わたしがメロンクリームソーダをどうしても飲みたくなるときは決まって恐ろしく疲れているときだ。期末テスト明けの気だるい夕方であったり、前日の練習試合で疲れ果てて眠りこけた休日の昼前であったり。シチュエーションは様々あるけれど、基本的には疲れているときや頑張ったときのエネルギー源として欲してしまう。未成年であるわたしの意見なのでずれているかもしれないが、社会人が仕事終わりに疲れ果てた自分を労うビールみたいな存在かもしれない。
春高本戦に向けた土曜日の練習終わり。もう夕方と言っていい時間帯。今日は明日の練習試合に備えて練習が早めに切り上げられたこともあり時間に余裕がある。とはいえお店で優雅に寛げるほどの時間はないので、喫茶店はもちろんファミレスでメロンクリームソーダにありつくことは難しい。けれど、どうしても飲みたい。そんなときは妥協案で我慢するしかない。わたしは粛々と体育館の片付けを済ませ、いつもなら同輩と少し駄弁ってから帰るところを簡単な挨拶だけに留めて颯爽と更衣室へ向かった。
更衣室でのわたしの動きも恐ろしく早かった。鞄に詰められている制服を引っ張り出してから、汗で濡れたジャージ類を幼児のようにすべて脱ぎ払って床に散らかす。そのまま汗拭きシートで簡単に体を拭いたのち制服をいつも通りの順番で着ていく。一応人の邪魔にならないように気を付けている。けれど、現在更衣室にはわたし一人。いつもよりやりたい放題させていただいた。制服をきちんと着てからは脱いだジャージ類を洗濯に出すものをまとめて入れている袋にコンパクトに詰め込み、ぎゅうぎゅうと鞄に押し込む。適当に押し込んだせいでいつもより鞄がぱんぱんになっている。でも、そんなことに構っている暇はない。何せわたしは今すぐにメロンクリームソーダを飲まなければいけない口になっているからだ。
更衣室から出て正門のほうへ歩いていく。向かう先は高校の近くにあるコンビニエンスストアである。バニラアイスがくるりと乗っているメロンクリームソーダは取り扱っていない。けれど、擬似体験できる商品が揃っている唯一の場所と言っていい場所である。まる飲みメロンクリームソーダなる炭酸飲料と好きなバニラアイスを購入して同時に飲み食いするのだ。まる飲みメロンクリームソーダにはバニラ味がほのかについている。本来はメロンソーダ要素だけを求めたいところだが、コンビニという場所は有名メーカーの商品ばかりが陳列されがちだ。メロンソーダをメイン商品として扱っているメーカーがないのか大体まる飲みメロンクリームソーダしか置かれていない。かくいう高校最寄りのコンビニもそれしか取り扱っていない。妥協案なのでこれくらいはぐっと堪えるしかないのだ。
「、もう帰っちゃうの?」
誰かに声をかけられるなんて想像もしていなかった。勢いよく振り返った先には、同輩の角名倫太郎がジャージ姿で立っていた。部室へ向かう途中、にしては少し遠回りだ。状況からしてわたしを追いかけてきたというのが自然だったので「帰るけど、なんかあった?」と聞いておく。急いで片付けをしたから取りこぼしがあったのかも。もしやわたしの尻拭いをさせてしまったのだろうか、と不安になる。
「ううん。そういうわけじゃないけど。いつももうちょっといるのになって」
「ちょっと火急の用事」
「え? どうしたの? 大丈夫?」
「メロンクリームソーダ」
「は?」
「今すぐ飲まんと死ぬ」
角名が一瞬表情を固めてから、ぶっと勢いよく吹き出した。わたしから顔を背けて肩を小刻みに震わせる。笑われることは承知で口に出した。好きなだけ笑ってくれて構わない。それよりも帰っていいですか。そんなふうに考えているのが角名に伝わったらしい。顔をこちらに向けて、目の端に少し滲んだらしい涙を長い指で拭った。
「ねえ、急いでるところごめんなんだけどさ」
「何?」
「五分だけ待ってて」
「無理。三分なら待つ」
「三分ね。分かった」
腕を組んで仁王立ちする。「いち、にい、さん」と数え出したわたしに角名はまた笑いながら「早い早い」と言いつつ小走りで部室のほうへ消えていった。何か用があるのかと聞いたらそういうわけじゃないと言ったのに。なぜわたしを待たせる必要があるのだろうか。
角名という同輩は正直なところ知り合って約二年が経った今でも掴みどころがない。嘘を吐くわけでもなく、無口なわけでもない。それなのに角名の性格を一言で表せ、と言われたら答えに詰まってしまう。よく話すほうだし面白いやつだとも思っているのに。もし答えるなら「掴みどころがない」というそのまますぎる回答をするかもしれない。
そんなことを考えているうちにそろそろ百五十秒を迎える。おいおいあと三十秒で本当に戻ってこられるのか角名倫太郎。鬼ではないので先に行くつもりはないけれど話が違うぞ。腕組み仁王立ちという状態のままただ虚空を見つめる謎の女子生徒になってしまっているので早くしてほしいところだ。そもそもここから部室までの距離からして三分で行って戻ってくるのはかなりハードルが高い。それこそ陸上の短距離選手でもない限り無理なのではないだろうか。角名がどれほどの脚力なのかは知らない。体育の授業での五十メートル走などの短距離走はもちろん、持久走やマラソン大会などの長距離走でさえ手を抜く男だからだ。
帰っていく女子テニス部の熱い視線を浴びながら十五秒経過。わたしの視線の先に、今まで見たことがないレベルのダッシュをしている角名の姿が見えた。しかも着替えていない。部活後のジャージ姿のままだった。
「待て待て、さすがに着替えて! 風邪引かれたら困るわ!」
大声でわたしがそう言うと角名は緩やかな走り方になりつつ「えーもう戻るのだるい」と言う。だるいじゃない。着替えてくればよかったのに。わたしがそうぼやいている間に角名が真横まで来た。百七十三秒。見事に三分以内に帰ってきた。体育でも真剣にやればもっといい記録が出るだろうに。勿体無い。
いやいや、そうじゃなくて。さすがに体が冷えるだろうから、と説得して人気のない体育館裏へ。角名は「やだ、えっち」なんて冗談を言いつつバッグを置き、しゃがんでから制服を引っ張り出しはじめた。人が通らないうちにちゃっちゃと着替えて。そう言うと角名は笑いながら「優しい〜」と言ってジャージを脱いだ。
「というか何? なんか用なんちゃうの?」
「え? 何が?」
「そんなダッシュで戻ってくるんやでなんかあるんやろ?」
「だから用はないってば」
「……一回殴ってええ?」
「無理」
ネクタイを首に引っ掛けている以外はちゃんと着替え終わったらしい。ジャージを器用に小さくまとめてバッグに詰めると、角名が薄ら笑ったまま「お待たせしました」と言ってバッグを肩にかけた。
