ぽろっ、とはまっていた何かが抜け落ちたような感覚だった。
 恐ろしいほど温度を感じない風が吹いている。 仙台市体育館の外にある水道の近くで手を洗い、ちらりと時計を見る。 集合時間まであと十五分。 学校のバスが到着するまでしばらく自由時間となったわたしたち白鳥沢学園高校男子バレー部一同は、恐ろしいほど静かな時間を過ごしている。 大体みんな体育館の入り口近くでぼけっと立っていたり。 一年生で末っ子みたいにどこかかわいい五色なんかはわんわん泣いていたっけ。 それを同輩の天童や大平がなだめる横で山形と瀬見はふわふわと宙を眺め、牛島はほんの少し俯いて何かを考えているようだった。 二年生の白布は珍しく感情を前面に出して少し泣いていたけれど、しばらくしてからは唇を強く噛むだけになっていた。 同じ二年生の川西も白布の横でぼんやりを空を眺めていた。
 春高予選の表彰式が終わってまだ数十分しか経っていないのに、もうずいぶん長い時間をここで過ごしたような気持ちになっている。
 洗った手をハンカチで拭くでもなく、何をするでもなく、ふわふわと宙に浮いているような感覚を覚えたままだらりと垂らしたままでいる。 足元に置いている鞄の中には今日のスコア表や予備で持ってきたスポドリの粉、ストップウォッチ、タオル。 いつも試合に持って行く必要なものがたくさん入っている。 そう、たくさん、入っているのだ。
 きゅっと水を止めて少し屈めていた体をゆっくり伸ばす。 少し視線を戻せばたぶん部員みんなの姿が見えるだろう。 だから、あえて、視線を戻すことはしなかった。 水道を俯くように見下ろしながらぼけっとしてしまう。 何かが溢れそうになるのを堪えて唇を噛んだとき、自分の手が小さく震えていることに気が付いてしまった。
 楽しかった。 楽しい三年間だった。 それはどうであれ変わらない。 どうなっていてもその楽しい時間に終わりは来る。 それが、思っていたより、少し早かっただけのこと。 いずれ迎える終わりのときだったと分かっていても、どんなに掴みたくてももう掴めないのだと分かっていても。 こんなにも胸が痛くなるなんてことだけは、あんまり、分かっていなかった自分がいる。

!」

 びくっと肩が揺れた。 試合が終わっても、表彰式が終わっても。 誰とも話さなかった。 話したくなかった。 綻びが出てしまいそうで怖かったから。 目の前でみんなが涙を流している姿を見て、どうすればいいのか分からなくなってしまった。 それが情けなくて声をかけられなかったこともある。
 わたしに声をかけてきた瀬見は、そんなことを知るわけもなく容易くわたしの顔を覗き込んだ。 いつも通りの顔なはずだけど、なんとなく目が赤くなっているように見えてしまった。

「どこにもいねーからびっくりしたわ」
「……いや、手洗ってただけだから」
「そか。 ならよかった」

 瀬見は時計を見てまだ時間があることを確認すると、「ベンチ座ろうぜ」とすぐそばにあるベンチを指さした。 瀬見の話だと他の部員も次第に別々の場所で時間を過ごすようになっていたのだという。 そんなみんなの様子を見て、瀬見はわたしのことを探してくれたらしい。 どこまでもいいやつ。 むかつくくらいに。
 瀬見に引っ張られるようにベンチに座ると、突っ張っていたように感じた体が少しだけ伸びた気がする。 座るなり瀬見は笑って「顔怖いぞ」とわたしのほっぺをぎゅっと軽く引っ張った。

「なあ、
「なに」
「三年間、マジでありがとな」

 ぎゅっと押し黙る。 瀬見はそんなわたしのことなんて知らないふりをして、にこにこ笑って話を続ける。
 たぶんバレー部部員の中だと一番、瀬見と過ごした時間が長いと言い切れる。 二年生のときに同じクラスだったというのももちろんあるけど、何よりも、三年生にあがる直前くらいのときのことだ。 瀬見がレギュラーから外されたのだ。 瀬見に代わってセッターとしてレギュラーに入ったのは後輩の白布だった。 瀬見はいいやつだ。 もちろん白布に笑って「任せたぞ」なんてかっこつけて言っていたけど、その裏でひどく悔しがっていたのを恐らく同輩みんなが知っている。 何度も言うけど瀬見はいいやつだ。 だから悔しいなんて気持ちを人にさらすことなくぐっと堪えていた。 でも、堪えているものはいつか溢れ出る。 それが練習に現れ出した瀬見は目に見えて落ち込んでいた。 練習後に一人で残ってオーバーワークをすることもしょっちゅうになり、いつ怪我をするかとはらはらするほどだった。 口を出した人もいた。 でも、瀬見は、ぜんぶぜんぶ、ぐっと堪えるのだ。

