子どものころ、女の子は誰だって王子様が迎えに来てくれると思っていたんじゃないかなあ。ぼんやりそんなことを考えながらひりひり痛むほっぺをさする。
 現実はひどい。
 王子様だと思っていた人は王子様なんかじゃない浮気男だし、彼女でもないのに彼女面してる悪女は暴力的だし。わたしの目は節穴か。あんなにも大好きだった人がまさかここまでの屑だとは。怒りや悲しみをとおり越して今はもう無だ。この世ではもう二度と味わえないであろう修羅場の苦味を胃袋いっぱいにいただいてしまった。今にも戻しそうになるそれをぐっぐっぐっと堪えてため息だけを出す。どす黒い。ため息が死んでいる。
 石ころを蹴飛ばしてけんけんぱ。けんけんぱ、けんけんぱっぱっ。子どもみたい。まあ世間からすればまだ子どもなんだけど。もっと小さいころの自分を知っている自分としてはもう子どもではないのだ。でも、やっぱり子どもなんだ。

「何してるの、子どもじゃあるまいし」

 静かな声。夜を呼ぶように密やかなそれが耳に鋭く刺さる。わたしが蹴飛ばした石ころがころころ、ころころ、とやけに長い脚にこつんとぶつかっていた。どうやら石ころがぶつかってきやがったことが不満らしい。密やかな彼は石ころを睨みつけたかと思いきや、長い脚を持ち上げ、振り子のようにぶんっと振って石ころをサヨナラホームラン。大人げない。子どもの楽しみを奪うなんて。

「クソ男と別れたんだってね」

 失礼な。クソ男じゃない。あれは屑男だ。

「あ、違うか。フラれたんだってね」

 そうだよ、ばーか。もっと正確にいうなら悪女に屑男を寝取られた間抜けなやつだよコンチクショウ。べっつに気にしてないけどね。悪と屑がくっついて世界征服でも企んでんじゃないの。あのまま屑とくっついてたら世界征服を目論んだ破壊者として全人類から目の敵にされてたかも。屑と別れたことによって世界を守る勇者になれる可能性があるだけマシだコンチクショウ。

「おまえも物好きだよね」

 こつこつと足音が近付いてくる。よくそんな長い脚上手に動かせるね君、えらいね、すごいね。わたしだったら絡まってすっ転ぶわ。すごいすごい。すごいからもうあんまり近寄らないで。背の高い男って怖くない? ものすごく高い位置からこっち見てくるの。怖くない? つむじを他人に見られるとか怖くない?
 どうでもいいことを考えてしまうのはわたしの悪い癖なので許してほしい。わたしがどうでもいいことを考えていたうちに目の前に立ちはだかっていた密やかな彼は、とてもとても、機嫌が悪そうだ。今日は引きが悪い。見知らぬ女にひっ叩かれるし屑男に罵られるし機嫌の悪い巨人に出会うし。今日死ぬんじゃないかわたし。

「物好きというよりはばかか」

 ものすごく機嫌悪いじゃん、月島。
 そう、この密やかな声をしている男は月島という名前をしている。とても美しい名前をしたとんでもなく恐ろしいやつである。月島は同じクラスの友人、というか中学からの同級生で割とよくしゃべる。性格はものすごく悪い。そのくせなんだかんだ言いつつも世話を焼いてくれたり助けてくれたりするとても有難いお助けキャラだ。RPGでよく出てくる口の悪いサポートキャラ的なポジションだと勝手に思っている。
 まあ、要するにいいやつなのである。

「なんで泣いてるの」

 デリカシーがない。そういうのふつう触れない。なんでって分かってるくせに訊いてくるところが非常にむかつく。

「いや、意味分かんないよ、ほんとう」

 ぐいっとわたしの鞄を奪い取って、月島は背中を向けた。ひったくり。鞄返せ。ぐしぐし涙を拭きながら月島によってひったくられた鞄に手を伸ばす。脚が長いやつは腕も長い。ひょいっと月島の頭上高くに持ち上げられた鞄に手が届くわけがない。心をえぐり鞄をひったくる。世紀の大悪党だ。やつはとんでもないものを盗んでいきました、わたしの鞄です。

「泣く意味が分からない」

 これ以上心をえぐろうというのか、君は。とんだサディストだね。
 歩き始めた月島に仕方なくついていく。だって鞄持ってるんだもん、こいつ。方向が違うくせにわたしの家の方に歩いていくんだもん、こいつ。山口くんどうした、山口くんは。君の唯一無二の大親友はどうしたんだ。ぼっちか、ぼっちなのか。ついにぼっちになっちゃったのか月島。

「笑うことはあっても泣くことはないでしょ」

 あんなクソ男。
 月島の密やかな声がナイフのように光った。ぎらりと何もかもを貫きそうなほどに鋭い声は、わたしにだけはとてもとても温かい布団みたいに心地が良い。でも、心地が良くても、なんでだろう。心がえぐられることに変わりはないのだ。
 そう。泣くことはない。だって浮気した上に悪女の前でわたしを罵り倒すような屑だったんだよ。ひっ叩かれたわたしを見て鼻で笑うような屑だったんだよ。泣くとかばかじゃん。別れられて清々したわこのボケが! こっちからフってやりたかったわこのボケが!

