片手に持っているランチバッグを腕にかけて、階段を下りてすぐのところで何度もスカートや髪を整える。鏡がないのできれいになっているかは分からない。スカート曲がってないかな、髪の毛ぐちゃぐちゃじゃないかな。直しているところに人が来る気配があった。手を止めてわたしも先ほど階段を下りてきたばかりなんですよー、という顔をしてやり過ごしてから、フロアに入った。
 そうっと廊下を覗き込む。二年生の教室の一階下りた三年生の教室が並ぶ廊下。まったく同じ壁と床、教室の配置。それなのに、どうしてこんなにも異世界に見えるのだろうか。階段を一階下りただけなのにな。そんなふうに内心どきどきしながら意を決して廊下を歩き始めた。
 歩いていってすぐに見つけた目的の教室を静かに覗く。お昼休み時間を思い思いに過ごしている三年生たちはわたしに気付いていない。目的の人をどう呼ぼうか悩んでしまう。大声で呼んだら注目されそうで嫌だし、そっと入って行くのは勇気がいる。でも見渡しても目的の人はいないようで、誰かに居場所を教えてもらわなければ見つけられなさそうだ。誰かが気付いてくれたらいいのに。どうやって目立たずに気付いてもらおうか。そんな他人任せな気持ちでいると、ばちっと一人と目が合った。あ、と思ったけれど向こうのほうが動きが早かった。

、どうした?」

 夜久さんだ。部活の先輩で一番親切にしてくれているのだけど、こういうときもやっぱり優しい。あんまり目立たないくらいの声量で声をかけてくれつつこちらに来てくれた。夜久さんはわたしに近寄ってから「あ、分かった」と少しにやにや笑う。

「黒尾なら今職員室だからいないんだよ。そのうち帰ってくると思うけど」

 なんでも先ほどの授業終わりにノートを集める係に選ばれてしまったらしい。集め終わったノートを持って職員室へ向かってからまだ帰ってきてないそうだ。夜久さんはそれを説明し終わるとわたしを教室の中へ入れてくれた。黒尾さんの席らしいところに座るように言われたのでおずおずと座る。
 黒尾さん。部活の先輩でわたしの目的の人でもある。目的の理由は、わたしが持っているランチバッグにある。ランチバッグの中身はお弁当。これを渡すためにたった一階下りただけの異世界に飛び込んできたのだ。
 事の発端は先週金曜日に遡る。男子バレー部のマネージャーとして日々奮闘しているつもりのわたしは、その日も慌ただしくタオルを洗ったりボトルの準備を終えたところだった。部員たちは外周に行っていたときで、諸々の雑用が終わってから掃除しようと思いながらジャグタンクを持って一人で体育館へ戻る。重たいそれをいつもの定位置に置くため、よたよたとステージに近付いていった。ステージのそばには珍しく誰かの荷物が置かれていて、なんだろうと少し不思議に思った、その瞬間だった。つるりとジャグタンクが手から滑り落ちて、とんでもない音を立てて床に激突。その衝撃できつく締め切れていなかった蓋が取れ、辺り一面がスポーツドリンクに濡れてしまった。

「にしても災難だったよな。も黒尾も運が悪いというか」

 けらけらと夜久さんが笑う。笑い事ではない。そんなふうに俯くと「大丈夫だって、濡れたの制服だけだろ?」と励ましてくれた。
 そう、わたしがジャグタンクの中身をこぼしてしまったところに、その日に限って置かれていたのは黒尾さんの制服が入った袋だったのだ。いつもは部室のロッカーにかけているのに。その日黒尾さんは部活に遅刻してきていて、恐らく部室へ行かずにどこかで部活着に着替えて直接体育館へ来たのだろう。鞄はステージの上に置かれていたけど、何かの拍子に制服を詰め込んだらしい袋だけが下に落ちていたのだ。で、そこを狙ったかのようにわたしがドリンクをこぼしてしまった、というわけだ。
 外周から戻ってくるまでに体育館の掃除はきっちりしたけれど、黒尾さんの制服だけはどうにもできなくて。勝手に洗濯するのも気が引けて、大人しく謝罪をした。黒尾さんはびしょ濡れになったそれを見て大笑いして「これくらいいいですよ〜」と言ってくれた。さすがにクリーニングをして返すと言ったら、黒尾さんは少し考えてから「クリーニングはいいんだけど」といたずらっぽく笑った。何を言われても粛々と受け取ります。そんなふうに思っていると、黒尾さんは「月曜日、お弁当作ってきて」と言ったのだ。

