※2018年以前に書いたものです。
※未来捏造。




 開口一番、菅原は「あ、今日は喧嘩だろ」と苦笑いしつつ本日の議題を見事に言い当てた。 それに返事はせず、脱いだコートをハンガーにかける。 菅原はその間も苦笑いしたままだ。 情けなさと議題への腹立たしさをぐちゃぐちゃ頭で混ぜ込みつつ、静かに席に着いた。 会社帰りのサラリーマンやOLで賑わう店内で、私と菅原の席だけが妙な静けさを保っている。 菅原はメニューを見つつ「とりあえず飲んどく?」とわざとらしく陽気に言ってくれた。

「……毎回毎回すみませんね菅原サン」
「いいって、もう慣れたわ〜」
「というかなんで分かるの? 仕事の愚痴のときもあるのに」
「え、分からない方がおかしくない?」

 苦笑いが止んだ。 代わりにいつもどおりけらけら笑う菅原を見て、少しほっとしている自分がいる。 ずっと強張っていた心臓が解放されて正常に動いている。 そんな気がしてならない。
 店員さんを呼んで菅原がいくつか注文している間、私はぼけっと水を飲む。 こうして菅原と仕事終わりに居酒屋で飲むのはよくあることだ。 学生時代から妙にとっつきやすく、なんでも話せる雰囲気のある菅原によく悩みを相談している。 逆に菅原の愚痴を聞くことも多く、二週間に一度のペースでこの飲み会兼報告会は社会人になった当初からずっと続いている恒例のものだ。

「私ってそんなに分かりやすい?」
「え? 何が?」
「いや、だから……喧嘩したとかそういうの」
「んー、分かりやすいっちゃあ分かりやすいかも?」
「どのあたりが?」
「だって、喧嘩すると指輪しないじゃん?」

 菅原は「え、もしかして気付いてなかった?」と目を丸くした。 気付いてなかった。 コップを持っている右手をちらりと見ると、そういえば指輪を付けていない。 恐らく家に置きっぱなしになっているだろう。 私が静かに驚いていると菅原は大笑いして「わざとかと思ってた」とお腹を抱えた。 それに恥ずかしくなりつつ「うるさい」と呟くと、菅原は余計に大笑いし始めた。
 菅原が頼んでくれたビールと一品料理がいくつか届くと、二人でテンション低めの乾杯をする。 ビールを一口飲んでから自然とため息が一つこぼれる。 その様子を菅原が小さく笑って「原因は?」と聞く体勢に入ったらしい。

「……たぶん私が悪い」
「もしかして結構深刻? 今までのDVD延滞事件とかトイレットペーパー事件とかそういうノリじゃないの?」
「人の喧嘩に名前付けないでください菅原サン」

 私と菅原は高校時代、男子バレー部の選手とマネージャーという関係性だった。 バレー部は部員同士みんな仲が良くて、今でも連絡を取り合っている人が多い。 私も菅原はもちろん同輩の潔子ちゃんや澤村、東峰だけじゃなく、当時の後輩にもたまに連絡を取っている。 その中で一人、突出して連絡を取っている後輩がいる。 それが本日の議題の主役、影山飛雄である。 影山は私と菅原が三年生のとき、新入部員としてバレー部に入部してきた。 二個下の後輩というわけだ。 当時はバレーのセンスはピカイチだが、勉強がてんでだめだったり人付き合いが下手だったりとなかなかの問題児だった。 同じポジションの菅原も手を焼いていたっけか。 私はマネージャーだったのでそこまで手を焼いた覚えはないけど、今思えばなんとなく懐かれていたような気はする。
 影山は大学在学中、全日本のメンバーに選ばれたのち再び私の前に現れた。 それまで影山とはほとんど連絡を取っていなかった。 連絡先は交換していたので知ってはいたけど、影山とだけはたぶん一度も連絡を取ったことがなかった気がする。 今でもそのときに送られてきたメールに保護をかけているほど私にとっては物珍しいものだった。 その連絡がきっかけとなって二人でご飯に行くことになり、気付けばお付き合いをはじめ、気付けば五年が経っていた。 あとから影山にどうしてあのとき突然連絡を取ったのかを聞いたら、恥ずかしそうに「いや、高校のときから好きだったんで」と打ち明けられたことを昨日のことのように覚えている。

