいんだけどな。まあ、本人は何も思わないだろうと、思うけれど。
 本部内で一つ上の先輩数人が固まって話しているのを、こっそり聞いたことがある。そこで知った情報。わたしが唯一知っている水上先輩の好きなもの。好きな人の好きなものを、とかちょっと恥ずかしい気がして誰にも言っていない。まあ、そもそもわたしの好きな人を誰も知らないのだから堂々としていればいいんだけどね。

「え、えーっと、その……」
「なんやねん。なんかまずいもんでも聴いてるん?」
「いや、違います。あのですね……」
「うん?」
「……ら、落語、を、少々」
「落語ぉ?!」

 真織ちゃんの素っ頓狂な声が響く。声が大きい。そう照れつつ窘めておく。真織ちゃんはそれでもまだびっくりしたように「イメージになさすぎるやろ!」と言った。まあ、そうだよね。分かる。わたしもまさか自分が落語を聴くようになるとは夢にも思わなかった。

「いや、でも本当に最近聴き始めたところで、まだまだにわかなんだけど」
「めっちゃ渋いやん……ちゅーか、水上先輩も落語好きちゃったっけ?」

 どきっと心臓が飛び跳ねた。固まったまま黙っていると、真織ちゃんの斜め前に座っている水上先輩が顔を上げたのが見えた。その隣に座っている隠岐くんが「よう聴いてますよね」と水上先輩に声をかける。それに生駒さんも反応して「落語聴く女子高生、ええな」と親指を立ててくれた。南沢くんも「オレ聴いたことないっす!」と水上先輩のほうを見た。水上先輩は南沢くんを小突きつつ「海には向いてへんわ」と軽く言ってから、こっちに視線を向けた。

「どういうやつ聴くん?」
「え、あ、まだ定番の、有名なのしか聴いてない、です」
「時蕎麦とか芝浜とかそのへん?」
「は、はい。有名どころは大体、聴いたと思います。あと何を聴けばいいのか、悩んでいて」
「え? 何? 呪文?」

 真織ちゃんと生駒さんが「日本語?」と水上先輩のほうを見る。水上先輩は頭をかきつつ「教養のない人らには分からへん文化っすわ」と薄く笑った。
 生駒隊の人たちが賑やかに話を始めた。どうしよう、立ち去ったほうがいいのかな。そう一人でおどおどしていると、後ろから声をかけられる。わたしが所属している部隊の仲間たちだ。今日は非番なのに全員本部に来ていたらしい。チームメイトには申し訳ないけど有難い逃げ道ができた。「じゃあ、わたしはここで」と真織ちゃんに声をかける。「ん、またなー」と笑って手を振ってくれたので、わたしも手を振ってその場を立ち去った。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 B級下位のランク戦後。いまいちいい戦績ではなかった。しっかり反省をして次に活かさなくては。部隊での反省会を終えて一人で本部の廊下を歩きつつ、一つため息をついた。どうもうまくいかない。エースのフォローもサポートも今日はいまいちだったし、よく周りが見えていなかった気がする。いつもよりきちんと作戦を立てて連携を取っていたつもりだったんだけどな。

「あ、おった。ちゃん」

 びくっと肩が震える。少し下に向いていた顔を恐る恐る上げると、廊下の先に水上先輩が立っていた。固まってしまう。わたしのことを呼んだ、ような気がした。幻聴じゃないよね? そんなふうに反応できずにいると水上先輩が「おーい」と首を傾げた。

「あ、はい! お疲れ様です!」
「お疲れさん。なんや暗い顔してんな」
「は、はい、ちょっと、ランク戦の反省を、していました」
「あー、そういうことな」

 話しながらこちらに近付いてくる。それに心臓がうるさくなりつつ「あの、何か?」と聞いてしまう。ちょっと感じが悪かったかもしれない。なんでそんな言い方しちゃうの、わたし。そんなふうに内心じたばたと暴れ回りつつ、小さく咳払いをしておく。落ち着こう。言動の一つ一つに注意しないといけない。せっかく、何かの奇跡で水上先輩が声をかけてくれたのだから。

「これ、よかったら借りたって」

 本屋さんのビニール袋だった。水上先輩に手渡されたそれを受け取ると、結構ずっしりと重みを感じる。そっと中を覗いてみるとCDらしきものがたくさん入っていた。

「個人的に面白かったやつ。初心者でも聴きやすいと思うで」

 中から一つ取りだしてみる。落語のCDだった。水上先輩の私物なのだというそれは、もう何度も聴いたから聴き飽きた、と教えてくれた
 じんわりと心臓が熱くなった。慌てて「ありがとうございます!」とお礼を言う。好きな人から好きなものを、借りてしまった。ついこの前まで一度も話したことさえなかったのに。

「落語好きっちゅう子あんまおれへんから、誰とも話できへんのやわ。また感想でも聞かせて」

 ほな、と軽く言ってから背中を向けた。ひらひら手を振って歩いて行く。何が起こったのか未だに頭が追いついていなかったけど、ワンテンポ遅れてから水上先輩の背中に「ありがとうございます!」ともう一度お礼を言う。水上先輩は少しだけこちらを振り返りながら「返すんいつでもええでな」と言って、すたすたと廊下を歩いて行った。
 その背中が見えなくなってから、手がほんの少し震えはじめる。どうしよう。貸してくれたということは、わたしから返しに行かなきゃいけない。つまり、水上先輩を自分から訪ねないといけないのだ。今から緊張する。どうしよう、そんなこと、わたしにできるだろうか。
 真織ちゃんに渡せばいい。ふとそう思った。感想を紙に書いて、お礼のお菓子と一緒に袋に入れてしまえばいいじゃないか。そうすれば自分から声をかけずとも水上先輩に返せる。感想も伝えられる。できないなら、そういう手だってあるじゃないか。
 でも、それは、嫌だなと思った。どんなにどきどきして心臓が壊れそうでも、どんなに恥ずかしくて顔が見られなくても、水上先輩と話したい。自分から話しかけてみたい。失敗するかもしれないし挙動不審になるかもしれないけど、時間がかかってもいいから自分で。
 たくさんあるCDはすぐには全部聴くことはできないだろう。今日から毎日水上先輩に話しかける日のことを考え考えながら、一枚一枚聴いていくんだろうな。そう思うと、とても、胸が熱くなって仕方がなかった。


金木犀の香りがした