角名が当たり前のように「どこ行くの?」と顔を覗き込んでくる。ついてくる気満々な理由は謎だけど、別についてこられて困るわけではない。「メロンクリームソーダもどきが手に入るところ」と答えたら楽しそうに「楽しみすぎる」と言ってようやくネクタイを結びはじめた。小慣れた手つきで結ばれていくネクタイを思わず見てしまう。人生で一度もネクタイを結んだことがない。結び方もよく分からないままだ。どういうふうに結んでいるのか、とよく観察しても理解できないままでいる。
結局またしてもネクタイの結び方が分からないまま、角名は当たり前のようにネクタイをそれなりにちゃんと結び終わった。まさかわたしが結び方を凝視していたとは気付いていないだろう。走ったせいで暑いのか手でぱたぱたと顔を扇ぎつつ「もしかしてコンビニ?」と得意げにしている角名は、珍しく少しまぬけに見えてしまった。
「そ。大したとこちゃうやろ。ついてきてもおもろないで」
「いいの。が死なないよう見張りに来ただけだから」
「はい?」
「メロンクリームソーダにありつけなかったら死んじゃうんでしょ」
自分の発言をすっかり忘れていた。そう。今のわたしはメロンクリームソーダを飲まないと死ぬ体になっていたのだった。当然覚えていましたよ、というような顔をして「せや」とだけ答えておいた。
高校から歩いて五分ほどの場所にあるコンビニ。稲荷崎の生徒の大半が立ち寄ったことがある場所だろう。高校が近いということもあり、普通のコンビニより文房具類が豊富に置かれているのが個人的な推しポイントだ。シャーペン本体はもちろんシャー芯もBからHB、さらには2Bまで取り揃えている。しかも0.5だけじゃなくて0.3まで置いてある徹底ぶりだ。ルーズリーフやノート、消しゴム、色ペン、修正テープ……高校生にとっての必須アイテムが入ってすぐの棚にずらりと並んでいる姿はコンビニというよりは小さな文具店と言っていいレベルなのだ。
熱く推しポイントを頭の中で語っている間にコンビニに到着。自動ドアが開いて店員さんの「っしゃせー」という無駄を省いた挨拶を聞きつつ飲み物のコーナーへ。炭酸飲料が集められている棚の一番端にいる緑色のペットボトルを手に取った。
「ファミレスとかじゃなくていいんだ?」
「遠いししゃあなしや。妥協メロンクリームソーダやねん」
「メーカーさんに謝ったほうがいいよ」
「ちゃうねん。これはほんまに企業さんが努力した結晶の尊い飲み物やねん。お金出して飲ませていただきますの気持ちはしっかりあんねん。せやけど本物にはどうしても敵わへんの」
「分かった分かった」
角名も同じものを手に取る。一人で飲み切れないかもしれないから半分こしようか、と提案したら角名は「いいの? やったー」と言って手に取ったペットボトルを棚に戻した。魅惑のグリーンを片手に持ったまま今度はアイスクリーム売り場へ。角名はわたしの行動を読んでいたようで「バニラアイスどこのメーカー派?」と冷凍ショーケースを覗き込むように背中を丸めてからわたしの顔を見た。
「一択やろ。まろやかでバニラの味が強いこれや」
「あー俺もそれ好き。でもこっちも好き」
「そっちはちょいシャリシャリしてへん? 単体で食べるならさっぱりしとってええけどメロンクリームソーダには不向きやな」
「職人かよ」
まろやかなほうのバニラアイスのカップを手に取る。角名が「それも半分こしてくれる気ある?」と聞いてきたので「しゃあないな」と答えておく。角名はまた「やったー」と言って笑いつつ、レジに向かうわたしの後ろをついてきた。レジに商品を出すと奥で作業をしていた店員さんが小走りで出てきた。「あざまーす」と言いつつバーコードをピッピッと読み取り合計金額を一応読み上げる。小銭あったかな。財布の小銭入れを開けていると、横から角名が「交通系いけます?」と店員さんに聞いた。店員さんが「いっすよー」と答えてレジを操作しはじめ、角名はバッグにぶら下がっているパスケースを手に取った。
「待て待て、なんで角名が払うねん」
「まあまあ」
「まあまあちゃうわ」
「あとでね。おとなしくしてて」
人を暴れん坊みたいに言うな。角名の脇腹を小突きつつ、店員さんに迷惑をかけるわけにもいかなくて一旦おとなしくしておく。ピッと決済完了の音が聞こえて店員さんが「したー」ともうほぼ挨拶になっていない言葉を言い、首をもたげるように礼をしてからまた奥へ戻っていった。スプーンの有無も聞かれなかった。いろいろ思い通りにいかなくてちょっと眉間にしわ。スプーンは手を伸ばせば取れる場所に置かれていたので二つ拝借した。
コンビニの奥に飲食スペースがあるのでそこに角名と並んで腰を下ろす。角名がペットボトルのふたを開けつつ「はい。早く飲まないと死んじゃうんでしょ」とけらけら笑う。それより先に精算させてくれ。そう財布から小銭を出していると角名が「今度なんか奢って」と言うので、小銭も満足になかったので次回に持ちこさせてもらうことにした。
角名が開けてくれたペットボトルを受け取る。やっと。待ちに待ったメロンクリームソーダにありつける。自然と口内で唾液が分泌されたのが分かる。ごくりと喉を鳴らしてしまいつつ「いただきます」とメーカーに礼をしてから一口。ほのかにバニラアイスの香りを感じるメロンソーダ。しゅわっと弾ける感覚は飲みたいメロンクリームソーダより緩いけれど、それでもしっかりメロンクリームソーダとして形を成している。肩から力が抜けていく。コンビニのガラス越しに見える夕日がやけに赤く遠く見える。疲れたなあ。思わずそう呟きそうになった。
「はい。お姉さんアイスも食べな」
「あ、ごめん。普通に口つけてもうたわ」
「別に俺は気にしないよ」
「同じく。問題ないな。はい」
バニラアイスと交換でクリームソーダを渡す。角名は「ちょっとは気にして」とおかしそうに笑ってメロンソーダを一口飲んだ。それから「あっま」と呟く。
「角名ってそういうんあんま飲まへんやん。なんでついてきたん?」
「え、面白そうだったから」
「どこがやねん」
バニラアイスはカチカチに硬くて頼りない木のスプーンでは少ししかすくえない。表面を削ったくらいの少量を口に入れると、メロンクリームソーダの足音がわずかに聞こえた気がした。ああ、まだその影は遠い。口の中に残るかすかなしゅわしゅわ感と、まろやかなバニラアイスの残り香。求めているもので間違いはない。でも、何かが足りない。味とも言えるし香りとも言えるし、なんというか、気持ちとも言えるかもしれない。
角名にバニラアイスを渡して、代わりにペットボトルを受け取る。外の景色をぼけっと眺めながら一口飲む。それから、一つ息を吐いた。