「何したの?」
「…………端的に言うと」
「おう」
「別れようとした」
「ハア?!」

 顎が外れそうなくらい口を開けてそのまま菅原は固まった。 それはそうだろう。 今まで影山と喧嘩したことを菅原に愚痴ってはきたけど、別れようとしたのはこれがはじめてなのだから。 菅原は固まったまま私が続きを話すのを待っているらしかった。
 影山は高校生のときからすごかった。 バレーが上手いとかそういう次元じゃなかった。 「あ、この子絶対将来オリンピックとか出るんだな」という感じだった。 たぶん私だけじゃなく、菅原はもちろんチームメイトみんながそう思っていたに違いない。 みんなが感じたそのとおりに影山はバレーボール選手として着々と世界へ羽ばたきつつある。 全日本代表メンバー入りを果たし、大学卒業後はプロバレーボール選手となった。 今も海外合宿で日本にはいない。 整った顔立ちとクールに見える性格から女性ファンがたくさんいるらしいので、練習がない期間もテレビや雑誌に出たりして結構忙しくしている。 付き合って二年目のときに影山から「いっしょに住んでください」と言われたので三年前から同棲しているけど、家にはほとんどいないと言ってもいい。 正直、想像以上の大躍進だと思う。

「別れようって言ったらキレられたから私もキレて家を飛び出してそのまま今に至る」
「いや、説明になってないから、それ。 え、なんで? なんで別れようとしてんの?」

 今月、影山の顔を見たのは何回だっただろうか。 そうふと考えることがある。 数えると割と多かったりするんだけど、よくよく思い出すとそれはテレビの中の影山だったり写真の影山だったりする。 ちゃんと会ったのは二回だけ、なんてことが多い。 影山はあまり連絡がマメな方じゃないし、そもそも合宿中や試合期間中はバレーのことで頭がいっぱいになるタイプだ。 もちろんそれで食べているわけなのだから当たり前だし、何より影山の人生なのだからやりたいことややり遂げたいことを第一に考えてほしいとは思う。 けど、まあ、さすがに、一ヶ月も音信不通になると、こちらも不安になるわけで。

「え、一ヶ月も連絡すらないの?」
「ない。 さすがに腹立ってたから電話しまくって別れようって言っちゃったんだよね」
「……影山が家にいないなら家を飛び出す必要はないんじゃない?」
「明日帰ってくるんだよね」
「あー……またすごいタイミングだな……」

 朝に七回電話をかけてようやく出た影山は、まず「どうしたんすか」からはじまった。 どうしたんすかもクソもない。 一ヶ月も連絡がなかったけどどうしたのかと聞くと、けろっとした声色で「いや、練習してたんで」と言われた。 それにブチッと私の中の何かが切れたのだ。 何かは切れたけどあくまで冷静を保つ努力をして、「別れよう」と言った。 そうしたら影山は「は? なんでっスか?」とものすごく微量のイラつきを含んだ声で返してきた。 それにもブチッときてしまい、その時点で私は自分の荷物をまとめはじめていた。 影山にもう一度「別れよう」と言ったら「いや、意味わかんねースけど」とキレ気味の声で言われたものだから、「そのまんまの意味!」とブチギレてそのまま電話を切った。
 その後影山から二回電話がかかってきたけど出なかった。 二回目の電話がかかってきて以降、今まで影山からの連絡は一切ない。

「荷物まとめたって……その荷物どこに置いてんの?」
「ホテル泊ってるからそこにある」
「てか仕事は?」
「とりあえず職場に荷物全部持ってってからのホテル」
「本気のやつじゃん……」

