はっきり言って、まあ冷たい言い方になるけれども、期待はしていなかった。 そういうことに興味があるタイプじゃないだろうし、とか。 別に何かを求めているわけでもないし、とか。 いろいろ言葉が頭の中に浮かんではシャボン玉が消えるように跡形もなくなくなってしまう。 先ほどメッセージが届いたばかりのスマホをちらりと横目で見て、ひとつため息がもれていった。
 二ヶ月前に一年生のころから好きだった人に告白した。 二年程片思いをしたわけなのだけど、向こうにとってはそれなりに仲の良い女友達でしかないだろう。 そう思ってほとんど玉砕覚悟だった、のに。 あろうことか至極冷静な声で「俺も好きやで」と言われたのだ。 あまりに驚いて固まってしまったものだ。 顔色ひとつ変えずに言うことじゃない。 多少照れつつ「じ、実は俺も……」みたいな感じになる場面だったはずなのに。 いや、そもそも「お前のことはそういう風には見てへん」と言われるつもりだったから文句を言える立場ではないのだけど。
 そんなこんなで、わたしは二年片思いした相手とめでたく恋人になったのだった。 ここまでは誰もが一度は妄想したことのある少女漫画のストーリーだろう。 しかも漫画のクライマックスに持ってこられてもおかしくないシーンに違いない。 けれど、現実はそう甘くはない。 何せ相手が相手だ。 北信介。 わたしが好きになったその人は、少女漫画に出てくる男の子とは次元が違うのだから。

「分かっとったけどさあ」

 ぼそりと呟く。 スマホを持ち上げてじいっと見つめる。 見たって何も変わらない。 送られてきたメッセージは絵文字も何もない実にシンプルな文面だ。 「どっちも練習やであかんわ」、それだけが書かれている。 何があかんのかと言うと。 今週の土日に近所の神社で小さな夏祭りが行われるのだ。 夏祭りのことは言わずに「今週の土日のどっちか空いとる?」と聞いてみた。 それに対する返答がそれ、というわけだ。
 付き合い始めて二ヶ月。 わたしは北くんと本当に付き合っているのか正直よく分からないままでいる。 二人で登下校をするわけでもない。 お昼をいっしょに食べるわけでもない。 休みにデートをするわけでもない。 なぜかというと。 北くんは朝練があって朝早いし、帰りも練習で遅い。 お昼は大抵部活の人と食べているからわたしが入る隙間がない。 休みの日はほとんどすべて部活で埋まっているからわたしが予定を入れたくてもとっくに北くんの予定は埋まり切っている。 つまるところ、北くんは部活で忙しすぎてわたしはどうしようもないのだ。
 ため息をつきつつスマホをぽちぽちと触る。 「そっか」という文に汗マークをつけておく。 たぶん何かあったのか聞かれるだろうから、なんでもないと返さなきゃなあ。









 わたしの部屋は二階にあって、窓は街の中心部のほうを向いている。 ぼうっと夕焼けに染まっていく空を眺めながら、遠くから聞こえてくる祭囃子に耳を傾けた。 家の前の道を浴衣を着た女の子が楽しそうに歩いていく。 それを見てぼそりと「ええなあ」と言葉がもれた。 子どもはお母さんや兄弟と。 中学生くらいの子たちは友達と。 高校生くらいの子の中には彼氏らしき男の子と歩いている子もいた。 手を繋いで、楽しそうにしゃべりながら。
 土曜日は見たり聞いたりしたら羨ましくて泣きそうだったから窓を閉め切ってずっと勉強をした。 でも、どうしても、そういう雰囲気に浸りたくて、今日は窓を開けてしまった。 それが間違いだった。 行きたかったなあ。 どんどん暗くなっていく空を見つめてため息。 母親にも「お祭り行かへんの?」と声をかけられた。 きっと毎年行っていたから不思議に思ったのだろう。 それに「行かん」とそっぽを向いたまま言ったら母親は「まあ友達みんな彼氏と行っとるんやろ」と哀れみの目で見てきたっけ。 わたしにだって彼氏、いるんだよ、一応。 母親には話していないし友達を彼氏に取られたかわいそうな娘として見ておいてもらうことにした。
 今頃神社では地域の和太鼓チームによる演奏が始まる頃だろうか。 そう思うときゅっと組んだ自分の腕をつかんでしまう。 別に和太鼓が特別好きとか、お祭りにどうしても行きたかったとかそういうわけじゃない。 焼きそば食べたいとか綿菓子食べたいとか。 そういうんじゃ、ないんだけど。
 風に乗ってくるお祭りの雰囲気。 楽しそうな声が遠くから響いてくる。 部屋でそれを聞いていると、本当に別世界が遠くに広がっているように思えてしまった。 寂しいやつだなあ。 けれど仕方がない。 相手は北くんだから。 元々期待していなかった。 きっと部活ばかりで遊びに行ったり二人で会ったりすることはないだろうと思っていた。 仕方ない。 むしろ付き合えたことだけで満足しないといけない立場なのだから、贅沢を言ってはいけない。 そう、贅沢なんだこれは。 贅沢を言っているんだ、わたしは。
 深いため息をついて窓の外から視線を逸らす。 贅沢だとどれだけ言い聞かせてもため息が止まらない。 期待はしていなかった。 贅沢だと分かっている。 どちらも嘘だ。 期待していたし贅沢なんて微塵にも思っていない。 北くんと付き合うことになったときに、彼女にだけはちょっとくらい特別な感じを出してくれるかと思ったし、部活より優先してくれる瞬間もあるんじゃないかって思った。 おこがましいにも程がある。 本当に、恥ずかしいやつ。



