誰にも言えない秘密を隠し持っている。
 今朝降った雨のせいでじめじめとした空気。少しくせ毛の髪がくるくるとうねることに鬱陶しさを感じて、思わず一つため息がこぼれおちる。それを耳聡く聞いていた山口は「どうしたの?」と話を中断させた。一瞬ため息のわけを話そうかとも思ったけど、話すほどのことでもなかったのでキャンセル。「なんでもない」と返せば山口はにこにこ笑って「そっか」と言って、また話を元に戻した。山口の話は今日ある小テストがどうだとか、この前の授業がどうだったとかそんなどうでもいいことばかり。学校へ続く角を曲がったその時、山口は急に黙ってしまう。「なに」と訊いてみると、山口は「じゃ! 先に行くね!」と片手をあげて急に走って行ってしまう。その背中に「はあ?」と言葉をぶつけながら視線を前に向ける。ちょうど山口が「おはよう! じゃあね!」と声をかけている、その背中を見つけた。思わず足を止めかけてしまう僕に向かって、山口がわざわざ大きな声で「ツッキー! また教室でね!」と声をかけてくる。そのせいで少し前を歩く背中が僕の存在を認識してしまった。

「……おはよ」
「お、おはよう、月島くん!」

 は先に行くべきなのか僕を待つべきなのか迷っているようだった。別にどっちでもいいのに、そう思いながら仕方なく少しだけ早歩きして隣に行ってやる。は照れくさそうに笑って「山口くん行っちゃったけど、いいの?」と言いながら前髪を少しだけ触る。の顔から視線を逸らしながら「別にいいでしょ」と返す。高校の正門が見えてくる。がやがやと賑やかな通りをと僕だけが少しぎこちなく静かに歩いている。
 三日前から僕とはクラスメイトという関係から、いわゆる恋人というものに変わった。告白してきたのはの方だった。部活終わりの僕を正門前で待っていたらしいは、部活の人たちと一緒に出てきた僕をさりげなく連れ出し、告白をしてきたのだ。……いや、それが全くさり気なくなかった。僕を連れ出したいのが見え見えのの言動に部活の人たち全員が勘付いて身を引いたのだ。そのせいで僕がに告白されたことはすぐバレたし、付き合うことになったのも隠す必要がなかったから訊かれれば素直に答えた。田中さんや西谷さんから「むかつくけど末永くな……」と妙な激励を受け、王様からは「その女趣味悪いな」と真顔で言われたりした。
 とはもともとクラスメイトの中ではよく話す方だった。最初は山口と仲が良かったのだけど、そこに僕も加わったという感じだ。とは音楽や本の趣味が合ったし、は賢いから僕と山口に勉強を教えてくれるので割とすぐ仲良くなった。他の女子と違ってガツガツしているわけでもうるさいわけでもなく。ふんわりした雰囲気と落ち着いた物言いは一緒にいて居心地が良かった。

「……つ、月島くん、小テストの勉強した?」
「したよ。は?」
「した……けど、ちょっと分からないところが、」
「どこ?」
「32ページの三問目……」
「あー、応用のやつ?、応用苦手だよね」

 正門をくぐる。きらきら光る水たまりを避けながらが分からないらしい問題のことを話す。僕が説明するのをうんうん頷きながら一生懸命訊く姿がなんだか小動物みたいに見えた。下駄箱に靴を入れている途中に説明が終わる。は「ありがとう」と笑いながら上履きをこつこつと履いた。の歩調に合わせて歩いていると、背中を思いっきり誰かに叩かれる。大体誰かは予想がつく。ゆっくり振り返ると、そこには予想通りの二人がにこにこ、というよりはにやにやと笑っていた。「おはようさん! じゃあな〜」と言って颯爽と去っていたのは田中さんと西谷さんだ。一応その背中に「オハヨウゴザイマス」と返しておく。相変わらず騒がしい人たちだ。その背中にため息をついておくと、はくすっと笑った。

「いい先輩だね」
「いやそんなことないでしょ……」

 日頃の先輩へのちょっとした愚痴を話していると教室に到着した。教室に入るとすぐ山口が「おはよう! さっきぶり!」と僕との輪に加わる。今日の小テスト範囲を見直していたらしい山口の教科書を覗き込みながら、「ここ違うよ、山口くん」とが指をさす。僕も覗き込みながらが指差した箇所を見てみると、途中で計算ミスをしているのを見つけた。山口が慌てて解きなおす。できないわけじゃないけど計算ミスが多いのが山口の悪いところだ。
 しばらく今日の小テストの対策をやっていると、山口が気付いたように「日曜日」との顔を見る。は少しだけ顔を赤くして「お、覚えてるよ!」と山口の頭を軽く叩いた。話の内容がよく分からない僕はその様子を、ちょっともやもやして見ているだけしかできない。ノートをめくる僕の隣で山口とはこそこそと小声で言葉を交わして、山口の「頑張ってね」という言葉で内緒話を終えた。何の話をしていたのだろうか。結局分からず仕舞いだけれど、訊くのも格好悪く思えたので黙っておいた。




▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「日曜日、どこか、行きませんか」

 山口との内緒話の内容を悟ったのは、のこの言葉がきっかけだった。部活終わり、図書室で僕を待っていたと合流してすぐに言ったに驚きつつ「いいよ」と冷静を気取って返す。は安心したように笑った「いいの?」と言いながら僕の顔を見上げる。ずいぶん僕より小さいは毎回僕の顔を見るのが大変だと思う。僕もの顔を見るのは少しだけ首が痛い。はきらきらと瞳を輝かせて僕の顔を見ている。本当、変わった子だと思う。変わった子だと、思うけど。

「別に何もないし」

 それを言った瞬間、心底自分のことが嫌いになりそうだった。なにが、「別に」だ。なにが、「何もないし」だ。こんなんだから僕はだめなんだろう。そう心の中でため息をつきまくっていると、が弾んだ声で「楽しみ」と呟く。その声色一つでため息なんてどこかへ消え去っていくのだから、本当に変わった子だ。
 二人とも共通で観たい映画があったから日曜日は映画館へ行くことに決定した。待ち合わせ場所は最寄りのバス停で、10時出発のバスに乗ることになった。二人ででかけるのははじめてだ。僕ももなんだか落ち着かない気持ちのまま帰路につく。とんとん拍子で何もかも決まったのできっとが事前にいろいろ調べてくれていたのだろうと察する。きっと僕が映画は嫌だと言えば別のものを提案してくれたのだろう。山口と内緒話をしていたのは日曜日に僕を誘うことの相談だったに違いない。そんなこと相談しなくたっていいのに。ふつうに、何も計画なく誘ってくれたっていいのに。心の中で思ったそれを口には出せない。

「あ!」

 心の中でもやもやしているとが急に声を上げる。どうしたの、と僕が訊く前には興奮した様子で「ほら、あの水たまり!」と僕の袖をぐいぐい引っ張りながら前を指差した。僕たちがいるところから少し離れた場所にある水たまりが、ちょうど夕日を映してきれいに光っている。オレンジ色に光るそれを見つめるの瞳もオレンジ色に光る。それを見ながら「きれいだね」と言ったら、は「きれいだね!」と笑う。何のことか分かってない。まあ、それでもいいか。の横顔を見たまま少しだけ笑ってしまう。はすぐさま僕の顔を見て、とても嬉しそうな顔をして「きれいだね!」ともう一度言う。違うけど、たしかにきれいだ。「そうだね」、といろんな意味を隠して返しておく。
 山口をはじめとする部活の人、そして。その誰もが知らない秘密を僕は隠し持っている。僕に告白してきたのはたしかにだったけれど、本当の本当は少し違う。山口と仲良くしているところに割って入って行ったのも、教えてもらわずとも自分で調べれば分かる勉強を教えてもらっていたのも。ぜんぶ、僕がを先に好きになったからなのだ。が僕を想っているより遥かに、僕はを想っているに違いない。そんな、どうでもいい秘密。

「つ、月島くん、あの」
「なに」
「そ、そこの角で、えっと、ばいばいだね」
「そうだね」
「……そ、そこの角まで、あの、てっ、手、つないでも、いい……?」

 あんまり自分の感情を表に出すのは得意じゃない。きっといまだって涼しい顔をしているに違いない。真っ赤な顔のを少しだけ見てすぐに目をそらす。「いいよ」、絞り出せたのは声だけで、手は少しも動かない。も僕から目を逸らして、「嫌ならいいんだよ?」と不安そうな声を出す。いいよ、と言った割に行動を起こさないからそう思ってしまったのだろう。こういうときどうするのが正解なんだろう。手を差し伸べるのか、僕から手をつなぐのか。いろいろぐるぐる考えているうちに角が近付いてくる。何か話そうにも何を言えばいいのか。考えれば考えるほど体は動かなくて、喉はからからになっていく。そんな僕の隣で、くすり、と小さな笑い声が聞こえた。

「なに笑ってるの」
「あ、ごめん……月島くんもそういう顔、するんだなあって」

 「かわいいな、って思って」とは笑う。そういう顔ってどういう顔だ。自分の顔に意識を向けたとき、はじめて自分の顔がとても熱くなっていることに気が付いた。から目を逸らして「笑わないでくれる」と呟いたらは「ごめん」と言ったっきり笑うのをやめた。「さっきのは忘れてください」。そう言っては少しだけ俯いてしまう。
 そんなの手をきゅっと握る。は目を丸くして僕を見上げた。僕の顔と僕の手を交互に見ながら「無理しなくていいよ」と不安そうに呟く。相変わらず瞳はオレンジに光っていて、きれいだ。そろそろ顔の熱さが引いてきた。格好悪い、心の中でそう呟きながらの小さな手を握り直す。

「僕がつなぎたかったからつないだんだけど」

 「だめでしたか」、そう言うときには引いたはずの熱さがまたぶり返す。別に何か理由がなくったっていいのに。何もかもにそう思う。遠慮もルールも制限も。早くの中からなくなってしまえばいい。日曜日はもう少し僕からも何か行動してみようか。そうすればのこの遠慮がちな態度も何か変わるかもしれない。遠慮がちに握り返された手。それをもう一度握り返しながらそんなことを考えた。


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