 今までもちょこちょこ喧嘩はしたけど、さっき菅原が言ったみたいな小さいものばかりだった。 DVD延滞事件というのは影山がオフ中に借りたDVDを返さず放置をしていて、借りていることすら知らなかった私が結構な額の延滞金を払いにレンタルショップへ行ったときの喧嘩のこと。 トイレットペーパー事件は私が買いだめしておいたトイレットペーパーをしまう場所を変えたあと、仕事中に影山から電話がかかってきたときの喧嘩のこと。 そんなくだらない喧嘩は数多くあるけど、今回みたいな別れる別れないの喧嘩ははじめてで。 喧嘩というか私が一人で勝手に怒って家を飛び出てきただけかもしれないけど。

「というかも影山も相変わらずだな〜」
「何が?」
「なんていうか、言葉足らず?」

 DVD延滞事件のときは私が影山に「延滞する前にちゃんと言ってよ」と言ったら「勝手に行かないでください」と言われて私が怒った。 仲直りしたときに影山から「延滞してたの分かってたんで、自分で払おうと思ってたのにさんが行ったって言うから、びっくりして」と言っていたっけか。 トイレットペーパー事件は元々の場所が影山が取りづらいかなり低い位置にあったので取りやすい位置に変えたのだけど、私が場所を変えた理由を言わないまま仕事でイライラしていたこともあって「見れば分かるでしょ」と言ってしまったことで影山が怒ったのだ。 菅原はどちらのときも言っていた。 「お前らって本当、言葉足らずだな」と。 「言わなきゃ分かんねーべ?」と菅原は笑って言いつつ、からあげを口に運んだ。

「寂しいなら寂しいって言えよ〜」
「……いや、恥ずかしすぎるでしょ」
「なんで?」
「な、なんで、って……」
「言われたら嬉しいもんだけどなあ、男としては」
「……影山の場合、絶対面倒くさいって思うじゃん?」
「ないない、絶対ないって」

 箸を振るな。 菅原はおかしそうに笑いながら「本当に影山と付き合ってんだな〜」と言った。 何度も何度もそう繰り返すのでちょっと鬱陶しくなる。 付き合ってんだな、っていうか、いま別れようとしてるんですけど。 私のそんな気持ちが顔に出ていたらしく、菅原は「失礼」とおどけて言いつつ咳払いをした。

「いや、俺にとってはなんか感慨深いんだよなあ」
「何が?」
と影山が付き合ってんのが」
「……なんで?」
「だって影山、高校のときにのこと俺になんでも聞いてくるんだもん、おかしかったわ」

 菅原の発言に箸を落としかける。 え、なにそれ? 初耳なんですけど? 菅原はおかしそうに「最初はなんだろうって不思議だったんだけどさ〜」と頬杖をつく。 私の家はどっち方面なのか、とか、私がマネージャーになったのはなんでなのか、とか、私はクラスでどんな感じなのか、とか。 そんなことを影山は菅原に聞いていたらしい。 最初こそ特に疑問を持たずに答えていたらしいのだけど、その頻度の多さに菅原はだんだん気が付いたのだという。

「卒業式のときに影山に聞いたんだよ。 に告白しないのって」
「……なんて言ってたの?」
「影山、三秒固まってから顔真っ赤にしてさ、断られたくないんで、って言ってたわ」
「……かわいいじゃん」
「だべ?」

 そんな菅原からすれば、たしかに私と影山が付き合い始めたときは感慨深かっただろう。 頬杖をついていた腕を元の位置に戻しつつ「影山がんばったんだなあ、ってなんか嬉しかったわ」と視線を外して言った。
 そんなこと、言われても。 心の中で言い返す。 そのときは影山は私のことを好きでいてくれたのかもしれないけど、今はどうかなんて分からないじゃないか。 好きだったら一ヶ月も連絡を取らないなんてことしないんじゃないの。 考えてたらまた腹が立ってきた。
 菅原はそんな様子の私に気が付いたらしく、苦笑いしつつ「あー」と私の顔を覗き込んだ。