「なんで泣いてるの、ほんとう、ばかじゃないの」

 ばかだけど好きだったんだよ、ほんとうにばかだけど。こんなにもこんなにもむかついて仕方なくても、殺してやりたいとさえ思っても。しばらくすると楽しかったこととか嬉しかったこととか、家においてあるあの屑がくれたプレゼントとか、そういうの、思い出しちゃうんだよばかなんだけど。
 たぶんここで「あいつ殺してやろうか」とか言われたら絶対「おねがいします」って言っちゃう。でも、いざそのときが来たら「ごめんやっぱなしで」ってなるんだ。だって、ほんとうに、ばかだから。ばかだけど後悔するっていうことだけは分かってる、救いようのないばかだから。

「笑いなよ」

 好きになったのが月島だったらよかったのかなあ。でも月島、わたしの中ではサポートキャラ的ポジションでルート選択できない仕様だったんだもん。王子様って柄でもない。サポートキャラ、というか、なんていうの。手が届かないキャラだと思ってたから、なんていうか、選択肢にすらいなかったというか。そんなルートもあるんだと気付かず自然に遠ざけていたというか。

「あんなクソ男、別れて正解だって笑いなよ」

 だから何度も言わせないで。クソ男じゃない、屑男だから。

「見てて腹立つのはこっちなんだけど」

 そこ左に曲がらないと家に帰れないよ、月島。道間違えてるじゃん。そう思いつつも黙って後ろを歩く。月島は何の迷いもなく静かに歩みを進め続けてはぼそぼそと文句を言い続けている。
 わたしは思うのだ。わたしは人生でこれ以上はないというほどの屑を好きになってしまった。屑のように捨てられ屑のように散り屑のように泣く。屑だ。何もかもが屑。でも、もう屑になったのだから仕方がない。屑を恨んで屑を殺したところで屑は屑。この地球を漂うただの屑に変わりはない。あいつもあの女もわたしも。屑から塵になる努力を辞めると屑はもう目も当てられない何かになる。いや、屑の上は塵なのか? 分からないけどそういうことにしておく。粒子の大きさでいえば塵の方がまだ人間に近そうだし。いや、どうなんだろう。まあどうでもいいや。とにかくわたしは、あの屑をクソとは思わず地球を漂っているただの屑だと思い込んだ方がいいのだ。何を言っているのか理解できないことだと思う。わたしも理解できていないから当然のことだ。屑は屑。それさえ伝わっていればわたしとしては儲けものだ。
 あの屑どもに成り下がってはいけない。見返してやるのだ。いくら裏切られたからと殺してしまっては勿体ない。この屈辱を、この悲しみを糧に、生きてゆくのだ。

「ねえ、くだらないこと考えてない?」

 月島が振り返る。呆れた顔をしている。いつの間にか止まっていた涙は乾いて、口元が緩んでいた。すっきりした。そういうことなのだろう。

「気持ち悪いんだけど」

 笑えって言ったの、月島じゃん!
 笑ってやるのだ。いつの日か。うんと幸せになってうんと満ち満ちて。あの屑も悪女も、そしてどこかにいたかもしれない屑に殺意を抱いたわたしでさえも。いつの日か、笑ってやるのだ。

「まあ、はそっちの顔の方がいいけどね」

 あ、月だ。ふんわり明るい月を月島の頭上に見つける。月島という名前だけあって、彼はとても月に似ていると思うことがある。ふんわり、ぼんやり、かすかに。決して目立たないけれどたしかにそこに在って、たしかに光っている。ひっそりと、密やかに。幻想的な月島という存在にほんの少し心を救われた気持ちになって、もうなんだかどうでもよくなっていた。
 鞄を突き出される。それを受け取ると、月島はメガネをかけ直した。人を小ばかにしたような顔。さっきまでのしょぼくれた呆れ顔とは違う。わたしも月島はそっちの顔の方がいいと思う。

「寄り道して帰ってやってもいいけど」

 あ、ちょっとだけ。
 くるりと前を向き直した月島は、わたしの返事を聞かないままにまた歩き始める。その背中がとても密やかに、ぼんやりと、わたしを呼んでいた。


そしてエルミオーヌを