「ねーねー白布ってば」
「課題中」
「もう三十分待ったんだけど」

 そっけない背中を指でつんつんとつつく。それを後ろ手に払われてしまって思わずむくれてしまった。見てもいないのにそれを察したらしい白布が「あと十分で終わる」と言って再び黙る。夏休みはじめてのオフだからって呼び出したの、白布のくせに。内心そう思いつつ仕方なく白布の背中を背もたれにしてスマホをいじることにした。スマホの右上に表示されている時計を見る。七分。あと十分ってことは十七分くらいに構ってくれるってことね。そう頭に留めつつ大人しく友達とメッセージのやりとりをはじめた。
 友達には彼氏がいるのだけど、その彼氏が夏休みだというのに男友達と遊んでばかりで構ってくれないのだそうだ。その愚痴に「えーさみしいね」と返信したら友達からは「さみしいとかじゃない、殺意だよ」と返ってきて笑ってしまった。また返信して、友達から返ってきて。何度かそれを繰り返し、友達から突然「そういうあんたはどうなの?」と来た。どうなの、というのは、彼氏とどうなの、という意味でいいのだろうか。浮かしていた頭を後ろに倒す。白布の背中にごつんと当たってしまい、「痛ぇな」と言われてしまった。「ごめんごめん」と謝る。文句は言うけれどやめろとは言ってこない。そういうところ優しいよなあ。にやにやしつつメッセージを打ち込む。「一緒にいるけど課題ばっかで構ってくれない」、そう送ったら友達からはすぐに「でも一緒にいるんじゃん!」と怒りマークとともに返信があった。

「誰? それ」
「何が?」
「メール」
「隣のクラスの子」
「だから誰?」
「というか見てないのによくメールしてるって分かったね。白布知らないと思うよ」
「誰だって聞いてんだよ」
「チア部の子」

 白布は「あっそ」とだけ言ってまた黙った。あっそ、って。白布が聞いてきたんじゃん。「何怒ってんの」と頭で背中をごんごん叩いてみたら「怒ってねえ、揺れるからやめろ」と注意されてしまった。怒ってんじゃん。
 はてなを飛ばしつつスマホの右上を見る。十一分。あと六分。十分って結構長いなあ。友達にまたメッセージの返信をしつつじっと時計を見てしまう。いくら睨み付けても時間は速まらない。仕方なく視線を外して部屋を見渡してみる。寮の個室。白布の部屋に来るのははじめてじゃないけど、何回来ても新鮮に思える。無駄なものが一切なくてシンプルというか、殺風景というか。白布はそれを「どうせ一年で部屋変わるんだからもの増やしても意味ないだろ」と言っていたっけ。実に白布らしい返答だ。そんな白布とは正反対に、白布と仲の良い川西くんの部屋はものでごちゃごちゃしていたなあ。それを白布に笑いながら言ったら「なんでお前が太一の部屋のこと知ってんだよ」となぜか不機嫌に言われて。「読みたい漫画を川西くんが持ってたから借りたんだよ」と答えたら舌打ちされたのは記憶に新しい。川西くんにそのことを話したらどことなく蒼い顔をしていたような気がする。それ以来、川西くんに漫画を借りるときは教室か食堂になったっけ。

