瀬見英太。声に出さずに喉の奥で名前を呟く。じいっと見つめるその背中は楽し気に仲間たちと笑っていた。
 同じバレーボール部ということもあって、男子部と女子部はそれなりに交流がある。主将同士はたまに体育館の調整等でミーティングをしたりするし、下級生の子たちはボトルやタオルの調達で顔を合わせることが多い。わたしも一年生のときは男子部の同輩とはよく話したし、今でも顔を合わせれば話をする仲だ。
 でも、一つ上の先輩や一つ下の後輩となると話は変わる。
 基本的に学年が違うというだけで関わる率はかなり低くなる。とくに先輩。ほぼ会話なんかしたことない、希少人種だ。女子の先輩たちが話している姿はよく見るけど、二年生は二年生とつるむことが多いし。有名人の牛島先輩なんかそばに寄ったこともない。というか恐れ多くて近寄れない。天童先輩や大平先輩、山形先輩なんかも同じだ。そもそも男子バレーボール部の先輩方はなんだか近寄りがたい。けれどその中で一人だけ、なんとなく、そういう雰囲気をまとっていない人がいる。それが瀬見英太、その人だった。
 瀬見先輩はなんというか、簡単にいえば人気者のようなポジションにいると思う。いい意味で軽くて話しやすい雰囲気があるし、それなりに真面目で人懐こい。遠目から見た印象はそういう人だ。なんだか整った顔をしていてバレー部で背が高いというオプションもついていて、なかなか女子からの人気は高いのだという。「気のいい男友達」としての人気だそうで割と恋をしてしまう女子は少ないらしいけれど。何人か付き合った人はいるのだそうだけど、どの人もあまり長続きしなかったそうだ。

「瀬見は友達がちょうどいいよね〜」

 男子部の人と話していた先輩の声が聞こえてきた。その言葉に瀬見先輩が「うるせー!」と大笑いしながら返す。先輩の言葉に他の先輩も賛同の声を上げると瀬見先輩は「お前らもな〜」と楽しそうに笑う。
 ぱあっと、眩い光を放つように笑う人だ。爽やかなんて軽々しい言葉では表せられない。なんだか見ているだけで心臓がうるさくなる。とてもとても、眩しい光に見えた。
 端的に言えば、わたしは瀬見先輩のことが好きだった。
 一目惚れだ。一年生のときに部活紹介が行われたとき、壇上にいた瀬見先輩は、わたしを一目で惹きつけた。二年生ということもあって一言も話さななかったけど、壇上でなんだか緊張している顔をしているだけだった。それでも、わたしには瀬見先輩だけきらきらして見えたのだ。元々バレーボール部に入るつもりではいた。でも、瀬見先輩という存在がそれをさらに後押ししたのは言うまでもない。
 とはいえ、二年生になっても未だに、一言も話したことはないのだけど。
 春高予選が終わると女子部も男子部も、三年生が引退となった。それぞれ引退式をしたあとに女子部と男子部が体育館に集まって、OBOGから差し入れられた肉やら野菜、お菓子にジュースをいただく。三年生はそれぞれ晴れやかな顔をしていて、二年生と一年生はなんとなく落ち着いた顔をしている。わたしも落ち着いた顔をしている一人だ。遠くで焼きそばを食べている瀬見先輩をちらりと見てから、顔をそむける。気軽に姿を見られるのもこれが最後。そう思うと寂しい気もしたけど、さっぱりしている自分もいる。だって二年間、話しかけることすらできていないのだから。実ることがないものは諦めてしまうのがいい。瀬見先輩の引退をこうして遠くから見ているのが、一番いいのだ。

、お茶とって」

 感傷に浸っているわたしにそんな言葉がぶつけられる。少し微妙な気持ちになりつつ目の前にあるお茶のペットボトルを手に取り、声の主に手渡した。川西だ。「どうも」と呟いてペットボトルを受け取ると、自分の紙コップにそそぐ。そうしてすぐにわたしにそれを差し出し「ありがと」と言った。元の場所に戻せということだろう。別にその辺に置いておけばいいのに。そう思いつつも受け取って元の場所に戻したら、川西がじいっとわたしを見ていることに気が付く。

「……なに」
「いや、いいのかな〜と思って」
「なにが」
「瀬見さん」
「……は?」
「話しかけなくていいのかな、と思っただけ」

 川西はポテチをつまんで口に放り込む。わたしはそれをぼけっと見ているしかできず、言葉を返すことはできなかった。そんなわたしに対して川西は「引退したらなかなか会えないじゃん」と続けるので、余計にぼけっとしてしまう。

