あなたとの出会いがわたしにとっての奇跡だったならば、わたしとの出会いはあなたにとっての何だったのだろう。
 晩景に浮かぶ伸びた影さえ特別に見える。そんなことを言えばきっとばかにされるから言わない。でも、本当に特別に見えてしまう。色も、形も、暗ささえ。

 全寮制のバレー部に所属している白布賢二郎は、もちろんいつもは家にいないし連休であってもそれは常だった。高校一年生の春から夏ごろまではお土産や差し入れを持って白布家に訪れたけれど、あまりにも賢二郎がいないものだから頻度がどんどん減っている。おばちゃんや弟くんたちがいつもいるので遠出をすればお土産を買うし、何かあれば差し入れもするけれど、賢二郎にはもうそういうことをしなくなった。だって、いつもいないから。
 どうせいない。でも、一応、日付が日付だし。そう思って白布家のチャイムを鳴らしたら、インターフォンの向こう側から賢二郎の声が聞こえた。びくっと思わず肩が震えてから「なんでいるの」と口から飛び出る。賢二郎は「家にいちゃ悪いかよ」と言ってからインターフォンを切り、数秒後に玄関のドアを開けてくれた。
 玄関先で少し話をしてから、目的のお土産を手渡した。先日家族で大阪の親戚を訪れたときのものだ。すぐに渡せるか分からなかったから大阪で人気だという焼き菓子にした。本当は豚まんとかチーズケーキとか、よくテレビで観るものにしたかったのだけれど。そして、その下には、一応の品。好みかどうかは分からないスポーツタオル。賢二郎はお土産を受け取ってから、その下にある一応の品に気が付いた。「お前、本当律儀だよな」と笑っているような呆れているような、なんとも言いがたい声色で言う。気恥ずかしかったけど、まあ年に一度の日を祝ってやろうという気持ちはある。「おめでとうございます」と目を逸らして伝えたら、一応「どうも」という感謝が返ってきた。
 そんな場面をおばちゃんに見つかり、何だかんだあって白布家に招かれた。一番上のお兄ちゃんもちょうど帰ってきていたらしく白布家が勢揃いしている。ここまで白布家のリビングに人がいるのは久しぶりに見た。そう言ったわたしにおじさんが嬉しそうに笑って「たまたまみんな帰ってくる時期が重なってね」と言う。こんなことなら旅行の計画でも立てたかった、と少し残念そうにして。
 それからしばらくして、すっかり夕飯時になった。そろそろ帰らないと母親に叱られてしまう。そう言って席を立ったら、お兄ちゃんが「暗いし送ってくよ」と立ち上がろうとしてくれた。確かに外は日が落ちかけていて薄暗い。でも、わたしの家は白布家から目と鼻の先だ。もう高校二年生だし心配いらないよ、と笑って断った。でも、おばさんが「女の子は危ないから」と言ってちらりとお兄ちゃんのほうを見る。白布家は男四人兄弟だ。女の子がいないせいなのか昔から心配性だったっけ。ちょっと気恥ずかしい
 そこで「いい。俺が送ってく」と言ったのが賢二郎だった。びっくりした。だって、そういうことを言うタイプじゃなかったから。

 そんなわけで、影が伸びるほど傾いた夕日を背負って賢二郎と並んで歩いている。たった五分程度の道のりだ。すぐ先に見えている角を曲がれば我が家の屋根が見えてくるだろう。本当に心配なんかされなくてもいい距離なのに。賢二郎なんかは特にそう言うに違いないだろう、と思っていたのだけれど。
 ぽつりと「最近どう」と聞いてみた。ほんの少し顔をこちらに向けてから、賢二郎が不思議そうにする。どうも何も見ての通りだけど、とでも言いたげに。そういう話じゃないんだけどな。苦笑いがこぼれる。寮に入っている賢二郎の日常がどんな感じなのか、という意味だったのに。そういうことを読み取る能力が欠けていることは重々承知している。だから、今のはわたしのミスだ。

「学校でどうなの」
「どうって言われても。普通だけど」
「……はあ」
「おい、なんでため息ついた」

 顔を正面に向けてから賢二郎が小さく息をつく。一応、わたしが聞いたことの意味を考えているらしい。何か面白いことはあっただろうか、とでも考えているのだろう。ばかな人。そう小さく笑ってしまう。なんだっていいのに。授業中にあくびをしてしまったとか、部活仲間と寮でこんなことで盛り上がったとか。わたしは、あなたのことならなんだって、知りたいだけなのに。そんなふうにちょっと気取って胸の奥で呟いた。
 角を曲がる。賢二郎がわたしの顔をちらりと見てから「お前はどうなんだよ」と呟く。どう、と言われても。わたしこそ何も面白いことはない。部活にも入っていなければ習い事もしていない。毎日学校へ通うだけの日々だ。同じことの繰り返し。決められたコードを読み取るだけの生活に何の面白みもない。そう苦笑いをこぼしつつ言うと、賢二郎が小さく舌打ちをこぼした。

「何もないって。生きてりゃなんかはあるだろ」
「だからないってば。賢二郎だって何もないって言ったじゃん」
「俺は本当にねえんだよ。お前はあるだろ」
「ないって言ってるでしょ」

