結婚したばかりの友人は結婚式の準備やらなんやらで忙しい上に、早く帰って夫においしい食事を作りたいからという理由で本当にランチを食べただけで解散になってしまった。オールでカラオケを楽しみ、突然「海行かない?」と誘っても一つ返事で「行く」と答える彼女はいなくなってしまった。そんな寂しい気持ちを抱えながら電車に乗った、そのときだった。
 スマホをバッグから取り出したわたしの右手。その薬指にはお気に入りの指輪がいつもきらきらしている。それは三年前に彼氏からプレゼントされたもの。アクセサリーをプレゼントするタイプの彼氏じゃないから本当に嬉しかったことを今でも思い出す。世間の恋人がペアリングやペアウォッチなんかを持っていることがこっそり羨ましくて、記念日や誕生日にほしいと言ってみようかと悩みに悩んで、結局言えずにいた。そんなわたしに気付いたのかは分からないけれど、三年前の記念日に彼氏が買ってくれたのだ。お店に連れて行ってくれて、好きなのを選んでいいと言ってくれて。
 その指輪が、指にはまっていなかった。おかしい。友人とランチをしているときははめていた。だって、友人がそれを見て「左手にはまる日はいつ来るの?」と茶化してきたから。右手の薬指だっていいでしょ、と言いつつわたしも内心でいつになるのかなあ、なんて思ったことを覚えているから。だから、友人とお店の席についた二時間前は確実にはめていたはずなのだ。
 まずバッグの中を漁った。もしかして何か取るときにぽろっと取れてしまったのかもしれない。ほんの少しだけ大きめのサイズになっている指輪が知らない間に取れていたことは、正直これまで一度もない。でも今日は、ほら、空気が乾燥していたから取れやすかったかもしれない。何かに引っかかって取れてしまったかもしれない。そんな一縷の望みをかけてごそごそとバッグの奥まで探したけれど、きらきら光る指輪は出てこなかった。
 慌てて次の駅で降りた。家に帰っている場合じゃなくなった。友人とランチを食べたお店をスマホで調べて電話番号を表示する。祈る思いで番号をタップし、嫌などきどきを押さえながら呼び出し音を静かに聴く。お願い。お願いだから、どうか。そう不規則にな呼吸をしていると「お電話ありがとうございます」という女性店員の明るい声が聞こえ、一気にどっと血液が流れ出した感覚があった。

「あ、あの、先ほどそちらでランチをいただいた者なのですが……あの、指輪の落とし物や忘れ物はないでしょうか……?」

 緊張しながら言った言葉に女性店員が「落とし物ですね、少々お待ちください」と言って一旦保留音が鳴る。よく聴く保留音だ。前に気になってなんという曲か調べたことがある。確かクラシックで、なんか、春の曲だったはず。結構明るめの曲調だから今のわたしには有難い。暗い雰囲気の悲しい曲だったらたぶん耐えられない待ち時間だから。
 保留音が止んだ。先ほどの女性店員が「お待たせいたしました」と言って、どくんと心臓が跳ねる。どうか、どうか、席に置き忘れていますように。ぎゅっとスマホを握りしめてそう念を送るかの如く目を瞑ったとき、「大変申し訳ございませんが」という言葉が耳を貫くかのように聞こえて、一気に体温が引いた。
 時間を取らせてしまい申し訳ありません、と伝える。女性店員は「もし見つかりましたらご連絡しますので、特徴を教えていただけないでしょうか」と申し出てくれた。なんて親切なのだろう。恐らくわたしがあまりにも必死だったからだと思う。すがる思いで色と大体の大きさ、そしてついている石のことを伝えてから電話を切った。
 あとなくしそうな場所といえば、お店の最寄り駅か、お店から席までの道くらいしか思いつかない。だって家から出てお店で友人に会ったときはちゃんとついていた。友人とお店を出て駅で別れ、一人で電車に乗ったときにはなくなっていた。だから、あのお店か駅に戻る道中しか考えられないのだ。状況的に。
 反対側のホームへ向かう。今日見つけなきゃもう絶対に見つからない。幸いにもこのあとは特に用事もない。ちょうどホームに滑り込んできた電車を乗り過ごさんと階段を駆け下り、ぎりぎり駆け込み乗車にならないように乗り込めた。少し息が上がってしまっている。運動不足だ。最近少し怠けていたから、罰が当たったのかも。でも、わたしだって毎日をそれなりに頑張って過ごしているつもりなんだよ、神様。そんな悪態をつきながら息を整えた。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「なんかあったのか?」
「えっ?!」