「あのときはほんと、ごめんな」

 瀬見がはじめてそれをぶちまけたのは、一人きりの体育館で自分を痛めつけるように練習しているところにわたしが口を出した瞬間だった。 「怪我なんかしたらどうするの」と声をかけた瞬間に、瀬見はぷつんと張りつめていた糸が切れたように言った。 「じゃあどうすればいいんだよ!」と。 でもその言葉はわたしに向けていったものではなかった。 自分に問いかけたものだったのだろうと思う。 瀬見が大きな声でわたしに怒鳴り続け、数分間それをじっと聞いていたときのことは今でも鮮明に思い出せる。 瀬見のそれを聞いていたらわたしまで悔しくなって、瀬見と一緒に子どもみたいに泣いたことも鮮明に思い出せる。 その日を境に、わたしは瀬見の自主練習に付き合うようになった。 元々得意だったサーブを集中的に練習し、わたしが役に立ったか今でも謎だけどボール出しやスパイク練、瀬見が言えばなんだって付き合った。
 瀬見がレギュラー落ちしてからはじめての練習試合、ピンチサーバーで出た瀬見がノータッチエースを取ったときの感動も、この胸に鮮明に焼き付いている。

「でも本当、本当に、ありがとな」

 わしゃわしゃと瀬見の大きな手がわたしの頭を乱暴に撫でる。 ジャージの裾を握りしめる手に力を入れても、唇を噛む力を強くしても、ぎゅっと目を瞑っても。 一度溢れ出した涙は止まらなかった。 我慢していた何もかもが流れ落ちて情けなく声がもれて、気が付いたら顔を手で覆って背中を丸めていた。 瀬見はそんなわたしの隣に黙ったままいてくれて、ずっと頭を撫でていた。
 白鳥沢学園高校男子バレー部、春高予選決勝戦、敗退。 フルセットの末の決着はあっけない二文字で片付けられてしまうものだった。 それが決まった瞬間、わたしはとても冷静にスコア表を書き、監督とコーチに続いて立ち上がり、相手校ベンチに礼をしていた。 体のどこにも力が入らなかった。 ただ頭の中で「ああ、負けた、のかな?」と不思議な感覚だけが巡り巡って、ベンチに駆けてくるみんなの顔をぼんやりと見ていた。 牛島のスパイク。 大平のスパイク。 天童のブロック。 山形のレシーブ。 瀬見のサーブ。 何もかもが頭の中できれいに再生されていた。
 負けた。 春高にはいけない。 わたしたち三年生にとっては、この敗退が、引退試合となった。

「ごめんな、春高、連れてってやりたかったんだけど……って俺が言うセリフじゃないか」

 その声を聞いた瞬間、反射で体が動いていた。 丸まっていた背中が伸びて手が瀬見に伸び、躊躇なくその胸倉を力なくつかむ。 瀬見は至極驚いた顔をして「え」と困惑していたけど、そんなことはスルーした。

「なんで謝るの」
「え、いや、だって……負けた、し」
「負けてない!」
「は?!」
「負けてない! わたしが負けてないって言ったら負けてない!」
「いやいや、どんな理論だよ?!」
「かっこよさはうちが、瀬見が勝ってた!!」

 分かったかコノヤロウ! やけくそだった。 やけくそでそう叫んだら入り口に残っていた部員がなんだかこっちを見た気がしたけど、そんなことはもうどうでもよかった。 やけくそに変わりはなかったけど、本心だった。 わたしにとって一番かっこよかったのは白鳥沢だった。 わたしにとっての一番は、白鳥沢だった。 だからどうなるわけでもないけど。 だから、謝られるのは、どうしても嫌だったのだ。

「瀬見、今まで見た中で、いちばん、かっこよかった」

 ほんとだよ、と言う声は涙に押しつぶされて消えてしまった。 瀬見の胸倉をつかんでいた手もほどけてすとん、とベンチに落ちる。 本当だ。 わたしにとって最高のチームは瀬見たち、白鳥沢学園だった。 だからこそ、こんなにも悔しくて、こんなにもむかつくのだ。 瀬見に謝られることもなにもかも。 最高のプレーを見せてくれたことにわたしがお礼を言うのは分かるけど、それを瀬見に謝られるのはむかついて仕方がないのだ。

「……いや、うん、負けたのはもちろん悔しいけど、にそう言われんのは、すげー嬉しいわ」
「ばか、ずっとかっこいいわボケ、トスもサーブもぜんぶかっこいいんだよボケ」
「うん、はい、照れるわ、落ち着け
「むり、むかつく、なんなの、むかつく」
「ごめん」

 涙が止まらないままにベンチから立ち上がる。 もう集合時間が迫っているのだ。 さっきから入り口付近に集まってきた部員たちがこっちを見ているのももう分かってる。 泣き顔を見られたくなかったのはそうなのだけど、もう無理な話だ。 座ったままばかみたいに照れている瀬見の腕を引っ張って「行くぞばか瀬見」と声をかける。 瀬見はわたしのリュックを掴みつつ「おう」と照れくさそうに呟く。
 急ぎ足で瀬見を引っ張ってみんなの元へ戻ると「ちゃん、英太くんに泣かされたの?」と天童がからかってきた。 それに続いて山形が「マジかよ、瀬見シメてやろうぜ」と笑い、大平が「体育館裏集合だな」と続けて笑う。 瀬見が「いや待って、大体合ってるけど誤解だから!」と照れつつ言う。 牛島がわたしに「大丈夫か、ティッシュあるぞ」とポケットティッシュを差し出してくれたところで、ようやく笑うことができた。


辿り着くのは美しい終わり
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