「春高あるやん」
「え、うん。なに急に」
「さみしない?」
「……はじまる前から終わったみたいな雰囲気出すのやめてくんない?」
「それはごめん」
環境の変化が怖い。先輩たちが引退することが怖い。自分たちの代が最上級生になることが怖い。新しい後輩ができることが怖い。昔から環境の変化が苦手で、冬から春にかけての期間はナイーブになりがちだ。できることならずっと今のままがいい。そんな子どもじみたことを考えてしまって、情けない限りだと毎度反省はしている。
何かがはじまるというのは、何かの終わりまでのカウントダウンがはじまるということだ。春高本戦が開幕してしまえば、三年生の引退までのカウントダウンがはじまってしまう。それがどこで途絶えるのかは自分たち次第。どこまで勝ち残るかによって期限は変わる。それに、もし勝ち続けたとしても必ず終わりは訪れてしまう。
「めっちゃはずいこと言うてええ?」
「どうぞ」
「わたし、バレー部めっちゃ好き」
「なんか恥ずかしいこと言ってる」
「角名んこともめっちゃ好きやで健やかに毎日過ごしてな」
「誰目線?」
角名が笑いながら「溶けないうちに食べたほうがいいよ」と言って一口だけ食べたバニラアイスをテーブルに置く。もう食べないの? わたしがそう聞くと角名は頬杖をついて「お腹いっぱいになった」と満足げに言った。お腹いっぱいって。ジュースもアイスも一口しか口にしていないくせに。結局何がしたくてついてきたのか本当に謎だ。
わたしがすべて完食するまで角名は隣でスマホをいじったりわたしのことを観察したりしていた。一人じゃ食べきれない、と言えば多少手伝ってくれたけど、ほとんどわたし一人で食べたようなものだ。アイスはまだしもメロンクリームソーダを飲み干すのは正直骨の折れることだった。
外のごみ箱にペットボトルとアイスカップを捨ててコンビニを後にした。わたしたちの家は近くない。角名は高校の近くで、わたしは電車で三駅先。コンビニ前で別れるのが一番効率的なのだけど、角名は当たり前のようにわたしの隣を歩きはじめた。
「角名んちあっちやろ?」
「ん? うん。そうだけど?」
「なんでついてくるん?」
「ついてっちゃだめなの?」
「いや、あかんことはないけど……遠回りになるやろ?」
「そう? そんなに変わらないでしょ」
いや、結構変わるけども。内心そう思ったけど、なんとなく角名が頑なになっている気がした。とりあえず知らんふりしておく。誰にだって歩きたい気分のときくらいはある。角名もそういう気分だった、というだけだろう。一人で帰るより話し相手がいるほうが楽しいし。
結局角名はそのまま駅前まで一緒に歩いてきた。遠回りどころの話じゃなくなったけど、角名が何も言わないから黙っておいた。歩きたい気分というよりはわたしを送ってくれるつもりだったのか。駅についてから気が付くなんて間抜けすぎる。角名に「なんかごめんな」と言ってみたら「何が?」と予想通りはぐらかされてしまった。
「じゃあ、電車来るで行くわ」
「うん。気を付けてね」
「何をやねん。子どもちゃうし大丈夫やわ」
「子どもだから心配してるんじゃないよ。かわいいから心配してる」
「……めっちゃサブイボ」
「失礼すぎない?」
おかしそうに笑った角名に一応軽く手を振っておく。角名も同じように軽く手を振ってから、少し猫背になっている背中をこちらに向けて、来た道を戻っていった。
何を考えているんだか。角名の背中にそう呟いてから、くるりと向きを変えて駅へ入った。
▽ ▲ ▽ ▲ ▽
──十年後、、社会人五年目の冬
今日は間違いなく厄日だ。上司からのお怒りメールに返信し終わったスマホをバッグの奥へ奥へと押し込んでおく。もうこれで連絡が来ても気付かない。気付いたとしても気付かなかったことにする。そう強く決意してから、どっと溢れ出てくる疲れを吐き出すようにため息をこぼした。
わたしが教育係をしている新人がミスをしたらしい。わたしは定時であがっていたのだけど、会社に残っていた新人からヘルプの連絡を受けて自宅の最寄り駅から会社へとんぼ返りした。残業しないって言ったから帰ったのに。そう内心で文句を垂れていた。新入社員は入社半年で残業が解禁される。新人が残業をする場合は誰か一人は一緒に残ることが暗黙のルールとなっていて、一人で部署に残ることがないようにしてある。仕事が分からないときに聞ける環境にしたいというのと、まあ、一応まだ新人だから何をするか分からないための監視の意味もある。嫌な言い方だけれど。残るのは教育係ではなくてもいいのだけど、一応わたしが残るつもりでいつも「今日は仕事残ってる?」と声がけをするようにしていた。今日は残らないと返答があったから帰ったのに。
それだけで済めば問題はなかった。会社に戻って新人がやろうとしていた仕事を見て目玉が飛び出るかと思った。それは今日が期日の書類だったのだ。新人には二週間前に渡しており、上司が直接チェックするから教育係を通さなくていいと言われていたもの。三日前にこの書類のことを聞いたら「もうできているので自分でチェックしてから提出します」と答えていたはず。それが、なぜ三分の二ほどできていない状態でここにあるのか。できるだけ優しく聞いてみて驚いた。怒られるのが怖くてできていないと言えなかった、使えないやつだと言われたくなくて質問できなかった、期日を来週だと勘違いしていた。そんなことを半泣きになりながら言ったのだ。
とりあえず怒っている場合じゃなかったので、二人がかりで書類をなんとか終わらせた。大急ぎでやったし上司からNGをもらう可能性が大いにある。さらっとわたしがチェックしてから提出することになった。チェックしながら「部長どこにおるん? 残業して終わらせるって言うてある?」と何気なく聞いたら、新人が、青い顔をして「言ってないです……」と言い放ったのだった。
期日が今日なので、上司に相談しないわけにはいかない。わたしから上司に電話をかけたところ、電話口で恐ろしい勢いで怒鳴り散らされた。「教育係なんやろ?! なんで注意して見てへんねん!」とブチ切れられ、「今日金曜日やぞ?! 戻らなあかんやないか!」と激昂され、ブツッと電話が切られた。当たり前だ。上司は何一つ間違ったことは言っていない。新人がぷるぷる震えながら「さんすみません……」と小さな声で言うだけだった。