 友人とランチに行った三日後。彼氏である賢二郎くんから夕食に誘われた。いつも休みの日以外はなかなか会えないから休みなのかと思ったら仕事帰りだったから驚いてしまった。早めに上がらせてもらえたのかな。気になったけどあまり仕事のことを聞くと気を悪くしそうだったからやめておいた。
 お水を飲んでいたとき、賢二郎くんが唐突に先ほどの質問を投げかけられ、嫌な汗が背中を伝いそうになる。不自然に思われないように「何もないよ?」と首を傾げて返してみた。賢二郎くんはじっとわたしの顔を見つめてから「本当か?」と念押ししてきた。ぎくりとしてしまう。だって、何もないわけがないのだから。
 結局指輪はまだ見つかっていない。三日前、一度乗ってしまった電車を降りて引き返し、お店の最寄り駅からお店までの道のりを隈なく探したし、迷惑だと分かりつつもお願いしてお店の中も見せてもらったけど、どこにもなくて。とぼとぼと帰宅してからバッグをひっくり返したり、あるはずがないと思いながら指輪をプレゼントしてもらったときの箱を開けてみたりした。でも、やっぱり出てきてくれなかった。
 賢二郎くんと会う日、会わない日に関係なくいつも指輪をつけていた。さすがに職場にはつけていなかったけれど、いつも持ち歩いていた。賢二郎くんもそれは知っている。だから、さっきからあまり右手を出せないままでいる。左手でお水を飲み、左手でスマホを触る。ちらりと賢二郎くんに視線を向けると、その右手にはわたしとペアの指輪がしっかり光っていて、余計にテーブルの下で右手を握りしめてしまう。

「あの、それより賢二郎くん……なんかここ、高そうだけど……?」
「嫌?」
「ううん、そういうことじゃなくて! あんまりこういうところ好きじゃなさそうだし珍しいなって」
「たまにはいいだろ。こういうのも」

 賢二郎くんもお水を一口飲んでから「上司においしいっておすすめされた」とお店を選ぶ経緯を教えてくれた。職場の人とそういう話もするんだ。なんだかちょっと意外かも。失礼なことを思いながらそろそろ運ばれてくるであろう料理を楽しみにしている、けれど、やっぱりどこかで罪悪感を覚えてしまう。
 せっかく賢二郎くんがプレゼントしてくれたのに、どうしてなくしたんだろう。あんなに大事にしていたのに。手を洗うときに外しても絶対忘れないように指輪をじっと見たまま手を洗っていたし、うっかり手を滑らせて排水溝に消えてしまわないよういつも気を付けていた。手が汚れて外すときも、家に帰って外したあとも。絶対になくさないように気を付けていた。何より、これまでの人生であまりものをなくしたり落としたりしたことなんかなかった。それなのに、どうして大事な指輪をなくしてしまったのだろう。
 きゅっと唇を噛んでいたとき、料理が運ばれてきた。きれいに盛り付けられている料理に思わず笑みがこぼれる。おいしそう。こんな贅沢な思いをしてしまっていいのだろうか。指輪をなくしてしまうような、わたしなんかが。勝手に浮かんでくるそんな思いに表情が固まった。
 ナイフとフォークを手に取るために、右手を出さなくてはいけなくなる。恐る恐るテーブルの下に隠していた右手を出し、そっとフォークを手に取った。賢二郎くんは「これどうやって食べる?」と慣れない上品な料理に四苦八苦していて指輪のことなんか目に入っていないみたいだ。ほっとする。賢二郎くんが気付く前に素直に謝るべきか、まだ見つかるかもしれないからもう一度探してから謝るか。その選択でずっと悩んでいる。だから、今日は賢二郎くんに指輪の不在には気付かれたくないのだ。
 賢二郎くんは指輪のことに一切触れないまま食事を続けている。わたしも右手が少しぎこちないながらも食事を続け、賢二郎くんと談笑しながら素直に楽しめるようになってきた。一回忘れよう。もし賢二郎くんに指輪のことを聞かれたら、今日のコーディネートに合わせてつけなかったと誤魔化そう。きっと賢二郎くんはそれを不思議に思わないだろうし、突っ込んでくることもないだろうから。
 あ、そういえば。駅からお店までの間は隈なく探したけど、お店の最寄り駅は改札前しかちゃんと見ていなかった。自分の凡ミスを悔やみながら友人と歩いた道筋を思い出す。駅の中はあまりうろうろしなかったはずだけど、小さな指輪は落ちていても気付かない人が大半だろうし、蹴飛ばされて端に寄っている可能性もある。誰かが拾ってくれたかもしれないし、誰かが持っていったかもしれない。いろんな明るい予想と暗い予想を繰り返していて、知らない間に手が止まっていた。