「ねーまだー?」
「あと五問」
「写してもいい?」
「教えてやるから自分でやれ。というか課題持ってきて一緒にやれよ」

 それにまたむくれる。だってまさか課題をやりだすなんて思わなかったし。せっかく久しぶりに二人でどこか行けるのかな、なんて思ったら白布の部屋だし。そう思いつつも声には出さない。部活で毎日忙しいことは知ってる。部活が終わってからこつこつ夜に課題を進めていることも知ってる。たまのオフくらいゆっくりしたいだろうに、それでも真面目にこつこつ課題をやる白布が、結構好きだったりもする。まあ、ちょっとは構ってほしいけど。たまのオフ休みたいだろうし課題も進めたいだろうに、わたしを呼んでくれたことがうれしいから、もうこれ以上文句は言わないようにしておこう。
 あと三分。友達はこれから家族と出かけるのだというので、「じゃあまたね〜」と送ってメッセージのやりとりは終了してしまった。三分って結構長いんだよなあ。インスタントラーメンにお湯を入れてからって結構長く思える。白布が数式を書くその音を聞きながらゆっくり目を瞑る。
 白布くんって、頭いいんだね!突然思い出してしまった。一年生のとき、白布と隣の席になったときにはじめて話しかけたときのセリフがそれだった。白布が大層怪訝な顔をしていたので慌てて「ノート、きれいにとってるから!」と机に広げられていた数学のノートを指さしたんだ。白布はわたしの顔から視線を外して自分のノートを見つめ、しばらくしてからわたしを見直した。「いや、ノートがきれいだから頭がいいとは限らねえだろ」と至極冷静にツッコまれてしまったっけ。あのときの白布、本当に無愛想だったなあ。笑いを堪えつつ白布のそのときの顔を思い出した。でも、その会話がきっかけとなって、白布にノートの取り方を教えてもらったり勉強を見てもらったりするようになったのだ。はじめは面倒くさがっていた白布も徐々に面倒そうな顔をしなくなった。席が離れてしまってからもその関係に変わりはなく、いつの間にか連絡先も交換していた。あのときのわたしにとって、白布は「頭が良くていつでも落ち着いている身近なヒーロー」みたいな存在だった。困ったらとりあえず白布! みたいな。白布にとっては迷惑な話だっただろうけど。

「あと何問ー?」
「あと二問。なあ」
「うん?」
「これ終わったらキスするから」

 「そのつもりで」と小さな声で付け加えられる。返事をするのを忘れて固まっていると「返事」と鋭い声で言われて思わず「あ、はい」と言ってしまった。しばらく無になる。開いたままだったスマホの画面の右上。十五分。あと二分、と思っていたら十六分になった。あと一分。白布が数式を書き進める音は止まらない。時計も止まらない。
 白布とは付き合ってるし、二人で出かけたこともあるし、手をつないだこともある。でも、キスはまだしてなかった。二人きりでこんなふうにいられることがあまりなかったし、まさか外でするなんてお互い考えたこともなかったし。そっか、そうだよね、するならこのタイミングがベストなんだよね、うん。白布はタイミングを計ったり周りを見て判断したりするのがうまい。バレー部でもそういうのが大切なポジションをしていると聞いたことがある。それがここでも発揮されたってことだよね! うん! 納得した!
 白布が数式を書くシャーペンの音が止まるたび、びくっと肩が動いてしまう。またシャーペンが動き始めるとほっとしてしまう。仕方ないことだと言ってほしい。だって、白布がシャーペンを置いたら、わたし、白布とキスするんだもん。そう思ったらどきどきしてしまって仕方ないじゃないか。スマホの時計はまだ十六分のまま。秒針が出ないデジタル時計になっていることをこれほど憎んだことはない。どきどきしたままあとどれくらいの時間を過ごせばいいんだろう。白布、頭いいし二問くらいさくっと解いてすぐに終わらせちゃうだろうな。じゃあもう終わってもおかしくない。そう思うと余計にどきどきしてしまってじっとしていられない。もぞもぞしていると「あ」と声が思わず出た。時計の針が十七分になった。それとほぼ同時に白布のシャーペンの音も止まった。

「……嫌ならしないけど」
「えっ」
「嫌ならしない」

 まだシャーペンを握ったままだ。白布の背中から離れて白布のほうを見る。課題のプリントをそうっと盗み見ると、もうきっちりすべて解き終わっていた。丁寧にびっしり書かれた途中式。几帳面だなあ。呑気にそう思いつつもどきどきは止まらない。
 嫌、じゃない。嫌じゃないんだけど、わたしが嫌じゃないと言ったらもうすることになるんだよね、たぶん。そう思うとまだどきどきが止まっていないからちょっと困る。心臓が飛び出たらまずい。そうっと白布から距離を取る。視線は床に向けてしまった。壁際に寄ってからひとつ息を吐く。そうっと白布のほうを見たらシャーペンを握る右手はそのままだ。顔はこちらを向いていて、無表情なような、なんだかよく分からない表情をしている。じいっと見つめられるとどきどきと一緒に気恥ずかしい気持ちが出てきた。

