※未来捏造、社会人設定




 今日は風が強い。 走る車の中からでもそれがよくわかるほど、強い風が吹く夜だった。 道沿いに並ぶ桜はきれいに満開だというのに、強風のせいで花びらが攫われている。 吹き荒れる花びらを美しいと思う人もいるだろう。 けれど、わたしは、ただただかわいそうだと思った。
 車内はしんと静まり返っている。 普段から音楽やラジオを聴くような人ではない。 そんなことはわかっているのだけど、こんなときくらい気を利かせて音楽の一つでもかけてよ。 内心そう思いつつも黙ったままでいる。 運転席でまっすぐ前だけを見て慎重に運転している横顔を目だけで見る。 高校のときより少しだけ短くなった髪。 身長がほんの数ミリ伸びたと喜んでいたのは大学二年生のときだったか。 その一方で、どれだけ鍛えても本人がなりたかったような体型にはなれず、細めの体が昔と何も変わらないことを悔しがっていたのを覚えている。
 無言を貫く白布の横顔は、ほんの少しだけこわばっているように見えた。 ハンドルを握る手。 癖なのか未だに爪の手入れは怠っていない。 前にそれを職場の先輩にからかわれたことを怒っていたのを思い出す。 何もかもがつい昨日のことみたいに、まだ鮮明にここに思い出せる。 思い出せるのだけど、当然のようにそれはもう過去だった。
 膝の上に置いていた両手をきゅっと握りしめる。 徐々にわたしの家へと近付いていくにつれ、よりいっそう車内は静かになったように思えた。 街の灯りが煌々と眩しい。 少しだけ肌寒く思える車内をなんとかして暖めてくれはしないだろうか。 ありえない期待をしては出そうになるため息を抑え続けている。
 八年だった。 わたしと白布が時間を共有してきた時間は。 それを長いと思うかどうかは人それぞれなのだけど、わたしにとっては途方もなく長い時間だった。 大学一年生から今日まで、わたしと白布は時間を共有してきた。 その間にはうれしいことや悲しいこと、つらいこともあれば飛び上がるほど喜ばしいことも、たくさんいろんなことがあった。 数えきれないほどの思い出を抱きかかえて今日までふたりで歩いてきたのだと思う。 もう、抱える必要はないのだけど。
 「呆気ない」。 その一言に尽きる。 時間をいくら積み重ねようが、思い出をいくら抱え込もうが関係ない。 たった一言でそれらはすべて無になるのだ。
 白布という人は息苦しいほどに努力をする人だった。 勉強も部活も仕事も、何もかもをきちんとこなす。 人として非常にできていると誰もが言うだろう。 けれど、人間というものは何か釣り合いをとらなければそれに耐えられないものだとわたしは思うのだ。 簡単にいえば愚痴や弱音を誰かに吐かなければ、きっと心が持たないと思うわけだ。 それなのに白布はそれをばっさり「必要ない」と切り捨てた。 なぜなら白布は”人に話すこと”ではなく”完全に人を切り離すこと”で心の均衡を取っていたからだ。 何かが爆発する直前、白布は基本的に音信不通になる。 その間は誰も白布と連絡を取れなくなるし、白布も誰とも連絡を取らなくなる。 わたしに対しても同じだ。 でも、そんなのって、寂しいじゃないか。 それが積もり積もって八年分。
 一方わたしという人はどうやら危機感が足りない人らしい。 大学時代は飲み会に誘われれば仲のいい友人さえいればあとは誰がいても関係なく参加した。 帰り道が同じだからと初対面の男の人に送ってもらったこともあった。 社会人になってもそれは変わらないままだった。 もちろん見るからに危険そうな人には近付かなかったけれど、基本的に人を疑うということは極力しないようにしているところがある。 仲のいい友人の知り合いだから、という条件付きでだけれど。 白布はそれがどうも気に入らないらしかったが、たまに小言を言うくらいで抑えていたらしい。 でも、やっぱり、嫌だったみたいで。 それが積もり積もって八年分。