の気持ちも分かるんだけどさ、とにかくちゃんと話してみなって。 は明らかに言葉足らずだし、影山だってたぶんそうだと思うからさ」



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 そんなことを言われても。 ホテルの備え付け枕を抱えながらベッドに寝ころぶ。 菅原に言われたことを何度か頭で繰り返したのち、やっぱりむかむかとした気持ちが湧き上がってくる。 きっと菅原の言うことは正しいのだろう。 いま思い出しても私は影山に「連絡が少ない」とか「連絡がほしかった」とかそんなことすら伝えていない。 「連絡がなかったけどどうしたの?」と聞いただけだし、そのあと唐突に「別れよう」と言っただけだ。 明らかに言葉が足りないのは分かっている。 でも、でもさあ!
 イライラしてきた自分を冷静にするために一旦影山のことは忘れることにする。 ごろんと寝返りを打って一つため息。 明日は土曜日だ。 チェックアウトは日曜日のお昼にしてあるし、明日はぱーっと買い物でもしてしまおう。 そうすればきっと気分も晴れる。 久しぶりに潔子ちゃんに誘いの連絡でも入れてみようか、とスマホを手に取る。 ロックを解除して潔子ちゃんへメッセージを入れようとしたところで、突然画面が切り替わった。 着信画面だ。 表示されているのは「影山飛雄」。 私が別れを切り出してから三度目の連絡だった。 せっかく忘れかけていたのに。 むかむかとしたけれど、菅原に言われた言葉が心を少しだけ絆す。 仕方ない、これが最後だ。 そう思って電話に出てやる。 スマホを耳に当てて「なに」と言おうとした私より先に「どこいるんスか」となぜか息の切れた声が聞こえてきた。

「どこでもいいじゃん」
『なんで荷物ないんスか。 どこいるんスか。 迎え行きます』
「…………いまどこいるの?」
『それ俺が聞いてます』
「影山はどこにいるのって聞いてるの」
『家ですけど』

 は? 思わず時計とカレンダーを見てしまう。 帰って来るの土曜日の朝って言ってたよね? 頭の中で影山との会話を思い出す。 たしかに土曜日の朝だと言っていたはずだ。 一ヶ月も前の記憶だから曖昧かもしれないけど、私が影山の帰国の日を忘れるわけがない。 何度見直してもカレンダーは金曜日だし、どこからどう見ても夜だ。 どういうこと? 混乱していると電話の向こうで影山が「どこいるんスか」とまた聞いてきた。 たたみかけるように「家入ったら荷物何もないし、それなのに指輪だけ置いてあるし、近くの公園にもコンビニもファミレスにもいないし、どこにもいないし」と続ける。 ぜえぜえと苦しそうな息遣いをぐっと堪えて、影山はゆっくりとまた居場所を聞いてきた。

「……教えない」
『なんでですか』
「なんでも」
『なんでも、だけじゃ俺バカなんで分からないんスけど』
「なんで分かんないの」
『……すみません』

 私、いま最高に面倒くさい女だろうなあ。 枕を抱えてベッドに横になったまま、ぽろぽろと涙があふれてしまった。 喧嘩なんかしたくないし、面倒くさいことなんか言いたくないよ、当たり前だけど。 一ヶ月ぶりに声を聞けたのになんで面倒くさいことしか言えないのだろう。 こんなにも寂しかったのは私だけなんだろうか、とかそんな面倒なことしか考えられない自分がむかつく。
 菅原が居酒屋で影山が高校時代から私を気にしていた、というエピソードを話したのにはちゃんと理由があるのだろう。 たぶん「影山はこんなにものことが好きなんだから」とかそういう意味を含んでいたに違いない。 だからちゃんと話を聞いてあげな、ということだろう。 でも、私は菅原に言いたい。 たしかに先に好きになったのは影山だ。 高校時代の私は影山のことはただの後輩だとしか思っていなかったし、付き合うなんてまるで考えたこともなかった。 でも、付き合い始めていっしょの時間をすごして、いっしょに暮らし始めて、一番近くで影山を応援しているうちに、私だって影山のことが好きになったのだ。 絶対いまは私の好きという気持ちの方が影山より大きいと胸を張って言えるくらい。 だから影山は私のことを好きなんだから、と言われても、私だって影山が好きなんだもん、と反論してしまう。 こんなにも影山のことが好きな私の味方をしてくれないなんて、不平等だ。
 そんな意味の分からない屁理屈を頭の中で並べると情けなくなってきた。 その間も影山は相変わらず電話の向こうでどこにいるのかを聞き続けている。