そこからは地獄だった。上司が来るまでの間はシーンと静まり返った部署内で新人と二人きり。もちろん気休めの会話をしようと話を振ってみたが、新人はそれどころじゃなさすぎて話そうとするだけで泣き出しそうだった。泣きたいのはこっちだ。もちろんちゃんと進捗を目で確認しなかったわたしも悪いけれど、嘘をつかれちゃどうしようもない。ため息が出ないように気を付け続けて約二十分。ドアを蹴飛ばすように部署に入ってきた上司からの説教を十五分ほど聞き、書類を提出して判をもらった。が、しかし。新人の書類に一切不備がないことに上司が目ざとく気付く。「おい、これがチェックしたやろ?」と睨み付けられる。上司の手を煩わせまいと事前にチェックしたのが仇となった。この書類を一人でどこまでできるか、を上司は自分の目で確認したかったのだ。その意図を汲みきれていなかった。そこからまた十分ほどの説教。怒り狂った上司が出て行ってから、新人はしくしくと泣きはじめてわたしに「すみません」としか言わなくなった。わたしの口からまさか注意や叱責を出せるわけもなく、「次から気を付けよう」というなんともぬるい言葉しか出せなかった。
そして、現在。二度目の帰宅途中。電車に揺られてひたすら遠くを見つめている。明日が休みでよかった。明日も仕事だったら気持ちの整理がつかないままの出勤になっていただろう。想像しただけでどっと体が重くなった。
なんか、疲れたな。こんな日はまっすぐ家に帰ってしまうと土日にまで引きずってしまいそうだ。どこかで飲んで帰ろうか。ぼんやりそんなことを考えていると、バッグの奥に追いやったスマホが明らかに震えた。バイブレーションの振動秒数からして着信ではない。恐らくメッセージか何かだろう。先ほどまで上司からメールでもド叱られていたのでもうこれ以上何も見たくない。そう思う気持ちが強い、はずなのに。何かが届いているという事実だけ分かっていると、何なのかが気になってしまって何も手につかなくなってしまう。 また何かミスがあったのか。そもそも上司からなのか。もしかしたら新人からなのか。また何かあったとしたら対処しなければ余計に怒られるのではないか。いろんな可能性が生まれては消え、また生まれては消えるのを繰り返す。
耐えられるわけがない。遠くを見つめたまま右手をバッグへ入れ、ごそごそと奥を探る。こつんと指先に当たったスマホを掴んで、バッグから取り出した。思った通りメッセージの通知が来ている。お願いします。もう何も起こりませんように。そう祈りながら通知をタップすると、上司でも新人でもなく、高校時代の同級生である角名倫太郎からのメッセージが来ていた。
▽ ▲ ▽ ▲ ▽
「お、OLさんじゃん。お疲れ」
「OLさん言うな」
駅で落ち合った角名はけらけらと笑いながら「なんか疲れてない? 大丈夫?」と顔を覗き込んできた。化粧乗りが悪いだけです。そう角名の顔を手で突っぱねておいた。
角名からの連絡は「もうすぐ○×駅につくんだけど会えない?」というものだった。高校卒業後に県外の大学へ進学した角名とは、年に一、二回程度(ただしバレー部の集まりであることが常)は会っていたけれど社会人になってからは全く会えていなかった。何か用事があってこっちに来たみたいだったし、いろんな意味でなかなか会う機会がない相手だから迷わず「OK」と返信した。そして、自宅最寄り駅を通りすぎて○×駅までやってきたというわけだ。
「久しぶりだね。元気?」
「そこそこ。角名は元気そうやな。この前ネットニュースで見たわ」
「一回くらい試合観に来てよ。招待するし」
「そのうちね」
バレーボール選手として活躍している角名倫太郎選手にお誘いされたんじゃあ断れないです。ふざけてそう言うと角名は、ほんの少しだけ拗ねたような顔をして「なんかそれ嫌」とそっぽを向いてしまった。
ま、角名のそういう感じは珍しいものじゃない。話しているうちに勝手に戻るだろう。そう思って「で、どこ行く? 飲む感じ?」と話題を切り替える。角名はぶすくれつつも「食べたいものとかある?」とスマホを出しながら言った。食べたいもの。そう言われても特に思い浮かばないな。晩ご飯はまだ済ましていないけれどなぜだかあまりお腹は減っていない。軽く何かお腹に入れられたらそれでいいかも、くらいの感覚だ。
「……何かあった?」
「え?」
「何か嫌なこととかあった?」
押し黙ってしまう。驚いたというのもあるけれど、角名の言う通り何か嫌なことがあったことが事実だから、変に口を滑らせてしまうのが怖くてつい黙ってしまった。仕事の話なんかしたくないし、愚痴なんかもっと言いたくない。目の前にいるのは日本代表にまでなっている立派なバレーボール選手なのだから。一介のOLなんかの情けない愚痴を聞かせるのは申し訳ない。
高校生のときはこんなこと考えずに言いたいことは全部言って、聞いてもらいたいことは勝手に話していたのにな。大人になるって残酷だ。高校を卒業するときも本当はまだ卒業したくないって子どもみたいに騒ぎたかったけど、かっこ悪すぎるから涙すら流さないように我慢したっけ。部活を引退するのも心の底から寂しくて嫌だった。大学に入学するのも、大学を卒業するのも、今の職場に入社するのも全部、環境の変化への苦手意識がどんどん大きくなっていくばかり。
いつになったらわたしは大人になれるのだろう。新しい出会い、寂しい別れ、そういうものを割り切れる日は来るのだろうか。このままずっと変われないかもしれないという不安がずっとある。こんなわたしを昔からの友人たちは馬鹿にして笑うに違いない。
「え〜別になんもないけどなあ。仕事で疲れてそう見えるだけちゃう?」
「それならいいけど……。行きたいところあるからそこでもいい?」
「ええよ。むしろ助かる〜」
相変わらず気が利く。そう言いつつ肘で角名の腕をつんつん突いておく。角名はわたしの顔をじっと見てから小さく笑って「でしょ」とだけ言った。
金曜日の夜はいつもと同じ夜のはずなのにほんの少しだけ明るく見えるのが不思議だ。道行く人々も妙に表情が明るい。何かいいことがあるのだろうと思わせるような表情の人ばかりなのだ。もちろん土日休みの人ばかりではないだろう。それでも、金曜日の夜は妙に晴れやかに思えてしまう。仕事がしんどかったときほど飛び跳ねたくなるくらい晴れやかになるのだ。まあ、今日に限ってはそういうわけではないのだけど。
角名のあとについて歩いていった先は、なんとも趣のあるビルの地下一階だった。重厚感のある木目調のドアにアンティーク調のドアノブがついているドアを開けると、なんだか懐かしいドアベルの軽い音が聞こえた。てっきりバーなのかと思っていたけど、中を覗いてみるとどうやらバーではない。喫茶店のような雰囲気のお店だった。
「ここ知ってる? SNSで話題になってた深夜までやってる喫茶店」
「知らんかった……こんなとこあったんや。かわいい〜」