?」
「……あっ、ご、ごめん、何?」
「やっぱりなんかあっただろ」
「え、え〜、本当に何もないってば。ごめん、ちょっと仕事のことで考え事しちゃって」
「じゃあなんで指輪してないんだよ」

 ぴしっと体が固まる。フォークを持ったままの右手にちらりと視線を落としてから、また賢二郎くんのほうを見る。賢二郎くんは無表情でじっとわたしを見つめていた。
 気付かれていた。賢二郎くんはあえて触れないままでいてくれたのだろう。でも、こうして触れてきたということは、やっぱり何かしら思うところがあるに違いない。まさかなくしたんじゃ、と思われているのだろうか。もらってからずっとつけていたからつけていないだけでかなり大きな意味になってしまう気がする。なんと説明しようにも、わたしが指輪をなくしたという事実は伝えなければはじまらない。手汗がひどい手を握りしめて、一度静かにカトラリーを置いた。
 いくらだって誤魔化せた。さっき思ったようにコーディネートに合わなかったからあえてつけてないとも言える。玄関に置いてきてしまってうっかりつけていないだけとも言える。手がむくんでいてアクセサリーをつけたい気分じゃなかったからとも言える。なんとだって言えるのだ。いくらでも理由は作れる。
 けれど、わたしはたとえ軽蔑されたとしても、たとえ呆れられたとしても、賢二郎くんに嘘は吐きたくなかった。顔を俯かせて、ぎゅっと握りしめた手を見つめる。いつもきらきらしている指輪がない。それに、どうしようもない申し訳なさが襲いかかってくる。大きく呼吸をしてから、顔を上げた。

「……あの、ね」
「……うん」
「本当にごめん……わたし……」
「相手、どんなやつ?」
「え?」

 勇気を振り絞って、指輪なくしちゃったの、と言おうとした口が止まる。ぽかんとして賢二郎くんを見つめて二回瞬き。わたしはそこまで頭が悪いというほどじゃないし、これまで賢二郎くんとの会話にストレスを感じたこともない。聞かれたことには答えてきたし、それは賢二郎くんも同じだった。質問の意味が分からないなんてことは、あまりなかったと記憶している。
 賢二郎くんの質問がこれっぽっちも分からなかった。相手がどんな人か。相手、とは? 質問に質問で返すのもどうかと思って黙ってしまっていると、賢二郎くんが「年収? 顔? 性格? 何が俺よりいいやつ? 年上? 年下?」と矢継ぎ早に聞いてくる。年収? 性格? 年? 何の話をしているのかパニックになりそうなくらいちっとも理解ができない。指輪をなくしたという話に第三者はそうそう絡んでこない。実際わたしが指輪をなくした件に関わっている相手がいるとすれば、一緒にランチを食べた友人くらいだ。賢二郎くんも前々から知っている相手だし今更こんなふうには聞いてこない。だから、賢二郎くんが言っている相手というのが誰のことなのかさっぱり分からなかった。

「あの……何の話……?」
「……他に」
「うん?」
「他に、好きなやつができたんだろ」

 余計にパニックだった。混乱しすぎて呼吸を忘れそうになるほどで、いまいち頭が回転してくれない。ぎぎぎ、と音を立てそうなほどぎこちない動きをしている脳みそはいつ破裂してもおかしくないほどだった。
 どうして他に好きな人ができたと思ったのか。不安にさせるような言動をしただろうか。わたしはこれまでただの一度も賢二郎くん以外の人をそういう目で見たことはないし、たとえ向こうから好意を感じてもやんわり躱してきた。賢二郎くん以外の人を好きになるなんて、想像したことがなかった。勘違いさせるような言動をした覚えはないのに、どうして賢二郎くんはこんなにも難しい顔をしているのか。

「えっと、他に好きな人は、いない、けど……?」
「は? じゃあなんで指輪してないんだよ。これまでずっとつけてただろ」
「……なくしちゃったの。この前友達とランチ行った日に。お店もお店までの道も隈なく探したんだけど、見つからなくて……ごめん、せっかくプレゼントしてくれたのに」