「……角のとこでいいよ。 道狭いし、まっすぐ行けばそのまま国道出られるし」

 言わなくても知っている。 そんなことは承知の上で声に出した。 返事がなくても構わない。 とにかく少しでも何か音が欲しかった。 そんな悪あがき。 思った通り白布は何も言わないままだった。
 今までいくつもの喧嘩をしてきたが、そのたびに仲直りをしてきた。 わたしから謝ったこともあるし白布から謝ってくれたこともある。 長くても一週間くらいで治まるものばかりだった。 だが、積もり積もった八年分の気持ちは謝るだけで済むものではない。 お互い引くことなど一切考えていなかったと思う。 わたしも意地だった。 きっと白布も意地だった。 お互い意地っ張りで負けず嫌いなところは高校時代から変わっていない。 けれど、意外だったのは。 白布の口から終わりを告げられたことだった。 言われたその瞬間のわたしは間抜けな顔をしていただろう。 白布の口から「別れよう」と出た瞬間、わたしの中に在った意地の糸が絡まってぐしゃぐしゃになった。 それに返事ができないまま、間抜けな顔をしたわたしを乗せて白布の車は走り続けている。
 外に目をやる。 吹き荒れる桜の花びらが何枚か窓にぶつかってはいなくなる。 桜の木々は騒がしく枝を揺らして、また花びらを風に攫われていった。 もう少しでわたしが降ろしてほしいと言った角だ。 わたしが車を降りてドアを閉めたら、わたしたちの八年が幕を下ろす。 その瞬間から昨日までが嘘かのように、まぼろしのように、きっと消え去ってなくなってしまうのだ。 そう思ったら、桜を見つめる瞳が、じわりと熱くなった。
 昨日のことのように覚えている。 大学一年生のとき、近くの大学に通っていた白布と久しぶりに連絡を取って再会した。 店は適当にお前が決めろ、と言ったからずっと行ってみたかったカフェを指定した。 時間ぴったりにカフェに行くと、五分前に来ていたらしい白布が席から手招きをしてくれたんだっけ。 わたしが席に着くなり白布は眉間にしわを寄せて「もっとふつうのとこ選べよ」と文句を言ってきた。 見渡すと周りは女の子ばかり。 わたしが指定したカフェは雑誌やSNSで話題になっていたところで、とにかく女の子からの人気が熱かったのだ。 白布はそういうところをあまり好まない。 知っていたはずなのだけど、ついうっかり忘れてしまっていたのだ。 ごめん、と謝れば不機嫌そうにしつつも許してくれたっけ。 わたしはカフェラテ、白布はコーヒーを頼んだなあ。 パンケーキもおいしかったなあ。 無理やり白布にもパンケーキを注文したけど、出てきたのがとんでもなくカラフルなかわいらしいもので、苦しくなるほど笑ったなあ。 白布はずっと眉間にしわを寄せていたっけなあ。 でも結局全部食べていたし、味はおいしかったのだろうと勝手に想像している。
 ……こんなふうに。 まるで手元にあるように思い出せるけど、もうない過去なのだ。 そう思えば思うほど、桜の花びらが滲んでしまってどうしようもなかった。
 そのときだった。 わたしが言った角を白布が通り過ぎた。 そのうえ、その角を曲がらなければいけないのにまっすぐ通過したのだ。 白布がそんなドジをするわけがないし、第一もう何度も来ている場所だから間違えるわけがない。 思わず白布のほうに顔を向けてしまう。

