普段は自転車通学をしているのだけど、今日は土砂降りの雨だったので珍しくバス通学だった。けれど、帰りにはきれいに晴れた。あんなにざざ降りだった雨はきれいに止み、暗い雲に覆われて見えなかった青空も見えている。それなのに、自転車がないので仕方なくバス停で待ちぼうけを食らっているところだ。
 バス停にあるベンチに座っていたら、端っこにおばあさんが腰を下ろした。片手に病院でもらったらしい薬の袋があったので通院帰りなのだろう。そう思いつつ、目はおばあさんが持っている刺繍の本に向いた。刺繍好きなのかな。わたし、偶然にも刺繍をはじめて一週間が経ったところなんだよなあ。なかなかうまくできないけれど。そんなふうにぼんやり思っていると、おばあさんが持っているかわいい小物入れに、きれいな猫の刺繍がされているのを見つけてしまった。もしかしてあれ、自分でやったのかな。すごいなあ。
 おばあさんがこっちを見た。見過ぎていた自覚はある。気まずくてそうっと目をそらしてちょっと恥ずかしくなってしまった。じっと見てる変な子、なんて思われているのだろう。申し訳ないな。そう息を潜める。

「稲荷崎の子やね、学校帰り?」

 優しい声だった。話しかけられるなんて思っていなくて、慌てて視線を戻す。「はい」と答えたらその人は微笑んで、シンちゃんも稲荷崎に通うとるんよ、と言った。お孫さんだろうか。そう首を傾げていると、鞄から取り出したお菓子をくれた。畏まりつつ有難くいただいて、そうっと視線をさっきまで見てしまっていた小物入れに向けた。

「あの、その刺繍って」
「これ? 下手で恥ずかしいんやけどね、まあまあ自分にしては上手にできたで、お気に入りなんよ」

 まあまあどころじゃなくてすごくかわいい、と思わず言ってしまった。おばあさんはきょとんとしてから優しく笑って、持っていた刺繍の本を開いて見せてくれる。そそくさと近くに寄って本を覗き込ませてもらう。これを参考にして縫った、とか、この通りにやればこうなる、とか。初心者のわたしでも理解できるように丁寧に教えてくれた。同じ本、今度買いに行こう。書籍名と出版社をスマホで調べようとしたら「よかったらこれ」とおばあさんがその本をわたしに差し出した。

「え、ええです! 自分で買うんで!」
「ええのええの。お話しできて楽しかったわ。また会えたら縫うた作品見せてな」

 おばあさんはそう言ってわたしに本を握らせる。にこにことしているその人に甘えてしまい、うっかり受け取ってしまった。その間にバスが一台やってくる。わたしが降りるバス停には停まらない便だ。でも、おばあさんはこのバスを待っていたらしい。「気ぃ付けて帰りなさいね」と言いながら立ち上がる。慌てて名前を聞いたら、笑ってキタ≠ニ名乗った。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 バス停でおばあさんとお話ししてから、一ヶ月が経った。もらった刺繍の本を頭から最後まで読んでたくさん練習をして、どうにかハンカチにお花の刺繍をしてみた。もともとぶきっちょで細かい作業が得意ではないわたしにしては、まあまあ上手にできて嬉しくて。あのおばあさんにお礼で渡したいなって、思っているのだけど。バス停に何度行ってもいない。バスを何本か見送って待ってみてもおばあさんは来なかった。
 こんな、大してきれいにできているわけではないもの、見せられても困るだろうけど。それでも教えてくれた成果だから報告したくて、今日もバス停に行くつもりだ。下校準備が終わって、刺繍したハンカチをポケットに入れて教室を出ようとした、ときだった。
 現国の先生に呼び止められた。「悪いんやけど」と前置きをつけてわたしに差し出したのは「銀島結」と書かれたノート。なんでも返却する際に誤って別のクラスのところに混ぜてしまっていたらしい。教室にはもういなかったし、明日提出の課題のために必要だろうから渡してきてくれないか、と言ってきた。結とは所謂幼馴染というやつだ。家が近いので帰ってから渡してもいいのだけど、今なら部活がはじまる前だろうし、先に渡してきてもいいかも。そう思ってノートを引き受けた。
 体育館へは少し距離がある。急いで歩いたので少し息が上がってしまった。呼吸を整えつつ角を曲がった瞬間、結を含めたバレー部の人たちが外に集まっているのを発見。何をしているのかは分からないけど、普通に談笑しているので話しかけて良さそうだ。そそくさと近寄りつつ「結」と声をかけた。

、こんなとこで何しとんねん」
「先生にノート渡してって頼まれてん。これ」
「ああ、道理で手元になかったわけや。悪いな」

 これでミッションクリア。あとは帰宅、の前にバス停に寄っておばあさんを待たなきゃ。今日は会ったときと同じ木曜日。もしかしたら来るかもしれない。そんなふうに考えていると結が「最近どっか寄り道しとるんか?」と聞いてきた。