『連絡しなかったこと、怒ってるんですか』
「……そうだよ。 今更すぎない?」
『でも連絡すると』
「なに」
『こう…………さ、さみしくなる、というか………』
「……は?」
『や、だって、声聞いたら会いたくなるじゃないスか』

 だから連絡しませんでした、と影山は恥ずかしそうに言った。 しょぼしょぼと小さくて自信なさげな声だったけど、たしかに聞こえた。 私が無反応でいると影山は自信なさげな声のまま「会いたくても会えないし」と続ける。 さっきよりも少しだけ拗ねたような声にも聞こえた。 影山は恥ずかしさのあまりか不自然に咳払いをする。 それが耳元で聞こえてうるさかったけど、そんなことは今はどうでもよかった。

『連絡しなかったのはすみませんでした。 でも、俺、さんのこと好きなんで、なんつーか、その、』
「影山」
『あ、ハイ』
「駅前のビジネスホテル分かる?」
『どっちですか』
「南」
『分かります』
「503」
『すぐ行きます』

 ガチャ、と電話が切れた。 ツーツー、という音だけが聞こえるスマホを耳に当てたままごろん、とまた寝返りを打つ。 枕はその辺に捨てた。 放り投げだした行き場のない腕が鉛のように重たい。
 何やってんだか。 情けない気持ちを振り払うように息をつくけど、より濃くしただけになってしまう。 言葉足らず、か。 菅原の顔を思い出したらとてつもなく恥ずかしくなった。 相変わらずイライラする気持ちはあったけど、不思議と嫌な気持ちはなくなっている。 早く来い、とさえ思っている。 単純、単細胞。 そういえば影山も高校時代、単細胞だのなんだのって言われてたっけ。 いっしょにいると性格まで似てくるものなのだろうか。 おめでたい頭を喜ぶべきなのか恥じるべきなのか、正直微妙なところだけど、まあ、今だけは良しとする。
 ベッドから体を起こして、ぱしっと頬を軽く両手で叩く。 ぼさぼさの髪を手櫛で直しながら立ち上がって洗面台に向かう。 仕事帰り、しかも居酒屋に行ったあとだから化粧が少し崩れてしまっている。 鏡の中に映る疲れ切った、というかなんとも薄暗い顔をしている自分に苦笑い。 ひどい顔。 いつの間にか、私の中の大半を占めるようになっていたんだなあ。 ただの後輩だと思っていたのに、なんとも不思議な話だ。
 化粧を直そうかとも思ったのだけど、今更きれいに化粧を直したところでどうにもならない気がして、いっそ落としてしまうことにした。 化粧落としシートで丁寧に化粧を落としていく。 仕事にいくための化粧だからすぐに化粧は落とせた。 すっぴんになった自分の顔を見て、なぜだか、ぼろぼろと涙が頬を伝う。 寂しい。 そのたった一言が言えない私にだって、ちゃんと考えがあってのことなのに、どうしてこうも上手くいかないのだろうか。 人間はどうして我慢し続けるといつかパンクしてしまうのだろう。 ずっと我慢できればいいのに。 そうすればこんなばかみたいなことに影山を巻き込まずに済んだのになあ。
 影山と付き合ううち、私は影山がバレーをしているところが好きなのだと知った。 高校時代には思ったこともなかったのに、付き合ってすぐにバレーをする影山を応援することが一番楽しくなっていた。 不器用なくせにバレーのためなら苦手なことにも果敢にチャレンジして、クソみたいな記事を書かれても知らん顔してバレーばっかりやってて。 影山飛雄というバレーボール選手のファンになっている自分がいた。 もちろん影山飛雄という一人の男の人としても好きなんだけど、何よりもバレーボール選手としての影山飛雄を応援したいと思った。 いっしょに住んでいなかったころ、影山が遠征で家を空けることになると定期的に掃除しに行ったり。 いっしょに住み始めたらバランスのいい食事を三食作るために料理教室に通ったり料理の勉強をしたり。 試合も行ける範囲で応援しに行ったりした。 そんなふうに自分で言うのもなんだけど、結構健気に支えてきたと、思う。
 影山は試合に練習、遠征やらメディア出演やらで毎日忙しい。 家にいないことが多いのは付き合い始めてからずっと変わらない。 それは分かっていたつもりだったし、バレー選手としての影山を応援している身として理解しているつもりだった。 でも、やっぱり。 どんなに応援しているバレー選手だったとしても、どんなに応援するのが楽しかったとしても。 好きな人にずっと会えないというのは想像以上に寂しかった。 影山のために考えたレシピも、影山がいなければ私にとって何の意味もない。 二人で生活するために引っ越した家だって、影山がいなければただ広いだけの部屋でしかない。 毎日生活する中で日に日に寂しさが自分の中に溜まっていくのがよく分かった。 それが情けなくて、どうしようもなくつらかった。
 影山が遠征中、何度か自分から連絡を取ろうとしたことがある。 静かなリビングにある、影山と二人で選んで買ったソファに座って。 でもかけられなかった。 寂しいなんて言っても、すぐに会えるわけじゃない。 わがままだと自分が一番よく分かっていたからだ。 そういうことを伝えることが一番邪魔をすると分かっていたからだ。 だからずっと我慢してきたのに。 どうしてこうなるかなあ。 影山はきっと監督やチームメイトに無理を言って先に帰国したに違いない。 嘘をつくのが苦手な人だからたぶん嘘をつかずに。 チーム内での影山の立場まで、私のせいで悪くなってしまったらどうしよう。 一番応援しているはずなのに一番邪魔をしている。 そう思えば思うほど、どんどん気持ちが沈んでいった。