「い……いやじゃない……」

 顔を背けてしまった。それも仕方ないことだと許してほしい。これでもがんばったほうです。白布がどんな顔をしているのかは分からない。けれど、かすかに物音がした。たぶん、シャーペンを机に置いた音、だったと思う。その音が聞こえた瞬間にちょっと心臓が浮いた気がした。危ない、飛び出る、本当に。それくらい大きな心臓の音に余計どぎまぎしながらじっとしていると、白布がどうやらわたしの目の前にしゃがんだらしい音が聞こえた。と、いうか、もうすぐそこにいるの、ふつうに分かる、見てないのに。

「パンツ」
「……は?」
「見えてるけど」
「うわあ!」

 うっかり膝を立ててしまっていたのを慌てて戻す。背けていた顔が白布がいるほうに向いてしまい、ぱちっと視線が合ってしまった。急激に顔が熱くなっていく。白布はそんなわたしを見て「別に無理しなくていいけど」と呟いた。頬杖をついた白布はじっとわたしを見つめたまま静かに呼吸をしている。

「白布は、その、わたしとキスしたいの……?」
「はあ?」

 あっ心底イライラした顔をされた。白布は眉間にしわを寄せたままもう一度「はあ?」と繰り返す。そんなに変な質問だったでしょうか!ちょっと焦りつつ弁明を述べる。白布は頭が良くて、強豪運動部のレギュラーだし、顔だってたぶん整っているほうだと思う。本人はよく「身長がほしい」とぼやくけど十分だし、落ち着いていて頼りになる。本当に、なんというか、子どものころに近所に住んでいたお兄ちゃんのような、身近なヒーロー的存在なのだ。わたしにとっては、だけど。付き合い始めてからぼんやり「白布ってわたしのどこが好きなんだろ?」と不思議に思ったことはある。不思議に思うくらいわたしと白布って、実はアンバランスだと思うのだ。それに加えて白布ってなんていうか、キスとかそういうの、興味なさそうだなあ、なんて思っていた。だからまさか白布からキスする、とか言うなんて想像もしていなかったのだ。

「したくなかったら言わねえよ」

 とてもイライラしていらっしゃる。別の意味でどきどきしながら「そ、そうです、よね」ともごもご返す。笑いつつまた白布から視線を逸らす。その瞬間、どん、と白布が壁に手をついた。これは所謂あれだ、よく少女漫画で見るやつ、なのでは? まさか現実にそんなことをされる機会が来るなんて思っても見なかった。いつの間にか膝をついていた白布はもう片方の手も壁につくと「は」と言ってわたしの顔を覗き込む。

は俺と、したくないのかよ」

 珍しい。白布の声が小さい上にほんの少しだけ顔が赤い。照れている。はじめて手をつないだときは顔を赤くしなかったのに。珍しい、レアだ、ものすごくレアだ。けれどそんな感動を噛みしめている余裕はない。
 右左、どちらを見ても白布の腕が見えてしまって心臓が破裂しそうだ。そうっと視線を下に向けつつ「えっと」と言葉を出す。黙っているとどきどきがうるさくて余計に恥ずかしくなってくるから、自分を誤魔化したい。でもちゃんと返事をしないと白布に誤解される。ちゃんと、言わないと。

「……し、したい、よ」
「…………なんか危ない会話に聞こえてきた」
「白布が聞いたんでしょ?!」

 ばっと顔をあげたら白布とまた目が合った。顔が真っ赤だ。さっきの赤い顔なんて比にならないくらいの真っ赤だ。それに驚いていると白布がぎろりとわたしを睨んで「なんだよ」と鋭い声で言った。そのことに触れると恐ろしい目に遭いそうだったから「なんでもない」と誤魔化しておく。そんな顔もするんだ。余計にどきどきするから、そういうの、先に言っておいてほしい。
 壁についた手を離す、のかと思いきや手をつき直しただけだったらしい。もう一度とん、と音がしてから白布がわたしの瞳を見つめ直す。それから内緒話するみたいな小さな声で「目」とだけ言われた。閉じろ、ということだとは分かった。分かったんだけど、閉じたら、だって、キスされるんでしょ? そんなの閉じれないよ。口では「うん」と言ったけど、なかなか目を閉じることができない。白布のイライラというか恥ずかしさが爆発しないうちに目を閉じないと、さすがに。そう思って静かに呼吸をして五つ数えることにした。
 白布の瞳をじいっと見つめる。五、四、三、二、一。きゅっと目を閉じた。


憧れの唇
▼title by sprinklamp,