生まれて初めて、胸がきゅんとした瞬間だった。それはもう、まるで心臓にリボンをかけられたように、きゅんと。指先に電気が走ったようなその感覚。瞳の奥がめらめらと燃えるようなその感覚。体の隅々が何かを伝えたくて叫びだそうとしている、その感覚。生まれて初めて感じたそれに戸惑いと恥ずかしさを感じた。言葉にも行動にも上手く表せられない。そんなもどかしさが、私をまだまだ子どもだと思い知らせる。経験したことのない熱への戸惑い。自分の未熟さへの、恥ずかしさ。でも、何よりそのリボンを解けないまま立ち尽くしてしまった。

「あ、何してんの?」

 遠くの方でそう叫ぶ声が聞こえる。灰羽だ。灰羽とは同じクラスで、現在は席が前後になっている。灰羽はネットのそばに座っていたのにすぐに立ち上がり、こちらにぶんぶんと手を振り回した。けれど、今はそんな場合ではない。私の視線はすぐに灰羽から離れ、コートの隅へと戻った。

「えっ無視?! ひどい!」

 どたばたと灰羽が走ってくる音が聞こえる。そんな足音なんてどうもいい。コートの隅で自主練習をしている、一人だけが私の視界にはいた。というより、その人以外いまは見たくなかった。少し小柄な体格に短い茶色の髪。大きな目と小さな顔は正直かわいいと言われる部類のものだろう。けれど、まっすぐにボールを見つめ、構える姿。誰よりも美しい形で、誰よりも優しく丁寧に。きびきびと動くその姿が、私にはかっこよく見えて仕方なかった。

! 無視すんなよ!」
「灰羽」
「ん?」
「あの人、なんていうの?」
「え……あ、夜久さん? あの小さい人なら夜久さんだけど、え、どうしたの?」

 それ以降、灰羽の声はシャットアウトした。夜久さん。何もかもまっすぐなその人が、私の瞳と心に突き刺さって引き抜けない。この感情の正体を私は知っている。一目惚れ。それが表せることができる中で最も即した言葉だろう。きれいで、しなやかで、すごくかっこいい。目が離せなくなる夜久さんの動きや表情は、私の心をとらえて離さない。灰羽が相変わらず私の隣で何か言っているけど、今はただの雑音だ。夜久さんのシューズがキュッキュッと鳴る音と、ボールを受けるわずかな音。動でありながら静。細いのに頼もしく見える腕と足。小柄なはずなのに大きく見える体。

ってば!」
「うるさい灰羽! いま集中してんの!」

 その声に先ほどまでリズミカルに響いていた夜久さんが奏でる音のすべてが止まる。こちらをじっと見て、まるで般若のように恐ろしい顔をして、「リエーフ!!」とこちらに向かってくる。それを聞いた灰羽はひどく怯えた顔をして「のせいだからな!」と私を前に突き出し縮こまってしまった。

「おまっ、女子盾にするとか情けねーぞ!」
「だって夜久さん怖いんスもん!」
「というか女子連れ込むな!」
「連れ込んでません!」

 間近で見る夜久さん! 震えあがっている灰羽の前でそんなことを私は考えている。怒っている顔はものすごく凛々しくてかっこいい。灰羽が怯えている理由がよく分からないくらいだ。遠くから見ると細く見えた手足が意外としっかりしていたり、どう手入れしているのか教えてほしいほどきれいな肌をしていたり。どこを見ても私の顔を赤くさせるには十分だった。
 夜久さんはひとしきり灰羽に怒鳴った後、ちらりと私の方を見る。そうして少し苦笑いしながら「ごめんな、リエーフが」と頬をかく。灰羽はその言葉にまったく納得いかないようだったけど夜久さんの一喝ですぐに静かになる。まさか話しかけてもらえるなんて思っていなくて、少しだけ口をぱくぱくさせてしまう。なんとか言葉を絞りだし「た、た、体育のじゅ、授業で、あの、ペンケース、ここに、」とたどたどしく伝える。夜久さんは私が言葉を言い終わる前に「あー! それならあったよ!」とにっこり笑う。近くにいた部員に声をかけるとすぐに私のペンケースが出てきた。体育館の入り口前に忘れられていたのを夜久さんが拾ってくれたのだという。

「汚れてないか一応確認してみて」
「はっはい!」
「……なんか様子違うことなっぐっ」
「うるさい灰羽」

 ペンケースが汚れているかなんて正直どうでもいい。うるさい灰羽を後ろ手にこっそり殴ってから、ゆっくり夜久さんの瞳の奥を見る。夜久さんは「汚れてなかった? 大丈夫?」と首を傾げている。汚れているかなんか、ペンケースなんか、どうでもいい!