「どうしてお弁当を作ってきて、なんて言ったんでしょうか」
「え」
「わたし、料理上手でもないですし、正直お弁当なんてはじめて作りました……」

 料理なんてほとんどしない。たまに母親を手伝って晩ご飯を作ったりするけど、指示通り動いているだけだ。お弁当なんてただの一度も作ったことがない。今回も母親に頼もう、と思ったのだけど黒尾さんから念押しするように「が作ってこいよ〜」と言われてしまって。
 絶対小馬鹿にするつもりだ。そんなふうにげんなりしている。でも、食べ盛りの男子高校生からすればお昼は好きなものを食べたいんじゃないだろうか。わたしのお弁当でお腹を満たすのはあまりにも不本意なのでは。そんなふうに思ったけど、先輩に言われた上にわたしの失態のペナルティなのだから仕方がない。土日にいろいろ考えてからスーパーで買い物をして、母親にいろいろ教えてもらいながら準備をした。今日はいつもよりものすごく早起きをしてこのお弁当を作り上げ、どうにかこうにか形にはなった、という感じだ。

「はじめて≠いただいてしまってどうもすみませんね〜」
「あ、お、お疲れ様です!」
「お疲れさん。で、それ渡しに来てくれたんだろ?」

 黒尾さんが後ろから歩いてきて、ぬっと手を伸ばしてくる。わたしの頭をくしゃくしゃ撫でると「ちゃんと作ってきたか?」と笑った。それを見た夜久さんは小さくため息をつき、「あんまいじめるなよ」と苦笑いをこぼした。その通り。いじめないでください。そう目で訴えかけたら「え、いじめてないだろ」と心外そうに言われた。
 黒尾さんの手が離れてから立ち上がり横にずれる。黒尾さんに席を借りていたお礼を言ってから、約束の物を机に置いた。「あの、味の保証はしませんので」と保険をかけておく。だってはじめて作ったし。味見はしたけど、わたしが好きな味ってだけだし。そんなふうに喉の奥でごにょごにょ言っておく。
 一向に席に座ろうとしない。そんな黒尾さんを不思議に思って顔を見上げると、じっとわたしを見ていた。何かご不満でも。そんなふうにじっと見返すと、黒尾さんはわたしが持ってきたランチバッグを手に取った。それから、同じようにわたしの手首を掴む。

「見せてもくれないのかよ」
「もったいないな〜と思って?」

 夜久さんの言葉にハテナが飛ぶ。黒尾さんの言葉にもだけど。何が? 二人の中でしか会話が成立していなくて困惑してしまった。そんなわたしを知らんふりして黒尾さんはずるずるとわたしを引きずるようにして歩き始める。ぽけっとしている間に教室から出て、階段を下り始めた。どこに行くのか全然分からなくて「あの?」と思わず声をかけた。黒尾さんは楽しげに「たまには外で食べるのもいいかと」と言った。

「というか自分のは?」
「その中に入ってます。中身だけ渡して去ろうと思っていたので」
「一緒に食べてくれる気ゼロじゃん」

 それは、ちょっと想像もしてなかった。素直にそう言うと「かわいくない後輩で困るわ」と笑われた。黒尾さんとお昼ご飯か。なんか新鮮かも。いや、でも自分が作ったものを目の前で食べられるのは、ちょっと恥ずかしい。でも先輩には逆らえないし。いろんなことを飲み込みつつ、昇降口に到着した。
 靴を履いてくるように言われたので大人しく履いた。黒尾さんと合流したらまた手首を掴まれた。黒尾さん曰く、逃げないように、とのことだ。逃げるわけないのに。信用がないな。そう少しおかしかった。黒尾さんに引っ張られるがままについていくと、部室棟の近くにあるベンチに到着。どうやらここで座って食べようと考えていたらしい。周りにもちらほら人がいて、みんな思い思いにお昼ご飯を食べていた。
 いよいよその瞬間が来てしまった。黒尾さんの隣に座って、ランチバッグが開けられるのを見ている。ちなみに上に置いてあるのが黒尾さんに作ったもので下がわたしのだ。母親から「どうせ作るなら自分のも作ってみたら?」と言われて、余り物や焦げたり崩れたりした物を詰め込んだ、所謂失敗作だ。