 ドアをノックする音が静かな部屋に響いた。 鏡から視線を外して、ドアのほうに顔を向ける。 影山だ。 ノックの仕方でなんとなく分かる。 ふらふらと迷いの残る足取りでドアに向かい、ドアスコープから外の様子を窺う。 やっぱり影山だった。 見慣れた自前の黒いジャージを着て、冬だというのに少しだけ額に汗をかいている。 ここまで走ってきたんじゃないだろうな。 一応有名人なんだから変装くらいしなよっていつも言っているのに聞きやしない。 私といるところを撮られたりしたらどうするの、って言ったらけろっとした顔で「彼女だって言いますけど」なんてばかなことを言う人だ。 私がしっかりしなければ。
 私が迷っている間にまたドアをノックされる。 たぶん私がドアの前にいることは分かっているのだろう。 ぼそりと名前を呼ばれた。 それに誘われたわけじゃないけど、一つ息を吐いてからゆっくり鍵を開ける。 ドアノブを握ってドアを少しだけ開けると、なんだか叱られた子どものような顔をした影山がいた。

「…………どうぞ」
「お邪魔します」

 影山に背を向けて部屋の中へ進んで行く。 背後でガチャ、と鍵が閉まる音がしたあとにチェーンをかけたらしい音も聞こえた。 あの汗の感じだと家からとまでは言わないけどそれなりの距離を全力で走ってきたようだ。 そんな相手に対して飲み物の一つも出してやらないほど気が利かない女ではない。 たぶん冷たいものがいいと言うだろう、と勝手に推測してホテル側が事前に用意しておいてくれる水を小さめの冷蔵庫から取り出す。 私も飲みたかったので冷蔵庫の上に置いてあるコップに水を注ぐ。 ちょうど半分くらいまで注いだところで、突然、背後から覆いかぶさるように、強い力で抱きしめられた。 その反動でペットボトルの口がコップから逸れてしまい、少しだけ床にこぼれてしまう。

「ちょ、危ないんだけど」
「……嫌です」
「なにが?」
「別れんの、俺、嫌です」

 いつも影山は私のことをなんだか遠慮がちに抱きしめていた。 恐る恐る、恐々と、おっかなびっくり。 本当にそういう言葉が即するように優しい力だった。 けれど、今は違う。 逃げようにも逃げられないし、体を少しでも動かそうとすると余計に力を強められる。 私よりもずいぶん背が高い上に日頃から鍛えている成人男性の力だ。 抵抗しても無駄なことは明白なので抵抗はしないけどとにかく苦しい。 それくらい、今までにないような強い力だった。 離すまいとしているようなその腕の力に戸惑いつつ、なんとかペットボトルの蓋を閉める。