「え、なんで?」
「お前んとこのおばさんに、ここ一ヶ月くらい帰りが遅なったから何か知らんかって聞かれたんやけど」
「あーそういうことな。バス停寄っとんねん。会いたい人がおってさ」
「なんや、男か?」
「ちゃうわ。おばあさん」

 結は首を傾げて「なんで会いたいん?」と不思議そうに言う。まあ、訳を知らなれけばそうなるのが当たり前だ。一ヶ月前の出来事を話して、ハンカチを見せてやった。結は「お前不器用やのにようできとるやん」と言ってくれる。ちょっと嬉しかったけど、まあこれではまだまだ。照れつつ笑っておいた。

「お孫さんが稲荷崎らしいけど、全然知らんっぽいでバス停で待つしかないかなって」
「孫なんちゅう名前なん?」
「シンちゃんって言うとった。苗字がキタさん。漢字は分からへん」

 キタシンなんとかくんやろうなあ、と苦笑いで言ったら結が固まった。心当たりがあるのかと思って「知り合いやったら紹介して!」と肩を揺さぶってやる。「いや、まあ、やめえや」と心なしか複雑そうな口ぶりで言われてしまう。絶対心当たりがあるやつだ。そう「なあ誰?」と聞いていて気が付いた。周りのバレー部の人たちも結と同じようになんだか変な顔をしてこっちをじっと見ている。さすがに怖気付いてしまう。何かまずいことでも言っただろうか。そう苦笑いで誤魔化していると「それ」と、はじめて聞く声が聞こえた。

「俺のばあちゃんかもしれへん」
「……えっ?!」

 その人は三年生の北信介先輩、と名乗った。確かにキタさん、だし、シンちゃん、だ。ついでにおばあさんは高校の近くにある整形外科にたまに通っているそうで、恐らく間違いないだろうとのことだった。
 北先輩は笑って「ばあちゃんが言うとったん、自分やったんか」と言った。きょとん、としてしまうと北先輩は詳しく教えてくれた。何でもつい一週間ほど前、おばあさんに会ったときに「信ちゃん、学校のお友達に刺繍好きな子おる?」と聞かれたそうだ。北先輩はもちろん心当たりはなくて「知らへんけど」と答えたら、おばあさんは少し残念そうに「そうやんなあ」と笑っていたという。北先輩はおばあちゃん子だそうで、その刺繍が好きな子≠見つけてあげたくなったのだという。クラスメイトに刺繍好きの子がいないかをちらほら聞いてみたけれど、とんとそれらしき子は見つけられず困っていたのだそうだ。

「あの、不躾なお願いなんですけど、これおばあさんに渡してもらえませんか」
「それは構わへんけど……せっかくのハンカチ、渡してもうてええん?」
「はい。そんな上手ちゃうけど、おばあさんがくれた本のおかげで頑張れたから、ほんのお礼です」

 照れつつ言って北先輩にハンカチを渡した。それをじっと見つめてから北先輩の大きな瞳がまたこちらに視線を戻す。笑って「ばあちゃん、喜ぶわ」と言ってくれた。



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さんておる?」

 金曜日の昼休み、そんな声が教室の入り口から聞こえた。声をかけられたのは廊下側の一番後ろに座っている男子生徒。でも、本人であるわたしの耳にも届いていたため、顔を上げて「はい」と返事をする。ぱちっ、と目が合ったのは、北先輩だった。慌てて近寄って「こんにちは」と挨拶をする。北先輩も「こんにちは」と笑って返してくれた。

「これ、ばあちゃんから渡してほしいて言われてな」

 そう言って北先輩はわたしに差し出したのは、バス停で会った日に持っていた小物入れと似た小物入れだった。おばあさんが持っていた小物入れに刺繍されていたのは猫だったけど、わたしの手元にあるものはかわいい小鳥。思わず「かわいい」と言葉が溢れる。北先輩は「いつか会えたら渡そうと思うとったみたいやわ」と言った。

「ばあちゃん、よっぽどさんと話したんが楽しかったみたいやわ。ありがとうな」
「えっ、そんなお礼言われることちゃいますよ。わたしも楽しかったです。いっぱい教えてほしいこともあるし、また会えたら嬉しいなって」

 言ってしまったあとで、あ、と思った。これじゃあまるで、会わせてほしいと北先輩にお願いしているみたいになってしまった。慌てて「どこかで偶然、会えたらええなって意味で」と付け足しておく。北先輩はじっとわたしを見て、「さんがよかったら、ばあちゃんち行くか?」と言った。

「今日は部活オフやし、ばあちゃんも家の掃除するって言うとったからちょうどおると思うけど」
「え、え、そんな、ご迷惑は」
「迷惑ちゃうよ。ばあちゃん、会いたいって言うとったし」
「……ほんまに迷惑ちゃいますか?」
「はは、心配性やな」

 北先輩は「放課後、迎えに来るわ」と言って、くるりと踵を返した。いいのかなあ。ぼんやりそう思いつつ北先輩の背中を見送る。全然話したこともなかった幼馴染が所属する部活の先輩と、こんな不思議な縁で繋がった。でも、なんだか、素敵な縁かも。そんなふうにちょっとふわふわした気持ちになってしまった。


これがプロローグだった