 言えた。それにほっとしたのも束の間。今度は賢二郎くんの反応が怖くて目を逸らしてしまう。指輪をなくすなんて、と言われてしまわないだろうか。なくされるなら買わなきゃよかった、と思われてしまわないだろうか。賢二郎くんがそんなことを言う人でも思う人でもないことは知っている。知っているはずなのに、どうしても不安が頭を埋め尽くしていくのだ。
 物音が聞こえた。思わず賢二郎くんのほうを見ると、両肘をテーブルについて頭を抱えて項垂れていて驚いてしまう。カトラリーが飛んでいっちゃうんじゃないかと思うほど深いため息をつくから、唇を噛んでしまう。怒っている。もしくは呆れている。まだ駅をちゃんと探していないから、絶対に見つけるから、と必死で言うと賢二郎くんが、小さく笑った声が聞こえた。

「……絶対別れ話されると思った」
「どうして? わたし、そんなに不安にさせるようなことしてた……?」
「いや、逆。俺がを不安にさせてばっかりだっただろうから」

 不安にさせられた覚えがなかった。きょとんと固まるわたしに賢二郎くんは、仕事が忙しくてなかなか会えないとか連絡が疎かになったときがあったとか、そういうことをいくつか例として挙げていく。どれもこれも本当の話だ。でも、ただの一つとして、不安に思ったことなどなかった。
 ところで、指輪のことは、怒っていないのだろうか。おずおずと聞いてみると賢二郎くんはけろっとした顔を見せて「怒るわけないだろ」と言ってくれた。

「お気に入りだったのに……まだ駅はちゃんと探してないから絶対見つける。頑張る」
「探してくれるのは、まあ、嬉しいけど……また別のを買うか?」
「わたしにとってはあの指輪じゃなきゃだめなの。一番のお気に入りだから」
「……なら、新しいのはもらってくれないのかよ」
「え?」

 賢二郎くんが顔を上げた。その表情は、ほんの少しだけ拗ねているようにも見えるしどこかほっとしたようにも見える。新しいのを買いに行こうというお誘いだろうか。でも、まだ見つかるかもしれないし、あの指輪はずっとほしかったものを賢二郎くんがプレゼントしてくれた思い出が詰まっている。できることならあの指輪を見つけたいな、と思う自分がいる。
 ごにょごにょとそんなことを言っていると、賢二郎くんが右手を伸ばしてきた。何をするのかと思ったらわたしの手を掴んで、テーブルの真ん中に持っていく。なんだかダンスのお誘いをされているみたい。賢二郎くんがこんなことをするのが珍しくて、どうしたのと聞きながら思わず笑ってしまった。

「これで我慢しろ」

 賢二郎くんの左手がそっとわたしの手の上に重なる。かすかな重みを感じてから賢二郎くんの左手が離れていくと、わたしの手の上にいつの間にかリングケースが載せられていた。

「指輪? 新しいの買ってくれたの? でもなんで?」
「いや……」

 賢二郎くんが、まさにがっくりという様子で肩を落とした。その様子に目をぱちくりしてしまう。だって、ペアリングを前にプレゼントしてくれてお互いそれを大事にはめているのに。わたしがなくしたことは今日知ったはずなのにどうして新しいものを用意してくれたのか。
 肩を落としたままの賢二郎くんが「とりあえず開けて」と言った。賢二郎くんの右手が離れていき、わたしの右手とリングケースだけが残される。
 よく分からないままとりあえずリングケースを見つめて、恐る恐る開けてみた。そうして呼吸が止まった。中には、どんな指輪よりも一等きらきらしている指輪が入っていたから。

「結婚して」

 右手の薬指にいつもの指輪はない。それが寂しくて、悲しくて、申し訳なくて。どうにか見つけなきゃと今でも思っている。あの指輪がなくなったことは永遠に寂しいままだろう。
 けれど、今手の中にある一等きらきらしている指輪が、そんなわたしを励ますように美しく寄り添ってくれている。寂しさも一緒に連れていこうと言ってくれている。そんなおとぎ話みたいなことを考えてしまって、なぜだか涙が止まらない。ずっとほしかったの。涙をこぼすのと同じように、そんな言葉が溢れてしまいそうだった。


もっとずっときらきらするまで
▼title by リリギヨ