 お互い一歩を譲らないまま、わたしの家の到着してしまった。賢二郎側に家があるから賢二郎に「ありがとね」と声をかけて後ろを通ろうとすると、賢二郎が体の向きを変えて通せんぼするように立ちはだかった。何か一つ言ってから行け、と言って。
 そうは言われても。困ってしまう。いつも同じ時間に家を出て、いつも同じ時間に学校に着いて、いつも同じ席に座って、決められた時間割通りの授業を受けて、いつも同じ時間に下校し、いつも同じ時間に家に着く。学生の日常なんておおよそそんなものだ。部活動をしていれば少し変わるだろうけれど、帰宅部の生徒なんかはアルバイトでもしていなければ特筆するような出来事は起こらない。
 痺れを切らせた賢二郎が、唐突にわたしの手を握った。びっくりして思わず引っ込めそうになったけど賢二郎の力が強すぎて振り払うことさえできなかった。
 何。なんなの。賢二郎の肌が触れている箇所がひりひりと刺激されている感覚。勝手に騒ぎ始める心臓を落ち着かせたくてゆっくり呼吸をするけれど、その程度ではとても落ち着くものではなかった。
 賢二郎の親指がわたしの手の甲をするりと撫でた。一秒にも満たない一瞬の間だけ息を止めてしまう。何、その触り方。ちょっとびびっているわたしには気付かず、賢二郎はしばらくわたしの手の甲を見つめて親指で撫でていた。
 ぽつりと呟くように「こことか、どうしたんだよ」と言われた。素っ頓狂な声を上げてから自分の手に視線を落とす。すると、賢二郎が撫でている辺りに小指の爪にも満たない小さな傷ができているのを見つけた。

「え、本当だ。なんだろ」
「ひっかき傷か? お前んちペット飼ってないだろ?」
「あ! 友達の家の猫かも!」

 そうだ、思い出した。先週の土曜日に友達の家に数人で遊びに行ったのだ。毛が長い猫がいて、普段あまり動物と触れ合わないわたしは触りたくて仕方がなかった。友達からは「ちょっと怖がりだけど普通に撫でられると思う」と言われて、恐る恐る手を伸ばした。友達の言う通り頭を撫でることに成功したのだけど、じゃれついてきた猫の爪がわたしの手を少しだけひっかいた。爪切りを忘れていたらしい鋭い爪は、見事わたしの手の甲に赤い線を描いた。恐らくそのときの傷がこれなのだろう。
 そんな話をしてハッとする。どうでもいいわたしの休日の話なんかつまんないよね。猫にひっかかれたのがはじめてでちょっと嬉しかったからつい話してしまった。照れつつ賢二郎の手から逃げる。こんな小さな傷、よく見つけたなあ。自分でも傷が残っているなんて気付いていなかったというのに。
 ほんの一瞬だ。賢二郎の口元が、ちょっとだけ笑ったように見えた。こんなふうに柔らかく笑った顔なんて、あまり見たことがない。びっくりしてしまう。今、そんなふうに笑うような何か、あったっけ。
 分かりやすく人に優しくする人じゃない。誰とでもすぐ仲良くなれる人でもないし、誰彼構わず気を遣う人でもない。でも、一緒にいるとなんだか落ち着く人で、妙に気になる人。そう自覚したときから、わたしは賢二郎のことをすでに特別だと思っていた。そんなことはとうの昔に自覚している。悔しいけれど。
 賢二郎の家と目と鼻の先に生まれて、たまたま賢二郎のおばさんとうちの母親が仲良くなって、気付けば幼馴染と言われる関係性になった。変に関係が切れることもこじれることもないまま、こうして顔を合わせれば普通に話す間柄のまま高校生になれた。賢二郎との出会いから今日まで、わたしにとっては何もかもが奇跡に思えてしまう。そのくらいには盲目的に、飽きもせず夢中のままでいる。

「ま、元気そうでよかった」
「親戚のおじさんか」

 ツッコミを入れたわたしの頬を賢二郎が軽く指で弾いた。満足げな顔をして「じゃあな」と言い、元来た道を戻っていく。賢二郎の背中を見つめて、少し呼吸を止める。心臓の鼓動。遠くで鳴く鳥の鳴き声。斜陽が視界の端で眩しく光るのも気にせず、その光に照らされている賢二郎だけを見つめていた。
 賢二郎がこちらを振り返った。びっくりして慌てて目を逸らそうとしたけれど、賢二郎がなんだか優しい顔をしていたから目を逸らせずにいる。滑らかな風を頬に感じながら、お互い何も言わずそのまましばらく動かなかった。
 何を考えているのか分からない人でもある。表情がころころ変わるタイプじゃないし、言葉にするのもへたくそ。だからこちらが表情や言動で考えていることを読み取らなくちゃいけないのに、なかなか完璧に読み取らせてくれたことはない。



 賢二郎に名前を呼ばれることが好きだ。自分の名前がとても美しい響きに聞こえるから。

「なんかあったら連絡してこいよ」

 なんかあったら、って言われても何もないのに。そう思いつつも素直に「うん」と答えてしまう。賢二郎は小さく笑ってからまたわたしに背中を向けて歩いていった。
 連絡してこいよって、こっちの台詞だよ。賢二郎のほうが部活で忙しいからいつ連絡したらいいのか分からないのに。それに、何を連絡したらいいんだろう。わたしならくだらない日常の話でも嬉しいけれど、賢二郎はわたしのくだらない日常の話を喜んで聞いてくれるとは思えなくて。
 角を曲がった賢二郎の姿は当然のごとくもう見えない。さっきまでここにいたのが現実だったのかさえ、わたしには証明できる術がない。でも、賢二郎の影がどこにどれくらい伸びていたのかを覚えている。この晩景の一部として確かにあったのだ。
 いつになったら言えるのだろう。言わなくちゃ賢二郎には伝わらないと分かっているけれど、関係が変わってしまうことが惜しくて言えずにいる。ずっと昔から。気恥ずかしい気持ちもあるし、不安な気持ちももちろんある。こぼれ落ちそうになる気持ちはいつも熱くて、うまく言葉にできる気がしない。ずっと、永遠に。


あやめも知らぬ恋