店員さんが奥から顔を出して「お好きな席へどうぞ〜」ととても人懐こい笑顔を浮かべて言った。人の笑顔を見るとほっとする。仕事のストレスでがっちがちに固まっていた心臓がようやく自然に動き出したような感覚があった。
純喫茶を思わせる雰囲気の店内。クラシカルシャンデリアが柔らかい光を咲かせている。赤みのある濃い木目調のテーブルに、昭和レトロというジャンルに入るであろう背もたれがボタン締めされている革張りのソファ。その時代を生きたわけでもないのになぜだか懐かしさを覚える。
客層は若者が多めで、角名の言う通りSNSで話題になったというのは本当らしい。かわいいプリン・ア・ラ・モードをスマホで撮っている人。ホットサンドをおいしそうに頬張っている人。それぞれが喫茶店の雰囲気を楽しんでいる。
角名がメニューを手渡してくれた。それとほぼ同時に店員さんがお水とおしぼりを持ってきてくれた。それを受け取ってからメニューに視線を落とす。それなりにしっかりしたボリュームの食事から喫茶店らしい軽食、レトロ感のあるスイーツ。魅力的なメニューに目移りしてしまう。飲み物もたくさんあるんだろうな。そう思って裏面に書かれているであろうドリンクメニューを見ようとしたら、それより先に角名がわたしからメニューをするりと奪った。
「裏にあるよ」
「え? あ、うん。飲み物な」
「メロンクリームソーダ」
メニューをひっくり返した角名が、またメニューを手渡してきた。左下を指しながら「ほら、ここ」と言う。
メロンクリームソーダ。そう言われて、ぶわっといろんなものが頭の中を駆け巡った。学生の頃に戻ったような感覚になりつつ「なつかし」と笑いながら呟いてしまう。学生時代のわたしは疲れ果てたときや嫌なことがあったときにはメロンクリームソーダを飲んでいたっけ。ファミレスや喫茶店に行けなくてコンビニにあるものでメロンクリームソーダもどきを錬成して耐え忍んでいたこともよく覚えている。そして、一度だけ角名とそれを一緒に飲んだことも、覚えている。
「これ好きってよう覚えとったね? 記憶力すごすぎやろ」
「好きというより疲れたときに飲むんじゃないの?」
「……そんな話したっけ?」
「されてないけど分かるよ」
今では、学生時代の純粋な気持ちなど消え失せてしまった。疲れた日や嫌なことがあった日はお酒ですべてを忘れるようになっている。メロンクリームソーダを最後に飲んだのはいつだっただろうか。今でも無性に飲みたくなる日はあるけど、学生時代のようにもどきでは満足できなくて「仕方ない」と諦めることが多い。その代わりにお酒を飲んでしまうから残念な気持ちも学生時代より薄らいでいる。大人になるって寂しいな。ぼんやりそんなことを思った。
せっかくだし、頼んじゃおうかな。ぽつりと呟いたわたしに角名が「いくらでもどうぞ」と優しく笑う。なんか今日、優しい? なんでだろう。角名は優しい人だとは思うけど、学生時代のときと少し感じ方が違う気がする。角名が変わったのかわたしの受け止め方が変わったのかは分からないけど。
クリームソーダの種類がいくつかあったけど、やっぱり一番スタンダードかつ一番好きなメロンクリームソーダを選んだ。ベルを鳴らしたらすぐに来てくれた店員さんに、角名がわたしの分もまとめて注文してくれた。角名はホットコーヒーにしたらしい。あとで小腹が空いたらまた何か頼もうと言いつつ一旦メニューを元の場所に戻しておいた。
「そういえばなんでこっち来たん? なんか用事?」
「え? に会いに来ただけだけど?」
「はいはい。そりゃどうも。で、なんで?」
「いや冗談じゃないから。本当にそれだけだよ」
「……わたしの都合が悪かったらどうするつもりやったん?」
「そのときは、んー、治の店にでも行こうかなって感じだったよ」
「この時間空いてへんやろ」
「それもそっか。まあに会う以外何も考えてなかったし適当にどっか寄って帰ってたかもね」
「なんやそれ。わたしのこと大好きやん」
そうからかって言っておく。そのあとで高校のときの思い出をいくつか挙げる。その中にはもちろん、いつかにコンビニへ向かうわたしについてきたことも入れておいた。コンビニに行くだけだから面白くもなんともないと分かっていただろうに、なんでついてきたのか今でもよく分からない。いろんなことを思い出して勝手に懐かしい気持ちになっていると、角名が小さく笑った。
「うん。大好きだよ。気付くの遅くない?」
わたしの足を軽く蹴るように足をぶつけてきた。その小さな衝撃が頭の奥まで響いた気がして、一瞬間を開けてしまう。ここで反応を間違えると変な感じになりそうだ。そう慌てて言葉を捻り出す。
「角名って昔も今もどこからが冗談なんかよう分からへんわ〜」
「冗談なんか言ってないけど」
「はいはい」
「本当に言ってないよ。一つも。にだけは」
角名が注文したホットコーヒーが先に運ばれて来た。店員さんがホットコーヒーを角名の前に置いてまた戻っていく。カップをゆっくり持ち上げて一口飲んだ角名が「ん、おいしい」と少しだけ驚いたようにカップの中を見た。余程おいしかったのだろう。それをそのままわたしのほうへ差し出すと「おいしいよ。一口飲む?」と言ってくれた。興味はある。「飲む」と返してからカップを受け取り、一口飲ませてもらった。程良い苦みの奥にほんの少しだけチョコのような香りを感じさせる。これは確かにおいしい。SNS映えだけじゃなくてしっかり味もおいしい喫茶店なのだろう。これは今後ももっと人気が出てしまうかもしれないからまた来るなら早めにしておこう。そう思うほどおいしかった。
コーヒーを角名に返したすぐ後、わたしが注文したメロンクリームソーダがやってきた。鮮やかなグリーンに柔らかいバニラアイス。なんともかわいらしいチェリーまでちょこんと飾られている。レトロなグラスの中で泡が弾けている。ああ、わたしがずっと求めていたのは、まさしくこのメロンクリームソーダだ。飲む前からそう確信させてくれるような堂々たる佇まいをしている。
ストローで一口メロンソーダを飲む。口に入る前から暴力的な甘い香りがして、もうどんな味をしているのかそれだけで分かる。それでも早く飲みたいと急いでしまう。口の中に入った瞬間にぶわっと人工的な甘みを感じ、さらに襲いかかるように香りが広がる。それから口の中で炭酸が弾けると思わず「はあ」と一つ息を吐いてしまった。
「おいし……」
「それならよかった」
「疲れ吹っ飛んだ……」
「で、何があったの?」