「どっちがのやつ?」
「わたしのは下です」
「はいはい」

 黒尾さんは上に置いてあるお弁当箱を手に取って、なぜかわたしに手渡してきた。「え、いや、わたしの下ですって」と言うのだけど「ん〜?」としか言わない。わたしのもののほうは前述の通り余り物と失敗作しか入っていない。見られるのも嫌なのに。正直に「そっち失敗したほうなので」と打ち明けたけど、それでも黒尾さんは「ん〜?」としか言わないままだった。

「だからこっちが黒尾さんのなんですってば!」
「いやいや、それは俺が決めることだから」
「なんでですか!」
「先輩だから?」

 愉快そうに笑われる。ついには下のお弁当箱を自分の膝の上に置いてから、無理やりわたしの膝の上に上のお弁当箱を置いてくる。取り替えようとするけど全部ガードされてしまった。黒尾さんはこういうときなかなか譲ってくれない。どうしてわざわざ失敗したほうを食べたがるのかよく分からないけど、大人しく諦めたほうが良さそうだ。「お腹壊しても知りませんよ」とちょっと睨んでから、黒尾さんに渡すつもりだったほうのお弁当箱の蓋を開けた。

「お、卵焼きちょっと崩れてる」
「だから言ったじゃないですか!」
「肉巻きはちょっと焦げてる」
「だから!」

 恥ずかしいからいちいち言わなくていいのに! 自分の手元にある何度もやり直してきれいに出来上がったお弁当箱の中身を見せる。「ほら、ちゃんときれいにもできますからね!」と喚くわたしを黒尾さんはけらけら笑った。よく分からない。絶対きれいなほうがいいだろうに。なんで見た目が悪いほうを食べたがるんだか。黒尾さんはわたしのことなど知らんふりして箸を握った。「いただきま〜す」とわたしに笑顔を見せてから、ちょっと焦げてしまった肉巻きを口に入れた。もぐもぐとしっかり噛んでから飲み込む。黒尾さんのその口と喉をじっと見て、どきどきしてしまう。お弁当なんてはじめて作ったし、そもそも料理を家族以外に食べてもらうのもはじめてだ。なんではじめての相手が黒尾さんなのかとちょっと不思議だけど、部活で良くしてくれる好きな先輩だから、まずいって思われませんように。そう。本当に。好きな先輩には失望されたくないし。そう緊張しながら祈ってしまう。
 黒尾さんは何も言わないまま今度は崩れている卵焼きを口に運んだ。こういうとき、おいしくなくてもお世辞でおいしいとか言ってくれるもんじゃないですかね、黒尾さん。憎らしく思いつつわたしも卵焼きを口に運んだ。各家庭で甘いか辛いかは違うらしい。黒尾さんの家はもしかしてうちと逆なのかもしれない。そんなふうに不安に思ってしまう。おいしくなくてもいいからせめて、まずくありませんように。そう祈るわたしの隣で黒尾さんは次のおかずをもう食べていた。
 さすがに沈黙が痛い。おいしくないなら食べなくていいのに。そんなふうに思いつつちらりと黒尾さんを見る。すると、黒尾さんも同じタイミングでわたしを見たからバチッと視線が交わってしまった。

「……無言は傷付くんですけど」
「え、ごめん。おいしいよ」
「絶対嘘じゃないですか……別に残してもいいですよ〜」
「いやいや本当においしいって」

 黒尾さんはけらけら笑ってポテトサラダを一口。もぐもぐ噛みながら「ただ」と言いながら、次はどれを食べようか考えているのか、お弁当箱を覗き込んだ。

「噛みしめて食べてたら言葉が出なかっただけ。本当においしいよ」

 もう一つ入っている卵焼きを選んだらしい。黒尾さんは不格好なそれを口に放り込む。それをぽかんと横で見ていたら、ちょっと、顔が熱くなった。噛みしめて、って。ただの後輩がお詫びに作ってきたお弁当なのに。しかも失敗したほうだし。黒尾さんって本当、変わってる。そんなふうに思いつつ、わたしも無言で食べ続けた。頑張って作ったお弁当。自分で言うのも、なんだけど。おいしく作れて良かった。そうちょっとくすぐったかった。


We wished time would stop.
▼title by BLUE