「影山、痛い」
「……別れないって言ってください」
「ええ?」
「言ったら離します」

 ぎゅう、と力が強まるといよいよ本当に苦しい。 かといって言うことにそのまま従うのもなんだか癪で少し黙ってしまう。 影山は私の首元に顔を埋めて動かないままだ。 さらさらとした影山の髪が首元にちくちく当たるのが少しくすぐったい。 持っていたペットボトルを冷蔵庫の上に置いて、しばらく固まる。
 自分がどうしたいのかが分からなくなってしまった。 イライラはいつの間にかどこかへ行ってしまったけど、今自分が影山に何を求めているのか、どうしてほしいのかが分からない。 あんなに怒っていた気持ちは凪いでしまったし、どうして自分が家を飛び出したのかも一瞬忘れてしまったほどだ。 それくらい今の状況に困惑しているということなのかもしれない。 自惚れかもしれないけど、影山が私のために予定より早く帰国してくれたことや、私を探していろんなところを走り回ったらしいこと、こんなふうにすがりついてくること。 全部夢にも思わなかった出来事で、どうすればいいのか分からない。 いま黙っているのは本当に、ただただ影山の言うことを聞くのが癪で意地を張っているだけなのだ。

「今度からちゃんと連絡します」
「……本当?」
「約束します」
「……今までしてなかったのにできるの?」
「…………たぶん大丈夫っス」

 なんだそれ。 ちょっと笑ってしまった。 いつもと違う影山に困惑してたけど、なんだ、いつもどおりの影山じゃん。 そう思ったら急に緊張の糸がほぐれた気がした。

「あの、さん」
「なに?」
「今回のこれってそういうことでいいんですよね?」
「……どういうこと?」
「その……さみしかった、っていうこと、というか」

 自信なさげな声だった。 だけど相変わらず腕の力は強いままだ。 しばらく沈黙が続くと、影山が顔を上げた。 その横顔が少しだけ視界に入る。 表情はよく分からないけど、じっと私の横顔を見ている。 言葉を待っているのだろうか。 急かしてくる様子はなかったけれどひたすらに待とうとしているようだった。 そんな風に待たれてしまうと意地を張っている自分が子どものように思えてしまう。 まあ、実際わがままを言って影山を困らせているのだから、子どもなのだけど。 影山より二つだけとはいえ年上なのに情けない限りだ。 でも、私だって今までたくさん我慢してきたものを、そうやすやすと口にはできない。 それには相応の勇気がいることは分かってほしい。 言ってはいけないと自分に言い聞かせて数年を過ごしてきたのだ。 もうそんなに簡単には口に出せなくなっている。
 影山が急に私の右手を持ち上げる。 少し驚いてびくっと肩が震えたけどそんなことはお構いなしだ。 ごそごそと自分のポケットから何かを取り出すと、後ろから抱きしめるようにしたまま私の右手をそっと握った。 そして、その指に冷たい何かが触れる。 影山はすぐに私の右手から手を離すと、また先ほどと同じようにぎゅうっと強い力で抱きしめ直した。 右手の薬指。 いつも付けているのに付け忘れた指輪が、最初からいたようにはまっていた。
 言葉足らず。 急に菅原の言葉をまた思い出した。 そういえば私、意識的に我慢し始める前から、影山に自分の気持ちなんて言ったことがなかったっけ。 寂しいとか、つらいとか、会いたいとか。 一度も言ったことがない。 それと同時に、今日の電話まで、影山から言われたこともなかった。 そう思い出した途端妙に泣けてきた。 影山に寂しいという言葉を言われたとき、私は嬉しかったのだ。 そんな風に、私と同じように思ってくれていることが、嬉しかった。 影山だって我慢していたのだ。 私と同じように。 自惚れかもしれないけど、そう思ったらぼろぼろと涙が止まらなかった。