長いスプーンでバニラアイスをすくい口へ運ぶ。まろやかなバニラアイス、だけれど少しだけざらりとした固めのアイスをあえて選んでいるらしい。わたしはこれまで柔らかいバニラアイスのメロンクリームソーダばかり飲んできたけどこれはこれでおいしい。それにこっちのほうがなんとなく溶けづらそうだ。中にはソフトクリームが乗っているメロンクリームソーダもあるしそっちも大好きだ。みんなちがってみんないい、という何かの標語を思い浮かべつつバニラアイスをもう一口すくった。なんだか、落ち着くまでここにいていいですよ、なんて許しを得た気持ち。都合の良い解釈であることに間違いない。それでも今のわたしにはきっと必要な勘違いだ。
許された気になったら、勝手に口が開いていた。角名倫太郎選手に聞かせるのは忍びない、という前置きをしてから仕事の愚痴を話した。今日あった最悪の出来事を話してから「まあわたしが悪いんやけどな」と笑っておく。だって笑うしかないのだ。もう終わったことだしいつまでもうじうじしているわけにはいかない。笑い話として消化できるように努めることが今のわたしにできることなのだ。
「でも、これ飲んだら忘れられたわ。アルコールを浴びるより健全やし」
「飲み過ぎないでよ」
「了解です、角名選手」
「……ねえ、それやめて。角名選手ってやつ」
「え、ごめん。そんな嫌がると思わへんかったわ」
侑は得意げにするから嬉しいものなのかと思ってしまっていたから、まさかこんなに嫌がられるとは夢にも思わなかった。明らかに拗ねた顔をしているから角名にとっては褒め言葉の類いにはならないらしい。すごいことなのに。そう思う気持ちはあるけれど本人が嫌がるのなら当然NGだ。もう一度「ごめん」とちゃんと謝った。
「バレーを続けた結果肩書きはいろいろ変わったけど、俺は何も変わってないよ」
「そうですね、角名倫太郎くん。大変失礼しました」
「分かればよろしい」
笑ってくれた。よかった、怒らせたわけではなかったみたいだ。滅多に怒らない角名を怒らせた、なんてことになったら今日は超厄日になっていた。これからは気を付けよう。そうこっそり反省しておいた。
店内に流れているジャズの軽やかなリズムが心地良い。周りのお客たちの話し声もどこか遠くに聞こえるような感覚がして、角名の声だけがしっかり聞こえるような気がした。高校生のときにも思ったことがあるけど、角名の声はわたしの耳にとても馴染むものなのだ。どんなにつまらない話をされたとしてもずっと聞いていられるというか。テンポも良いからいつまででもくだらない話をしていられる。角名はそんなふうに思っていないだろうけれど。
というか角名はなんでわたしに会いに来たのだろうか。何か相談があるとか用事があるとか、ということ以外で理由がやっぱり見当たらない。謎すぎる。メロンクリームソーダをまた一口飲みつつ角名の顔を見る。わたしに会いに来たって。なんで?
「で、わたしになんの用なん?」
「だから用はないってば。会いに来ただけ」
「……え、暇なん?」
「割と忙しいほうだと思うよ」
そりゃそうだ。言うと拗ねるから言わないけど、角名はバレーボール部として活躍している身なのだから。オフはあるにしろ、こんな夜にひょっこりこっちまで来るなんてことはよっぽど用がない限り避けたいだろうに。本当に会いに来ただけって。変なやつ。おかしくて笑ってしまった。
角名といると学生の頃に戻ったような感覚になる。何か特別なことがなくても、内容が何もなくても、だらだらずっと話していていいというか。学生のときから角名と内容のある話をしたことなんて片手で数えられる程度だった。大人になってもそれが変わっていないことがわたしにとっては小さな救いになった。片手にお酒がなくても、宝石のように輝くメロンクリームソーダと話を聞いてくれる優しい角名がいる。とても贅沢なことだ。胸がいっぱいになるほどに。
「忙しいなら無理せんと休みなって。喋りに来てくれるんは嬉しいけどさ」
「嬉しいんだ? それならまた来るよ」
「そんなんせんでええっていう話なんやけど……」
バニラアイスがゆるやかに溶けていく。メロンソーダの鮮やかな緑にじわじわ侵食しはじめた。鮮やかな緑がまろみのある緑に変わっていく様子はいつまででも見ていられる。
「ほんまにわたしのこと好きやん。そんなおもろい人間ちゃうけどな」
「好きだって言ってんじゃん。面白いしかわいいし一緒にいて楽しいし安心するよ」
一体何を企んでいるのやら。そう呆れて呟きつつメロンクリームソーダをかき混ぜる。もうバニラアイスは跡形もなく、メロンソーダも残り半分くらいだ。これを飲み終わったら角名を駅まで送って家に帰る。それからまたいつも通りの日常を過ごす。また来るかもしれないこんな日を少し楽しみにしながら。
隣のテーブルの客が席を立った。どうやらカップルのようで、彼女が楽しそうに「また来ようね」とかわいらしく彼氏に甘えている。彼氏も嬉しそうに笑って「今度はあれ頼も」と彼女の手を握った。
「真面目に聞くけど」
「うん」
「ほんまにわたしのこと好きなん? さすがに勘違いするで軽率なこと言わんといてほしいんやけど」
「だから好きだって言ってんじゃん。何回言わせるの」
「恋愛的な意味なんですかって聞いてんねん」
「恋愛かどうかなんて関係なくない?」
「は?」
「恋とか愛とかなんなのか知らないしどうでもいいけど、のことが好きだって言ってる。ずっと」
熱烈な言葉のように聞こえるけど、正直判断ができかねる言い方だった。結局どっち? そうわたしが迷っていると、角名は「型にはめなきゃだめなの?」と笑った。
「その辺を歩いてる恋人みたいになりたいのかって聞かれたらそうだし、将来結婚したいのかって聞かれたらそうだよ」
「めっちゃ飛躍してへん?」
「でも、それがしたいからのことを好きになったんじゃなくて、のことが好きってだけだよ」
「……むずかしい」
「が俺の好きに理由と結果を求めるからじゃん」
なぜわたしが呆れられているのか。あまりにも理不尽で笑ってしまう。学生のときから変わらない。角名は何を考えているのかいまいち分からないし、本当なのか冗談なのかもいまいち分からない。だから、今こんなふうに軽口を叩くように好きだとかなんだとか言うのはなんとも角名らしいというか。わたしだって女だ。男性から告白されるなら真剣に、いい雰囲気で言われたいという憧れはある。まあ、角名にそれをされたら笑ってしまう自信があるから逆に助かったのだけど。
型にはめようなんて思わない。恋愛をしたいから好きになったんじゃない。そういう意味であろう言葉は、正直、結構嬉しかった。
「このまま付き合うとかなしでただたまに会うだけでもええってこと?」
「が俺のこと好きじゃないならね」
「手繋いだりキスしたりできんくてもええってこと?」