「……通り過ぎたんだけど」

 白布は返事をしない。 まっすぐ前だけを見て静かに車を走らせ続けている。 その行動がまったく理解できないまま、ここで文句を言うのも怖くてとりあえず黙ってしまう。 どこか離れた場所で降ろしてやろう、とかそんなことを考えているのだろうか。 だとしたらわたしは相当恨まれているんだなあ。 白布に限ってそんなことはないだろうけど、この状況ではなんともいえない。
 白布が運転する車はそのまままっすぐ道を走り続け、しまいには国道にまで出てしまった。 まさか自分の家に帰ろうとしているのかと思ったがルートが違う。 本格的にどこに向かっているのかがわからないまま、ひたすら黙って外を眺めている。
 国道沿いにあるラーメン屋は白布と前に行ったことがある。 いま通り過ぎたコンビニも白布と行った。 しばらく行くと出てくるちょっとエッチな看板で白布をからかったっけ。 そこからもう少し行くとある美容院は白布が一度行ったことがあると言っていたけど、お気に召さなかったんだったなあ。 その次に出てくるケーキ屋では白布の誕生日ケーキを買った。
 道路をまっすぐ走るだけで、白布との思い出がこんなにも溢れている。 ないのにある。 わたしの瞳にはたしかに映るのだ。 それが悲しくて、気付けばぽたぽたと涙が流れていた。 そっぽを向くように外を見ているから白布は気付いていないだろう。 言えるものなら言いたい。 わたし、まだ、白布のこと、好きだよ。 積もり積もった八年分の不満はあっても、それでも、白布のこと好きなんだよ。 言えるわけもなく涙になっていく。 白布が「別れよう」と言った。 それがわたしにはあまりにも衝撃的で。 別れたくない、なんて言えなくなるくらいにショックだった。 そのショックがまだわたしの心に波を作ったままで、凪ぐ様子がないのだ。
 白布のことが好きだった、高校生のときから。 努力家で、まじめで、ちょっと口が悪いけど根っこは優しい。 自分に厳しく人にも厳しくといった感じだったけどそれが信頼される理由の一つで、やると決めたらとことん突き詰める。 そんなところが好きだった。 融通が利かないところがあったり、興味のないものへは徹底して関心を示さなかったりしたけど、そんなことはどうでもよかった。 なにかをまっすぐやり遂げる白布のことが好きだったから。
 白布はやると言ったことはやる。 徹底的に。 自分が満足するまでやり通す。 だから、あの言葉だってそうなのだ。 売り言葉に買い言葉で出てきたようなものではない。 白布がそうしたいと思い、そうしようと決めたから出た言葉だった。 八年、時間を共有してきたわたしが言うのだからそうなのだ。 白布のそういうところが好きなわたしは、何も言えないのだ。
 車はまっすぐ走り続けてもう少しで三十分になる。 わたしの家からも白布の家からもずいぶん離れてしまっている。 一体どこに向かっているのか。 そう少しだけ不安になりつつ視線を前に戻す。 目の前に見覚えのあるものが見えた。 木目調看板に黄色い文字。 洒落た雰囲気を醸し出している建物。 外には小さな花がたくさん咲いていて、緑豊かに演出されている。 もうここにはない過去。 ぐっと唇を噛んだ瞬間、車内にウインカー音がかすかに響く。 驚いて白布のほうを見てしまう。 ハンドルを左に切っているところだった。 左折した先には、昔に雑誌やSNSで話題になったカフェ。 あの日のカフェだった。

「……なんで?」

 まだ言葉はない。 白布は狭い駐車スペースに車を器用に停める。 それから無言のまま鞄を持って車を降りると、すぐに助手席側のドアに回ってきた。 躊躇なくドアを開け、わたしの左腕をぐいっと引っ張る。 降りろ、ということらしい。 慌てて鞄を右手でつかんで車から降りると、白布がドアを閉めてロックをかけた。 そうしてずかずかとカフェの入口へ向かい、勢いよく扉を開けた。

「いらっしゃいませ。 二名様ですか?」
「はい」
「お席へご案内いたします」

 丁寧な店員さんに案内されて席へ移動していく。 平日の夜ということもあってお客さんはかなり少ない。 そのため普段は人気であろう窓側の席が空いていた。 店員さんはそこへ案内しようとしているらしい。

「あの」
「はい?」
「そこの席でもいいですか」
「えっ、ああ、はい、構いませんが……?」

 白布が指をさしたのはあの日座った席だった。 ほぼ満席に近かったあの日、白布が座っていたのは窓から離れた店の奥の奥、なんとも言い難い目立たない席。 けれど、間違いなくあの日座った席だ。 白布も覚えていたのだ。 それがあまりにも意外で未だに言葉が出ずにいる。
 困惑しつつも店員さんが白布が言った通りの席に案内してくれる。 メニューを渡そうとしてくれたので受け取ろうとしたら白布に奪われた。 開いてそのまま「注文いいですか」と告げると、またしても店員さんは困惑した様子だった。 それをはらはらしながら見守るしかできない。 白布はそんなわたしのことはもちろん、困惑している店員さんすら置き去りにしてメニューをめくった。