「え、もしかして気付かれてないと思ってた?」

 「お前ばかだな〜」と笑う。川西はわたしの紙コップをつかんで勝手に近くにあったオレンジジュースをそそいだ。そうして「ネツレツな視線だったからなんとなく」と呟く。
 川西は同輩だしそれなりに話すほうだけど、とても仲が良いというわけではない。そんな川西に気付かれていたということは。そう穴があったら入りたい気持ちになっていると、川西は見透かしたように「俺しか気付いてないと思うけど」と言った。あんまりにも自然な会話にならいいか、なんて思いかけてはっとする。いや、よくない。川西に気付かれたというだけでわたしにとっては非常に悪いことだった。

「引退記念に話しかけてきたら」
「いい、そういうのいいから」
「呼んできてやろうか」
「いいから! 本当! そっとしといて!」

 立ち上がろうとする川西の両肩を慌てて掴む。そのとき、さっき川西から返してもらったお茶のペットボトルが机の上でこけた。川西はどうやら蓋を甘く締めただけだったらしく、机の上は悲惨な状況になってしまった。川西の肩から手を離して「あーもう!」と多少大きな声を出して「川西!」と川西を睨みつける。川西は苦笑いして「いや、ふつうにごめん」と頭をかいた。こけたペットボトルを拾って蓋を締め直す。全部こぼれなかっただけマシだ。ため息をつきつつお菓子の袋やまだ使っていない紙コップなどを避ける。わたしと川西しかいない机にふきんが見当たらず、他の机から取って来いと川西に言おうとしたときだった。

「どうした?」

 びくっと肩が震えてしまった。お茶がこぼれた場所を見たまま固まったわたしを放ったらかしにして、川西が能天気に「あ、瀬見さん」と言う。

「いやあ、お茶こぼしちゃいまして。が」
「なっ、ち、ちが、川西のせいでしょ!」
「いや、こかしたのだし」

 むかつくなにこいつ! 顔を上げて川西を睨みつけると、その横に立っている瀬見先輩の姿が視界に入ってしまう。むり、こんなの、別に求めてなかった。こっそり、ひっそり、消してしまいたかったのに。

「どうせお前のせいだろ」
「えっ瀬見さんひどくないっスか」
いつもきちっとしてるし」
「ええ……そんな理由で……」
「いいからお前はふきん取ってこいって」

 瀬見先輩が笑って川西の背中を叩く。川西は渋々立ち上がって「は〜い」とやる気なさげに呟くと同時に、わたしのことをちらりと見る。その顔、むかつくからやめて。そういう気持ちを込めてまた睨み返すと、川西は楽し気に笑った。まさか、狙ったんじゃないだろうな。平常心をなんとか保ちつつ机の上の物を一つ一つ避けていると、川西が座っていた席に瀬見先輩が腰を下ろした。そうしてわたしと同じように物を退かしながら小さく笑った。

「いや、ごめん、が川西に怒ってんの、なんかつぼだったわ」
「つ、つぼ、ですか」
「なんか怒ったりしてるとこ、見たことなかったからさ」

 瀬見先輩が笑っている。わたしの目の前で。たったそれだけのことなのに、もうそれだけで何もかもが十分に思えた。ただ同じ高校で、同じ部活で、一つ先輩なだけの人なのに。目の前で笑ってくれるだけでこんなにも、わたしに何かをくれる。恋というものの魔力を生まれてはじめて思い知った瞬間だった。

「川西遅いな……俺向こうから取って、」
「あの、瀬見先輩」
「ん?」
「あ、え、えっと、あの、三年間、おつかれさまでした」

 振り絞った言葉。たぶん顔が赤い。だって直接言えるなんて、夢にも思っていなかったから。嬉しくて嬉しくて。さみしくて、たまらない。ぎゅうっと握った拳を見られないように机の下に隠す。本当に言いたい言葉は胸の奥に隠す。奥へ奥へ奥へ、隠しこむ。

「おう、ありがとな! はあと一年、がんばれよ」

 ぱあっと光が差す。その光に照らされないように心に大きな影を作る。これを隠していれば瀬見先輩はわたしにだって笑ってくれるのだ。実らなくなっていい。叶わなくたっていい。もちろんその方が嬉しいだろうと思うけれど、そうじゃなくてもいい。この人が笑いかけてくれるだけで。わたしの名前を声に出してくれただけで。わたしはこんなにも、希望に満ち溢れるのだから。


宇宙で息が出来るよ
▼title by 金星