「あっあの!」
「ん?」
「れ、連絡、先を!」
「え?」
「教えていただけませんでしょうか!!」

 私の背中に引っ付いていた灰羽を振り払って頭を下げる。あまりの勢いに灰羽に思いっきりお尻が当たったらしいけどそんなことはどうでもいい。びしっと伸ばした左手にしっかりスマホを握り、もう一度「お願いします!!」とお腹の底から声を出した。その瞬間に体育館内がしん、と静まり返る。私のお尻が思いっきり当たった灰羽だけが「痛い!」と叫んだけど、他の人はすべての行動をやめているらしい。びしばしといろんなところから視線がぶつかってくるのを感じる。そんなことより今は目の前の夜久さんのことを考えるので精一杯だ。断られたらどうしようからはじまり、もし交換してくれたとして登録名は「夜久さん」なのかフルネームなのかフルネームにさん付けなのかむしろ先輩付けにするべきなのか。あとはじめてのメールはなんて送ればいいのか、「こんにちは!」からはじめた方がいいのか、自己紹介をすればいいのか、いきなり告白すればいいのか。いろんな疑問と混乱が頭の中でぐるぐると回り、少しだけじわりと涙になりそうになった。夜久さんは黙ったままで何も反応してくれる様子はない。じわじわと不安が渦巻いてくる。恐る恐る顔を上げると、そこには少しだけ顔を赤くした夜久さんがいた。

「……え、あ、お、俺?」
「は、はい! 夜久さんです!」
「いや……えっと、ほ、他のやつと間違えて、」
「ないです!」

 がしっと自分のスマホごと夜久さんの手を掴む。もう当たって砕けろ、そんな気持ちだった。どうせ連絡先を交換したところでまず言うことは決まっている、というかもうほとんどバレているのだから怖がることは何もない。

「一目惚れしました!」

 今日一番お腹から声を出しただろう。私の声がキーンと体育館内に響き渡り、しばらく反響する。夜久さんの顔は一気に赤く染まって少しだけ後ずさりされてしまった。驚きすぎて言葉が出ない、といった顔だ。その顔すら素敵にかっこよく見えるのだから、恋は盲目というのはものすごく強力な魔法だ。後ずさる夜久さんを追いかけるように一歩ずつ前に進む。夜久さんはそれに合わせて一歩ずつ引いていく。逃げられている! そのことに若干の悲しさを感じつつ、夜久さんの手を握っていることへの緊張が私に襲い掛かっている。思わず勢いで握ったけど、これはちょっと大胆すぎた気がしなくもない。夜久さんの手は温かくて意外と大きく、硬い男の人の手だ。
 じりじりと夜久さんを追い詰めていく私から、するりとスマホだけが抜き取られる。夜久さんの手を握ったままなので構わないのだが一応スマホの行方を目で追ってみる。灰羽だった。灰羽はとても穏やかな表情をして「パスコードなに?」と私のスマホをいじくる。そんなことに構っている場合ではなかったので素直にパスコードを答えると、灰羽は自分のスマホと私のスマホを引っ付けて何かをはじめた。今はそんなことより! 夜久さんとこうして関わりを持てたことに全人類、全世界に感謝せねば! そう思い余計に夜久さんの手を握る力が強くなった瞬間だった。灰羽が私の制服のポケットにスマホをするりと入れる。そして私の顔を覗き込みながら無邪気に笑った。

「夜久さんのアドレス、登録しといた!」
「おまっ勝手に何やって……!」
「灰羽!! ありがとう!! 愛してる今だけ!!!」
「えっ褒めんなよ照れるから〜」

 ぎゅううううっと夜久さんの手を握ると「ちょ、ちょっと痛いんだけど! 痛い!」と言われてしまったので、仕方なくそっと手を離す。灰羽は褒められたことが嬉しいのかにこにこ笑いながら「夜久さんもふつうに教えればいいのに。な!」と私の目を見る。夜久さんは「べ、別に教えないとは言ってないだろ!」と手をさする。灰羽にひとしきり言いたいことを言ったらしい夜久さんは、ちらりと気まずそうに私の顔を見る。ここまで勢いでやってきたからよかったものの、やっぱりちょっと強引過ぎただろうか。変人扱いされていたら悲しいが、他のバレー部部員の様子を見るにそれは諦めるしかなさそうだ。

「いきなりすみません! でも今が狙い時……じゃなくてチャンスだと思ったので!」
「い、いや別に謝らなくても……嫌だったとか、そういうのじゃないから」

 照れくさそうに笑って夜久さんは頭をかく。そしてまた少しだけ視線を逸らして、ぼそりと言う。

「どっちかっていうと、嬉しかったし……ありがとう」

 ちょっとだけ笑ってくれたその顔が、またしても私の胸を突き刺す。けれど、さっきと違ってものすごい衝撃で。ものすごい勢いで何かを撃たれたような感覚だったけど、体のどこも痛くない。衝撃に似合わないかわいらしいリボンが心臓に結ばれたようにきゅんっと動いただけだった。


褒めてつかわす