「コーヒーとカフェラテ。 両方ホットで。 あとこのパンケーキとこのパンケーキ」
「かしこまりました」

 困惑したままではあったが店員さんはにこりと笑って去っていった。 白布は店員さんが置いていったタオルで手を拭いてから頬杖をついて視線をそらす。 そのあとで同じく店員さんが置いていったお水を一口飲むと、息を吐いた音が聞こえた。 わたしは相変わらずぽかん、としたまま白布のことを見つめるしかない。 何を考えているのかこれほどまでにわからないのは久しぶりかもしれない。 割と白布は考えていることがわかりやすいタイプだったはずなのだけど。
 白布が頼んだものはすべてあの日と同じものだった。 それが何を意味しているのか、わたしにはわからない。 そっぽを向いたままの白布が何を考えているのか。 何もわからないわたしのことを、白布は怒るだろうか。
 そうっと視線を白布からそらす。 大きな窓から外の様子が見えた。 あんなに強かった風はいつの間にか止んでいて、お店の外にある木々は静かなものだ。 桜の花びらもあれ以上散らなくて済みそうだ。 月明りもおぼろげな夜だというのに、桜の花びらの色がこの目に焼き付いて離れないまま。 相変わらず何も話さない白布はずっと頬杖をついてそっぽを向いたままだ。 ふたりとも別の方向にそっぽを向いて黙り、静かに時間が過ぎていく。
 そのうちにコーヒーとカフェラテが運ばれてきた。 店員さんが去ると白布はコーヒーを一口飲み、小さく息を吐く。 一応この空気を息苦しいとは思っているらしい。 作り出したのは白布なのだけど。 わたしもカフェラテを一口飲むと、白布と同じように息を吐いてしまった。 そうしている間にすぐパンケーキがふたつやってくる。 夕食もまだろくに食べていないというのに。 パンケーキが最後の晩餐か、なんてちょっと苦笑いをこぼしてしまう。 店員さんがどっちにどのパンケーキを置こうか迷っているようだったので言おうとしたが、白布によってそれは遮られた。 白布の前にいちごとカスタードのパンケーキ。 わたしの前に七色のパンケーキが置かれた。

「…………逆だよね?」

 あの日わたしが食べたのはいちごとカスタードのパンケーキだ。 流れでいうとわたしが食べるはずだろうに。 白布はちらりとわたしのほうに視線だけ向けた。 見慣れた視線なはずなのに、どき、と心臓が大きく跳ねる。 白布は視線をパンケーキに戻すと律義に手を合わせて「いただきます」と言ってからフォークとナイフを手に取った。 無視しないでよ。 内心ちょっとむっとしつつ、わたしも同じように手を合わせてからフォークとナイフを手に取った。
 あの日見たときも思ったけれど、なかなかにパンチの効いた見た目をしている。 食べ物というよりはおもちゃとかそういう、およそ食べられない色だ。 あの日はわたしが勝手に頼んだので白布はかなり不満を言っていたっけ。 それと同じことをされると、まあ若干戸惑う。 恐る恐る一番上のピンク色のパンケーキを口に運ぶ。 食べてみて驚いた。 ただ着色料が使われているだけかと思ったのだけど、かすかにさくらんぼのような香りがした。 次の段はオレンジ色。 これも食べてみるとオレンジの風味、黄色はレモン、緑は抹茶、青は爽やかな風味。 そんなふうに色が変わるごとに風味や香りが変わっていく。 あの日、白布はそんなことを言っていただろうか。 なぜだかあの日は一口もらったりとかそういうことはしなかった。 白布は嫌々食べていた記憶があるし、味についてはあまり何も言っていなかった。 そうか、このパンケーキ、こんな味だったんだ。 そんなふうに思っていると、白布がぬっと自分のフォークをわたしのパンケーキに伸ばす。 なんの躊躇もなくオレンジ色のパンケーキを少し取っていった。 無言のままそれを口に入れ、ゆっくりと噛み、飲み込んだ。 そうしてようやく口が開く。

「……お前、何色のところが好き?」
「……は?」
「どうせピンクだろ」
「ど、どうせって何よ! ……そうだけど」
「だと思った」

 薄く笑った。 今日会ったばかりのときに見たはずなのに、とても久しぶりに笑顔を見たような感覚がする。 それくらい無言の時間は長かった。 わたしにとっては、たぶん、八年よりも長く感じたほどだった。

