※転生パロディ
※過去回想にて流血があります。


 静かにグラスに注がれた濃い赤みがかった蜜のようなブラウン。窓の外に広がるビル明かりがきらきらと反射するのを飲み込むかのように濃厚な色味が美しい。注がれたのは手が出せないほど高級、というわけでもないが気軽に手に入れられるほどお買い得、というわけでもない値段の酒。さして付き合いはないがやけに良くしてくれる人物からもらったものだ。マルキ・ド・サンループ。数多くの賞を贈られたカルヴァドスである。生産量の少ない貴重品であり、正規ルートで入手しようものなら基本的にヨーロッパでしかなかなか叶わない。グラスに注いだ主は残念ながらそんなことは露ほどにも知らないまま一口流し込んだ。そうしてころころと口の中で回してから飲み込む。「なるほど」と妙に雰囲気のある声色で呟いた。その数秒後に「日本の酒のほうが口に合う」と一人で小さく笑うのだった。
 半分以上中身が残っているグラスに見向きもしなくなった男は鶯丸という。ずいぶんと夜景が小さく見える大きな窓をぼんやり眺めてぼそりと何か呟く。声が小さすぎて誰にも聞こえなかったが、鶯丸はどこか満足げな表情をしていた。
 室内はやけに煌びやかなライトや重厚なベッドやソファなどのインテリアで彩られている。恐ろしいほど清潔な部屋はまったく生活感がない。その様子からそこがホテルであること、そしてこの部屋がスイートルームであることは予想がつく。この部屋に滞在している客こそ鶯丸だった。ここまでは誰にでも予想がつくし見れば分かることだ。
 鶯丸は夜景に向けていた視線を部屋の中に戻す。そうして見据えた瞳の先。ベッドの上にこんもり盛り上がった何かが映った。それに鶯丸が小さく口角をあげつつ壁にもたれ掛かっていた体を起こした。ゆっくりとベッドの上にある不自然な山に近付き、その山の裏側を覗き込むように顔を傾ける。にこりと笑いながら「そろそろ起きたらどうだ」と声をかけた。山の正体は人間であった。布団の中で丸まっている誰かがいたのだ。

「……お酒臭い」
「それは失礼。ジュースみたいなものだったが」
「いま何時ですか」
「二時を回ったところだ」
「お昼?」
「残念。真夜中だ」

 鶯丸が少し笑いつつそう伝えると、山がのそりと起き上がる。気だるそうに右腕を持ち上げて目元をこすった。ぐしゃぐしゃになった髪はそのままにゆっくり顔を鶯丸のほうに向ける。そうしてひどく憎らしそうにぎりっと睨み付けた。

「いいところに連れて行ってくれるって言いましたよね」
「言ったとも」
「おいしいご飯が食べられるいいところって」
「ああ、言ったな」
「ホテルじゃないですか!」
「いいところだろう?」

 けらけらと笑う。山から顔を出したのは女性。という名前のその人は鶯丸の恋人である。は布団からずるりと抜け出す。肩から落ちたキャミソールのストラップをかけ直しつつあくびをこぼした。飾り気のない黒色のキャミソールと下着だけ。あられもない姿だというのに恥じらい一つ見せずに立ち上がると伸びをする。それからすたすたとバスルームのほうへ歩いて行ってしまう。鶯丸はその背中を見送ってからまた窓の外を見下ろした。
 だらんと垂らしていた右手を持ち上げる。鶯丸は手の平をじっと見つめながらぐっと握った。力を入れて握ると伸びた爪が皮膚に刺さる感覚がある。多少なりとも痛いだろうに鶯丸はそんなことなどどうでもいいようで、力を籠め続けた。そうしているうちに、ぷつ、とついに鶯丸の皮膚が裂けた。爪が食い込んだそこからじわじわと血が滲んでしまう。真っ赤な鮮血はビル明かりをかすかに拾って、寂し気にきらめいた。

「鶯丸さん!」
「……どうした?」
「服忘れちゃったので置いといてください!」
「はいはい」

 くすりと笑ってから鶯丸はぱっと右手の力を抜く。じわりと滲んでいる血を拭き取ることなく窓際から離れ、言われた通りに服を拾い上げていく。くしゃくしゃになったままの服を畳むことなくくしゃくしゃのまま拾っていく。鶯丸というのはそういう男である。がこの場にいても文句など言わなかったに違いない。
 鶯丸はぽつりと呟く。「背丈も変わっていない」。まるで長年付き合っているかのような口ぶりだ。けれど、鶯丸とは付き合ってまだ一年半ほど。その期間にしては不自然な言葉だったが、疑問を抱く者はいなかった。ふふ、とやけに静かに笑う鶯丸以外の誰の耳にもその言葉は届かない。

「ちょっと」
「……君も大胆になったな」
「いや、鶯丸さんが遅いから仕方なくですけど」

 鶯丸が拾い集めた服を奪い取ってはその場で着替え始める。柔らかいフレアスカートとがお気に入りのシャツを着れば、先ほどベッドの山になっていたとは思えない今どきの女性になった。
 はスカートの裾を直すために視線を少し下に向ける。その途中で視界に入った鶯丸の右手を見てぎょっとした様子で「ちょっと!」と言ってその手を取った。もう血は止まっている。けれど拭き取らなかった血液がそのままかさついて固まっている。は先ほどまでの気だるさや少々の苛立ちなど嘘のように「怪我してるじゃないですか!」と心配そうな声をあげた。