「がしたくないならね」
「……それって好きってことなんかな?」
「好きな子がしたくないことを自分がしたいからさせてって言うことが好きってことなの?」
ああ言えばこう言う。角名は頬杖をついたままじっとわたしを見ると「そりゃしたいけどさ」と付け足した。したいんかい。そんなふうに見られているなんて思ったことがなかった。内心ちょっと驚いている。
「なんにも変わらないままでもいいし、がいいよって言ってくれたらより嬉しいってだけだよ。難しく考えなくていいじゃん」
メロンクリームソーダを飲み干してしまった。ずず、と下品な音が聞こえてようやくそれに気が付いた。グラスを見てみると、真っ赤なチェリーだけがぽつんと取り残されていた。これ、見た目は好きなんだけど味はそこまで好きじゃないんだよね。残すのは忍びないから食べるけど。そんなことをぼんやり思いつつチェリーをスプーンですくい上げ、そのまま口に入れた。
角名のことをどう思うか。そう聞かれると、一緒にいて楽しくて気を遣わなくていい相手、というのが答えになる。恋愛として好きかどうか。そう聞かれると、正直分からない、というのが答えになる。角名にそれを言ったらきっと型にはめなくていいと言われるのだろうけど。
でも、不思議なことに角名と手を繋げるかキスができるかと聞かれると、嫌じゃないからできる、というのが答えだ。付き合うのも別に嫌じゃない。一緒に住むとかなんとか、今は非現実的にしか思えないような未来があったとしても、たぶん嫌だと思わない。そんなふうに思えるのはなぜかは分からないけれど、今こうして目の前にいる角名の顔を見てそう思うのだからその気持ちに間違いはないだろう。
「なんかいまいち乙女心に響いてこおへんのやけど」
「え〜」
「当たり前やん。お前のことが好きやから俺のもんになれ、くらい言うてくれたほうがときめくわ」
「あれ、意外とそういうタイプなんだ?」
「多少情熱的なほうがときめく」
「なんだ。正攻法でいいのか」
「ゲームみたいに言うな。マイナス五十点」
「初期値いくつなの?」
空っぽになったグラスをテーブルの端に寄せる。溶けはじめている氷が店内の照明を反射して、わずかにきらりと光った。空っぽのグラスはいつ見ても寂しい。またいつでも飲みに来られると分かっているのに、もう永遠に飲めないかもしれないとなぜか思うからだ。
ドアベルの音が聞こえた。またお客が来店したらしい。さすがはSNSで人気のお店だ。ほぼ満席といっていい店内を見渡していると、注文したものを飲み終わった状態でいるのは居心地が悪い。もともと食事が終わったらすぐに席を立つタイプなこともあり、それとなく角名に目配せをしてみたら「ご飯いいの? もう行く?」と意図を読み取ってくれた。正直何かお腹に入れたい気はするけど、ここは一度改めたほうが良い気がして席を立った。
絶対に財布を先に出すタイプだと思ったので歩きながら財布を出した。友達に奢られるつもりはない。それに思い出したのだ。角名とメロンクリームソーダもどきを飲んだときの代金をそのままにしていたことを。あのときのお返し、と心の中で呟いてから前を歩いている角名の手に千円札を握らせる。びっくりした顔でこっちを見た角名が「かわいくない」とおかしそうに笑う。
「割り勘にしてももらいすぎなんだけど」
「ちょっとだけやろ。小銭出すんめんどい」
「雑〜」
けらけら笑いながらレジで伝票を渡す。店員さんが合計金額を告げると、わたしが渡した千円札をコイントレーに置いてから財布を取り出した。小銭をいくつか出して会計を済ませると、レシートを断って店を出た。
冷たい風。思わず肩に力が入って首をすぼめてしまう。角名も手をすり合わせながら「さっむ」と呟いてから一つ息を吐いた。その息は白く染まってふよふよと一瞬だけ漂い、やがて溶け込むように消えていく。
「角名このあとどうするん?」
「んー、ホテル取ってないし治のとこ行こうかな」
「連絡してあんの?」
「ない」
「舐めすぎやろ」
相変わらずのゆるさに笑ってしまう。治に断られて泣く羽目になる姿が目に浮かぶ。まあ、最終的には治も許すのだろうけど。学生のときからそんな感じの二人だったけど、今もきっと変わっていないのだろう。
「ちなみに」
「うん?」
「は?」
「なし。彼氏以外の男は家に上げへん主義です」
「そういうとこも好き」
それを、なぜまっすぐ言わないのか。駅のほうを見たまま話している角名を見つつこっそり思った。
横断歩道で信号に捕まった。駅に向かうであろう人たちに紛れて立ち止まり、ぽつぽつと話をする。角名は背が高い。平均的なわたしとは身長差がそこそこあるので集中して聞かないと声を聞き逃してしまう。角名もそれが分かっているようで、少し背中を丸めて距離をできるだけ縮めようとしてくれている。
信号が青になった。一斉に動き出す人波に流されるように歩き出す。わたしの隣を早歩きで歩いていった女の子二人が「あの人背たか」と、明らかに好意がこもった声で言ったのが聞こえた。そこそこモテるんだからああいうキラキラ女子みたいな子を選べばいいのに。なぜだかそうぶすくれてしまう。
好きだから付き合ってくれと言えばいいのに。角名の考えていることはいまいち分からない。でも、なんとなく角名が怖がっているのだということだけは分かる。振られるのが怖いとか、想いが通じ合わないことが怖いとか。そんな感じなのだろう。人間なら誰しもが一度は抱える不安であり、恋愛においては避けられない恐怖でもある。
ずるいやつだと思った。自分は好きだけどきみがどうかは分からないからあとは任せるよ、みたいな感じ。優しく見えてずるいし情けない。ちょっとは自分を犠牲にしようって気にはならないものかね。
横断歩道を渡りきった。まっすぐ歩けばもうすぐ駅だ。わたしは自宅へ、角名は治の家へ。方向は反対。駅についてしまえばそれきりでバイバイというわけだ。
「で、なんもないん?」
もう見えている駅を見つめたままそう口を開いた。周りの人たちの話し声がやけにうるさく聞こえる。角名が何も言わないこの間が気まずいからなのか、角名の言葉を内心で急かしているからなのか。どちらなのかは分からないけど自分の精神状態が平常ではないことをなんとなく悟った。
「……いま絶対に俺のこと情けない男だって思ってるでしょ」
「まあ、多少は」
「十年以上こじらせてるんだからちょっとくらいずるさせてくれてもいいじゃん」
「開き直ったな」
「開き直らないとやってられないんだって。あーもう本当にやだ、ダサすぎ」