は」
「……なに」
「どう思ってんだよ、俺のこと」
「どうって言われても……」
「そういうの言わないだろ。 どう思われてるかとか言われなきゃ分かんねえし」
「何が言いたいのか分からないよ」
「俺が別れようって言ったとき、はどう思ったんだよ」

 白布が別れようと言った。 白布の言葉はいつも嘘がない。 だから、それを受け入れるほかわたしにできることはないと思った。 嫌だ、別れたくない、捨てないで。 そんなふうに惨めに泣いたって白布はきっと立ち止まらない。 容赦がないのだ。 自分にも他人にも一切。
 白布はまっすぐわたしを見たまま、答えを待っている。 わたしが何を言っても結論は変わらない。 白布が答えを求める理由が分からなかった。

「俺が危機感を持てって話をすると、お前、いっつも”みんないい人だから”って言うけどさ。 みんながいい人だから安心してって俺に言いたいのかよ」
「……よく分からない」
「お前が俺に主張したいのはどの誰だか知らない男たちはいい人だってことなのかって聞いてんだよ」
「…………えーっと?」
「言いたくないから自分で考えろ」

 白布の言っていることがよく分からない。 本気で首をかしげてしまうと白布が小さく舌打ちしたのが聞こえた。
 友人の知り合いである人たち、男女数人がいる飲み会に参加する。 たまに駅まで徒歩で送ってもらうこともあれば、お酒を飲まない人の車に乗せてもらったこともある。 それを白布に怒られていつも「友達の知り合いだし、いい人ばっかりだよ」と言い返していた。 実際何か危害を加えられたことはもちろんないし、もっとも口説かれたりとかそういうことも一切なかった。 飲み会の席ではいつも白布の話をしていたから、誰もがわたしに恋人がいることは知っていた。 あまりに白布のことをよく話すものだから飲み会にいる人たち全員が、わたしが白布という恋人のことが好きでたまらないのだ、という認識を持っていた。 特別かわいいわけでもないし気が利くわけでもないし、べた惚れの恋人がいる。 そんな女には誰も間違っても手を出そうなんて思わない。
 ここまでさかのぼってみると、なんとなく白布の言いたいことが分かったような気がした。 でも自惚れかもしれない。 ちょっと白布らしくない結論にたどり着いてしまったからだ。

「……わたしが言いたいのは、そういうことじゃなくて。 わたしは白布のことが好きだから、他の男の人に気持ちが移るなんてないから大丈夫だよってこと、だったんだけど」

 もしかして伝わってなかった? そういう意味を込めて白布のことを見る。 白布はパンケーキに乗っているいちごをフォークでさす。 それを口に放り込むと視線を少しそらした。 ぼそりと「伝わってねえよ」と呟いた横顔は、ちょっと照れているように見えた。

「お前が必死でどこの誰だか知らない男どもを庇うから」

 少し早口になっている。 白布は視線をそらしたまま、一度息を吐いた。

「俺のこと、もうどうでもいいんじゃないかって、思ったんだよこっちは」

 乱暴に視線をこちらに戻す。 顔が赤い。 こんなに赤い顔をした白布を見るのはいつぶりだろうか。 はじめてキスをしたとき。 はじめて家に泊まったとき。 いろいろ顔が赤くなった白布を思い出したけど、そのどれともちがう。 なんだか、ほんの少しだけ、泣いてしまいそう。 そんな顔だった。
 そんなふうに思われていたなんて夢にも思わなかった。 白布以外の人に目移りするなんて考えられなかったし、白布もそう思っていると思っていた。 言葉にしなくてもそれくらい分かってくれている、そう甘えていたのだ。

「別れようって言っても無反応だし、車の中でも何も言わないし」
「そ、それは白布だってそうでしょ。 それにわたしだって白布に聞きたいことがある」
「なんだよ」
「音信不通になることをいつも”誰にも邪魔されたくないから”って言ってたけど、それってわたしも邪魔って意味だよね?」
「そうとは言ってないっていっつも言ってんだろ」
「どう違うのよ、じゃあ」
「……そうじゃなくて」
「なに?」
「…………単純に、かっこ悪いだろ」
「は?」
「落ち込んだり悩んでりしてるところ、お前に見られたくなかったんだよ」
「邪魔だから?」
「聞けよ、俺の話」