「これくらい怪我に入らないさ」
「いや、血が出た時点で怪我です。洗ってきてください。絆創膏持ってたかな……」

 ずるずると鶯丸を引っ張るように洗面所に連れて行き、ぽいっとその手を離す。「洗ったら戻ってきてください」と言ってはさっさと戻っていく。鞄を漁るような音が聞こえるので恐らく絆創膏を探しているのだろう。鶯丸は洗面上に取り残されてしまい、ほんの少し苦笑いをこぼした。
 不意にふわりとりんごの香りがした、ような気がする。鶯丸は洗面所を見渡したがそういう匂いがしそうなものはない。何の匂いだろうか。そう考えて「ああ」と思い至る。先ほど少しだけ飲んだカルヴァドスの残り香だ。ほんのり甘みのある味わいは鶯丸には少々甘すぎるほどだったのですぐに飲むのをやめたというのに、忘れていた思い出をふと思い出すようにひょっこり香りだけ顔を出したのだろう。
 蛇口をひねり右手を水にあてる。ひりっと傷が痛んだが、鶯丸は無表情だった。少しずつ血の汚れが落ちていくのを見ながら、頭の中で何かを思い出していた。
 鶯丸は昔、ずっとずっと昔の、夏の夜。人を殺した。若い女性だった。鶯丸が彼女を見つけたときにはすでに多くの刀傷がその体中に刻まれており、彼女はもう息を引き取る寸前だった。ぼたぼたと口から落ちていく血に構わず鶯丸に何か言葉を投げかけたが、それはもう声になっていなくて。鶯丸は彼女がなんと言ったか分からなかったが、とにかく、苦しんでいることだけは分かった。笑った顔が「痛い」と今にも泣き出しそうなほどぐしゃぐしゃだった。
 だから斬った。放っておいてもどうせ死ぬ。鶯丸には彼女を救うことができない。医者でもなければ魔法使いでもない。ただの刀。そのときの鶯丸はそうだった。彼女にしてあげられることは、一つ敵を斬る、二つ敵を斬る、三つ敵を斬る、四つ敵を斬る。これの無限ループだ。そうしてきりがなくなったときにようやく、彼女を斬る、という選択肢が生まれる。それがまさに今だっただけのこと。
 もう勝ち目はない。苦しみながら死ぬよりすっぱり斬って楽に死なせたほうがいい。無論、鶯丸はひどく悩んでそうしたわけだが、悩む必要は本来ないはずだ。悩んだのは鶯丸が彼女を死なせたくなかったから。生きていてほしかったから。それだけの理由だ。

「いつまで洗ってるんですか」

 ひょっこり洗面所を覗いたは、一瞬で無表情、というよりは驚愕の顔をした。水で血を流しながら鶯丸が静かに涙を流していたから。その理由はには分からなかったが、鶯丸と付き合ってきた一年半の中で泣いているところは見たことがない。はかすかに衝撃を受けつつそっとその隣に近付いた。顔を覗き込んで「痛いの?」と聞く。鶯丸は少し笑って「痛いよ」と呟き、また右手をぐっと握った。

「ああ、もう、握ったら傷が、」
「痛くない」
「は?」
「これくらい、なんてことはない」
「……痛いって言いましたよね?」
「ああ、すごく痛い」
「……ちょっとわけが分からないですけど、とりあえず絆創膏あったんで戻ってきてください」

 は変な顔をしつつ蛇口を閉めてからまた鶯丸を引っ張っていく。ぽたぽたと水が落ちているがそんなことはどうでもいいらしい。引っ張っていった先のソファに鶯丸を座らせる。そうして「手を、」と言いかけたがそれは最後まで言葉にできない。鶯丸が座ったままの腰のあたりにぎゅっと抱き着いたから。の知る限り鶯丸はそういうことをする人ではなかった。甘えん坊とか子どもっぽいとか、バカップルとか。そういう言葉とは縁遠い人だったはずだ。ただただ驚いたが、それよりほんのり嬉しさが勝つ。鶯丸が自分からこんなことをするのははじめてだ。そう内心少し喜んだ。その頭を優しく撫でつつくすりと笑って「そんなに痛かったんですか」と言う。鶯丸は先ほどと同じように「これくらいなんてことはない」と返したが、その腕の力は弱まらない。

「君に比べれば、なんてことはない」

 そう言って、また少し泣いた。は言葉の意味が分からずハテナを飛ばす。けれど、濡れた右手が触れている箇所がじわりと水分を吸っても、は何も言わず鶯丸の頭を撫で続けた。それはまるで頑張った子どもを褒める母親のようにも見えるが、それを笑う者は誰一人としていない。二人きりの一室で静かな時間が流れる。不意に鶯丸が机に置きっぱなしにしたグラスの中で氷がからんと音を立てた。けれど、二人を邪魔するほどの音にはならなかった。


罪人がながすなみだなど