一つ息を吐いてから角名の右手がわたしの左手首を掴んだ。その手をゆるく引っ張ってくる。駅へ続く道から逸れていくと、もう閉店している商業施設の入り口前で立ち止まった。ちらほらと商業施設沿いで立ち止まってスマホを見ている人はいるけれど、誰も彼もイヤホンをしていてこちらを気にする様子は一切なかった。
「一個リクエストしてええ?」
「このタイミングで? まあいいけど……何?」
「わたし、告白されたことないから一番王道のやつやって」
「うわ〜できればリクエストされたくなかった〜」
困ったように笑いつつも手は離してくれない。どうやら腹を括ったらしい。
憧れがなかったわけではない。わたしのことを好きになってくれる人がいて、その気持ちをまっすぐ伝えてくれて、その手を取ってにこにこ笑って幸せになる。そんな少女漫画みたいな展開を夢に見たことくらいわたしにだってある。
だから、ごちゃごちゃと入り組んだ道を延々と歩かされるような、どこまで行っても目的地が見つからないような、そんなよく分からない伝え方をされてちょっとカチンときたのだ。
角名の手が熱いのか自分の手が熱いのか分からない。自分の手首が脈打つような感覚を覚えるのははじめてだ。瞬きのひとつひとつが、呼吸のひとつひとつが、どこか重たくてゆっくりしたものに感じるのもはじめて。不思議な感覚だ。世の中の人はみんなこんなふわふわした正体不明なものと向き合っているのか。恋愛って大変だな。
なんて、蚊帳の外にいる人間のように考えているけれど、全部わたしの身に起こっていることなんだと思うと、思わず唇を噛んでしまう。
「ずっと、のことが好きだよ」
手首を握る力がほんの少し強くなった。指先から伝わってくる穏やかな体温は、この寒さを和らげてくれるには十分だった。
ドラマのワンシーンみたい。見たことがない表情をしている角名の顔を見上げてそう呟きそうになる。こういう告白のシーンをドラマや漫画で見て憧れはあった。あんな経験してみたいな、くらいの軽い好奇心だけど。わたしみたいなかわいげのない女にはどだい無茶な話だと諦めていた。
こんな感じなのか。なんともすんなりそんな感想が出てきた。第三者視点でこのシーンを観ているような感覚。それこそテレビの前の視聴者みたいな。でも、手に角名の体温は感じる。不思議だ。これ、わたししか知らないシーンなんだな。そう思うととてつもなく貴重な経験をしているような気がしてきた。
「誰にも取られたくないから、俺と付き合って」
ぎゅっとまた手首を強く握られた。まっすぐ角名の目を見つめて、ゆっくりまばたきをする。
「ちょっとときめいた」
笑ったわたしに対して角名は目を丸くして驚いた顔をする。そのあとすぐ力が抜けたように息を吐くと「雰囲気ぶち壊し」と恥ずかしそうに呟いた。わたしの手首を離すとすぐ手を握り直した。それから「ちょっとかよ」と言ってわたしを軽く睨む。
告白されるのってこんなにどきどきするんだ。知らなかった。笑いながらそうこぼす。角名相手だしここまでの流れで何を言われるのか一目瞭然だしどきどきなんかしないだろうって思っていたのに。告白って不思議。そう笑いながら言う。
「ねえ、もう最悪なんだけど。笑いすぎだってば」
「ごめん、つぼった」
「ひど。泣くよ」
いつも飄々としているイメージの角名のはじめて見る一面はなんだかかわいく思えてしまった。
冷たい風が前髪を揺らした。角名の前髪も同じように揺れて、一瞬目元が隠れてしまう。じっと見つめたまま風が止むのを待つ。どんな目をしているだろう。今日の角名はころころと表情を変えるから見ていて飽きない。
風が止んだ。前髪がおとなしく元の位置に戻ると、角名の目が見えた。じっとこっちを見つめている。ただそれだけなのに、撃ち抜かれたように心臓がどくんと熱くなったのが分かった。
危ない。飲まれそうだ。慌てて目を逸らす。それから「とりあえず駅」と気付いたら声を出していた。角名の手を握り返してぐいぐい引っ張る。角名はというと、明らかに不満げに「おい」と怒りマークがつくであろう声でツッコミを入れてきた。
「リクエスト通りにしたんだけど。めちゃくちゃ恥ずかしいんだけど。一言くらいなんかあってもいいんじゃない?」
「分かった分かった。あとでな」
「あとっていつ? 来週? 来月? いつなの?」
「そんなあとちゃうわ! ちゃんと話すからとりあえずうち来て」
こんな顔を通行人に見られてたまるか。そう照れ隠しで大笑いしながら角名を振り返る。こういうところがかわいくない女たる所以だ。自分でよく分かっているつもりだけどなかなか直せない。まあ、それなりに楽しく人生を歩んでいるのでうじうじと悩むほどではないから気にしていないけれど。
角名がフリーズしていた。まばたきもせずぼけっとわたしの顔を見ている。その顔もはじめて見た。変な顔。からかってそう笑ってやると、角名がようやくまばたきを一つした。
「家行っていいんだ?」
「え」
「彼氏以外の男は家に上げない主義なんじゃないの?」
恋とか愛とか、一体何なのかを考えたことがない。まあまあ気が合って、まあまあ顔がタイプで、まあまあ一緒にいて楽しい相手ならそれでいい。でも自分からは告白しない。告白するほど熱があるわけじゃないから。自分の告白に価値があるとは思えないから。まあ、そんな取って付けたような理由を並べて今日まで生きてきた。困ったことに別に不満はないままだ。わたしにとって恋とか愛とか、そういうものはいらないものなのだと思うほど、別になくてもいいものだった。夜に突然人肌恋しくなることはあったけど、朝にはもう忘れている。寂しさを覚えた自分が照れくさくなる程度でそれ以上は気にならなかった。
「……うるさい。来たくないんやったらここで解散で」
「いやいや行くでしょ、行くよ。行くに決まってんじゃん」
「必死か」
「必死だよ」
おかしそうに笑った角名の顔は、学生時代も見たことのあるものだったけど、その記憶の何倍も楽しそうで。またしてもうっかりかわいいなんて思ってしまった。
角名はどうしてわたしに、恋とか愛とか、そういうものを抱いたのだろう。どこで。いつ。どんなふうに。どれくらい。そんな疑問が生まれては消えていく。生まれて消えて、消えて生まれて。
でも、形のないものを形にしようとするなんて無茶なことなのだ。恋とか愛とか、そんなものの形を知っている人はこの世に一人としていない。その人がそれが恋である愛であると定めれば、その人にとっての恋であり愛であるものとなる。それだけの話なのかもしれない。
それがわたしにとっては角名の形をしていたらいいな。そして角名にとってはわたしの形をしていたらいいな。うっかりそんなばかみたいなことを思ってしまった。本当にそれだけのことだった。
恋とは愛とはどう考えてもきみになる