 コーヒーを一口飲む。 白布はとんでもなく深いしわが眉間にできるほど険しい顔をしている。 どうもあまり話したくないことだったらしい。

「……お前、俺のことよく褒めてただろ。 まじめだの努力家だのなんだの」
「うん。 だってそうでしょ」
「情けないところを見られたら、そう思ってくれなくなるんじゃないかって思ったから」
「……」
、俺のそういうところが好きって、言ってくれてたし」

 じょじょに声が小さくなっていった。 白布は言い終わるともう一度コーヒーを飲む。 そうしてまた視線を外すと黙ってしまった。
 そんなふうに思っていたんだ。 小さな衝撃。 だから隠そうとしていたってこと? 隠さなきゃ、わたしが白布を嫌いになるって思ったってこと? ……また早とちりをしている気がする。 それでも、そう思ってしまったら、なぜだかとても寂しくなってしまって。 またぼろぼろと涙がこぼれた。

「ばかじゃないの」
「うるせえな」
「そんなくらいで、白布のこと、好きじゃなくなるなんてこと、ないよ」
「……そうかよ」
「わたし、白布が思っている以上に白布のこと、好きなんだよ」

 白布のことが好きだ。 まじめで、努力家で、自分にも他人にも厳しくて、本当はすごく優しい。 やると決めたらとことんやるし、結構自分を犠牲にしてでも人を手伝ったりもする。 口が悪いところはあるけど、出ていく言葉に嘘はない。 そういう白布のことを好きになった。 そういうところが好きだからこそ、そういうところが不安要素になることも多かった。 まじめな人はそれだけ不条理に悩む。 努力家な人はそれだけ近道ができずに苦しむ。 自分にも他人にも厳しい人はそれだけ敵ができやすい。 本当は優しいのにそれが分かりづらい人はそれだけ人に理解されないことが多い。 とことんやる人はそれだけ人が引いて行ってしまうこともある。 自分を犠牲にして人を手伝う人はそれだけ失うものが多い。 口が悪い人はそれだけ同じものが返ってくる。 嘘がない人はそれだけ人に疎まれやすいこともある。 白布はどれほどの苦悩を抱えているのか心配でたまらなかった。 だから、そんな面を隠すことがどうしようもなく寂しかったし悲しかった。 ふまじめなところを見せてくれたっていい。 せめて、わたしにくらい。 いつもそう思っていた。 甘いところも優しくできないところも、怠けてしまうところも自分を優先してしまうところも。 気にせず口が悪いままでいればいい。 嘘をついたっていい。 そうだとしても、わたしが白布を好きなことに変わりはないのだから。

「好きだよ」

 白布の抱える何もかもも一緒くたにしても。 ぼろぼろこぼれる涙は止まらないままだったけど、ちゃんと言葉にできた。 白布は視線を戻してから、少しだけ俯く。 フォークでパンケーキを少し突きながら「そうかよ」と呟くと、笑った。

「俺もだよ」

 いちごとパンケーキを器用にフォークでさす。 カスタードをたっぷりつけると、ずいっとそれをわたしに向ける。 ぼろぼろ止まらない涙はそのままにしてそれを食べると、白布がまた笑った。 「口についてる」と自分の顔をさして場所を教えてくれた。 カスタードを指でとる。 結構べったりついていた。 それをおしぼりできれいに拭く。

「やっぱり別れたくないなんて情けないことを言っても、俺のこと好きって言えるか」

 変な質問。 ちょっと笑うと白布は「笑うな」とばつが悪そうに目を伏せた。
 フォークでわたしが一番好きなピンク色のパンケーキを一口サイズに切ってさす。 ゆっくり口に運んで噛めばさくらんぼの味がする。 あの日白布が食べたものも同じ味だったのだろうか。 聞かなくてもそれはもちろんそうだ。 わたしが好きそうな味だと白布は覚えていた。 八年も前だというのに。
 小さな声で白布が「ごめん」と言った。 静かなカフェではとてもよくその声は聞こえてきた。 わたしも同じように「ごめん」と言えば、ようやくいつもどおりの空気がふたりに間に吹き込んだような気がした。


ふたりで食べたまぼろし
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