朝ってこんなにも静かで、こんなにも澄んでいて、こんなにも暖かいんだ。普段めったに早起きをしないから気が付かなかった。朝は眠たいし体がだるいし寒い、と思っていたのに。寮から少し歩いただけでわたしは朝の虜になっていた。ゆっくり進んでいた足が、気付けば速まり、いつの間にか走っていた。学校の門をくぐって見慣れた街を走る。過ぎていく景色の何もかも。わたしは見慣れているはずなのに。どれもこれも新鮮に、塗り替えられたように見えた。
走って行った先は小さな公園。今は何も葉がついていない大きな木の下にあるベンチに腰を下ろす。そこでようやく自分が息を切らせていることに気が付いた。何も苦しくなかった。あまり運動が得意ではないわたしが、ここまで苦しいなんて思わず走って来られた。それに少しだけ感動した。
「え、何してんの」
「……瀬見。おはよう」
「おはよう……え、いや、何してんの?」
公園の入り口に瀬見がいた。わたしのへにょへにょジャージと違って、ちゃんと運動をするためのピシッとしたジャージ姿だ。どうやら朝のランニングに来ているらしい。公園に入ってわたしに近寄りながら「え、朝にランニングとかするタイプだっけ?」と笑った。
「なんとなくだよ」
「なんとなく、で走りに来る時間じゃないだろ」
「本当になんとなくなんだよね、これがさ」
はは、と笑いがこぼれる。瀬見はそんなわたしの横に座りながら同じように笑った。朝日が少しずつ出てきた空は、赤色と青色、そして黄色で染まっている。それを見上げながら一つ息を吐くと、瀬見も同じように息を吐いた。
しばらく黙って二人でベンチに佇んでいると、少しずつ足音が近付いてくるのが聞こえる。瀬見が「げ」と声をあげたので何かと思って公園の入り口に目をやる。すると、公園の入り口からも「げ」という声が聞こえてきた。
「今日は厄日かよ……おはよう」
「おはようございます」
「おはよう」
「……何してんですか、あんたは」
「敬語賢二郎だ」
「殴るぞ」
「ごめん」
賢二郎は公園に入ってきて、少しこちらに近付く。「朝っぱらからなにしてんだよ」という言葉は完全に瀬見を無視してわたしに向けられていた。昔から朝が得意ではないと知っているので、心の底から怪訝そうな声だ。瀬見のときと同じく「なんとなく」と答える。賢二郎はわたしのことを頭から足先まで見てから、「それ寝巻きだろ」と呆れた声で呟いた。正解だ。このジャージは寝るときに着ているもので、長袖の下には実はキャミソールしか着ていない。走っているうちはよかったものの、こうしてじっとしていると少し肌寒くなってきた。恐らく賢二郎はそのことも気付いているようだ。ため息をついてから「帰って寝ろ」と言いつつ座っているわたしの右手に手を伸ばす。手首をつかむとぐいっと引っ張り上げられたので、仕方なく立ち上がることにする。
その様子を無言で見ていた瀬見がわたしに続いて立ち上がると苦笑いをこぼした。
「いいんじゃねえの、が帰りたければ帰ればいいし、走りたければまだ走ってても」
「考えなしに言ってるわけじゃないです」
「いや、がどうしたいのかが大事じゃねえの?」
「この人は昔からすぐ体調崩すんでそんなこと言ってたら命が足りないです」
「え、そこまでのこと?」
思わずツッコんでしまった。賢二郎は心底不機嫌そうな顔をして「いいから帰るぞ」と言いながらぐいぐいわたしを引っ張る。別に帰っても帰らなくてもどっちでもいい。賢二郎が帰れと勧めてくるなら、まあそれでもいいか。それくらいの軽い気持ちでいると、左手をつかまれた。瀬見だ。賢二郎の手より少し大きくて温かい瀬見の手ががっしり左手をつかんだことにより、わたしを引っ張る賢二郎が止まった。
「なんですか」
「いや、嫌がってるだろ。やめろって」
「これのどこが嫌がってるんですか」
「俺にはそう見えた」
「見間違いです」
「白布、お前ちょっと強引すぎないか?」
なぜだか言い争いがはじまってしまう。朝っぱらから元気な二人だ。両手を引っ張られつつ笑いがこぼれる。するとそれを目ざとく見つけた賢二郎が「なに笑ってんだよ」とわたしの足を軽く蹴った。瀬見は「あっお前!やめろって!」と賢二郎を咎めると、賢二郎は分かりやすく瀬見を睨んだ。
「朝っぱらからケンカしないでもらえますか?」
「誰のせいだと思ってんだよ」
「え、わたしなの?」
「当たり前だろうが」
「はどっちの味方なんだよ!」
え、わたしのせいにして、しかも決着をつけさせようとしてる?そうは言われてもどっちでもいいんだよなあ。自分の優柔不断さにはため息がもれる。瀬見が言っていることも、賢二郎が言っていることも。どちらも形は違うけれどわたしのことをちゃんと考えて言ってくれていることだしなあ。わたしにはその答えを出せるほど、まだ気持ちが追いついていないのだ。
「じゃあさ、三人で走りながら戻ろうよ」
「……は?」
「はあ?!」
「いいじゃん。どうせ二人ともそのうち折り返す予定だったんでしょ?」
振り払うように両手をぶんっと自分のほうへ引っ張る。二人の手は離れていき、右手にはよく知った、左手にははじめて知ったぬくもりが残った。
「はいはい行くよー。よーい、」
「いやいや、待て待て、なんで三人で、」
「どん!」
「話聞け!」
うるさい瀬見を置いて走り出す。意外なことに賢二郎はわたしの少し後をすぐついてきた。どうやら本当に公園で折り返す予定だったらしい。何も文句を言わずついてくるというのはそういうことだろう。
瀬見はというと、ぎゃーぎゃー言いつつも結局ついてきたようで、賢二郎の隣辺りを走り始めた。賢二郎よりも歩幅が少し大きいのが足音で分かる。なんだかバランスの悪い足取りで三人で寮に向かって走って行く。
「遅い」
「いや、あの、運動部の、人に、ペース合わせ、らんないから、ね?!」
「え、もうバテてる?」
「本当、これ、結構、がん、ばってる、よ」
わたしの左隣に来た瀬見が「体力ねーな」けらけら笑う。右隣に来た賢二郎は「相変わらずかよ」とまっすぐ前を向いたまま呟いた。二人ともなんだかんだ言いつつわたしにペースを合わせてくれている。優しいやつらめ。そう憎らしく思いつつ、空を見上げる。
もう太陽がずいぶん高くまでのぼってきた。いつもどおりの朝。なにも変わらない朝。けれど、昨日とは違う朝。粒のように小さいくせにごちゃごちゃ考えて生きているわたしたちを、眩しい太陽が笑っているように思えた。
ハイセンス・ナンセンス・アイラブユー(薄明)
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