「さみしかった」
「……すみません」
「会いたかった」
「俺もです」
「別れない」

 泣きながら言う私をまたぎゅうっと抱きしめ直す。 そのあとにゆっくり腕をほどいた。 私の肩をつかんで体の向きを変えさせ、じっと私の瞳を見る。 そっと唇を重ね、離れてから大きく息をついた。 それと同時に今度は正面から私を抱きしめて、ぼそりと「よかった」と呟いた。

「面倒くさい女でごめんね」
「面倒くさくないです」
「スケジュールめちゃくちゃにしてごめんね」
「なんとかしてきたんで大丈夫です」
「ごめんね」

 影山は抱きしめたまま私の頭を撫でると「全部大丈夫です」と耳もとで呟いた。 その声はとても落ち着いていて、大人で、影山のくせにかっこよかった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「仲直りできてよかったじゃん」
「あざっす」

 菅原はけらけら笑って「めでたいからやっぱり俺が奢ってやる!」と影山の頭を軽く叩いた。 影山はそれにほんの少し表情を緩めて「いろいろすみませんでした」と言って、小さく頭を下げた。
 仲直りしたことを菅原に連絡したら「影山もも暇ならお茶でもいかが?」と茶化すように誘われた。 仲直りした翌日は日曜日だったので私は休みだし、影山も電話で監督やチームメイトにしこたま謝りながらスケジュールを確認するとしばらく休みに入るとのことだった。 菅原には世話をかけさせているので奢る、と返事をしたら「じゃあ駅前のカフェでご馳走になろうかな〜」と返事があって、今に至る。 結局会計をしようとしている菅原に苦笑いをしていると、影山がサッと伝票を自分に引き寄せた。

「奢らせてください」
「えーなんでだよーめでたいんだから奢られとけって」
「あと菅原さんに頼みがあるんですけど」
「無視かよ」

 菅原は苦笑いしつつも「なに?」と首を傾げる。 影山の隣で私も首を傾げつつその様子を見守る。 影山は水を一口飲んでコップを静かに机に置くと、一瞬だけ私を横目で見た。

「スピーチをお願いしたいんですけど」
「スピーチ? 何の?」
「結婚式のっス」
「は?!」
「え?! は?!」
「え、なんでも驚いてんの?!」
「聞いてないもん!」
「言葉足らずどころの騒ぎじゃないぞ影山!」

 テンションが上がっておかしくなっている菅原をよそに、影山の腕をばしっと叩いて「どういうこと?!」と問いただす。 影山は真顔のまま昨日仲直りしたときにそう決めたと説明した。 全くプロポーズもされていなければ、そういう気配すらなかったのだけど。

「今日帰ったらプロポーズします」
「それ宣言していいの?! サプライズなんじゃないの?! というかもうそれがプロポーズだべ?!」
「先言っといたほうがいいかと思ったんで」
「いや、まずプロポーズが先な?!」

 大混乱の菅原とそれを不思議そうに見ている影山。 その隣で呆気にとられていたのだけど、だんだんおかしくなってきてついに吹き出してしまった。 これを言葉足らずと言っていいのかはさておき、ここまで極めてしまっているのならもう仕方がない。 ちょっとした病気だと思って根気強く付き合っていくしかなさそうだ。 笑っている私の顔を覗き込んだ影山が不思議そうな顔をしている。 それが余計におかしくて仕方なかった。

「大丈夫スか」
「大丈夫。 プロポーズ、楽しみにしてるね」
「はい」
「いやそれもう返事じゃん?! もうおめでとうって言っていい?!」

 騒ぎ疲れた菅原が「本当、似た者同士だなあ、お前ら」と言って笑う。 それが妙に嬉しくて笑ってしまう。 影山も同じだったみたいで、笑うことが上手じゃなかったときなんてなかったように、とても自然に笑みをこぼした。 その様子を見た菅原はなんだか力が抜けたような顔をする。 そうして「感動で前が見えなくなるくらいのスピーチしてやるから、それ用のハンカチ買っとけよ」と私にデコピンをかました。


すこやかなるやまい
▼material by blancbox