 はっとして顔を上げる。 少し開けていた窓のほうに顔を向けると、薄暗くなってきた空に一番星が見えた。 その下、家の前の道に目を向ける。 そこにはジャージ姿の北くんがわたしの部屋を見上げて立っていた。

「き、北くん何しとんの?!」
「部活終わったで来てみた」

 前に何回かいっしょに帰ったことがある。 家を覚えていたようだ。 北くんはスポーツバッグを肩にかけ直しながら「時間ある?」と辺りを少し見てから言った。 二階にいるわたしと話すのはちょっと周りが気になる。 わたしも同じくだ。 わかった、と返事をして部屋を出た。 わたしの部屋のドアが開いた音に反応した母親が「あれ、お祭り行くん?」とリビングから顔を出す。 「知らんけどちょっと出てくる」と答えたらさらに不思議そうな顔をされた。
 玄関で靴を履きつつふと自分の格好を思い出す。 ふつうの部屋着で来ちゃったけど変じゃないだろうか。 玄関に置いてある小さな鏡で髪の毛だけちょっと直してから、そうっとドアを開けた。

「突然で悪いな」
「え、いや、ううん! 全然!」

 北くんはじーっとわたしのことを見て「ちょっと付き合うてくれるか」と言った。 断る理由がない。 「うん!」と答えたら北くんはくるっと方向転換して歩き始める。 そのあとについて歩いていくと、自然とにこにこしてしまった。 さっきまであんなにネガティブだったのに。 単純なやつめ。 内心ちょっと恥ずかしくなりつつも、北くんの顔を見られただけで世界で一番ハッピーになれていた。
 お祭りへ向かう、のかと思っていたのに。 北くんの足はどんどんと進み、お祭りの会場を通り越していった。 お祭りに行く、と言われてはいなかったけど勝手に目的地はそこだろうと想定していたので困惑してしまう。 首を傾げつつもついていくと、北くんは一軒家の前で立ち止まった。 誰のおうちなのだろう。 不思議に思っていると北くんはわたしをよそにずんずんと家の敷地へ足を踏み入れ、しまいにはチャイムも鳴らさずに玄関を開けた。 そうして「ばあちゃん」と家の中に呼びかけた。 ばあちゃん、というと?
 家の奥から小さな足音が聞こえてくる。 そうして優しそうなおばあちゃんがにこにこと笑って「よう来たなあ」と北くんを見上げた。 二、三なにか会話をしてから北くんがくるっとわたしを見る。 入っていいのか分からなくてまだ敷地の外にいたわたしを手招きしてくれた。 そそくさと近寄っておばあちゃんにあいさつをする。 にこにこと笑って「まあ、えらいかわいい子やないの」と言ってくれるものだから照れてしまった。

、嫌やったら嫌って言うてくれてええんやけど」
「う、うん?」
「浴衣着てくれへんか」
「え、浴衣? どういう……?」

 北くんがいつもあまり変わらない表情を少し変える。 恥ずかしそうな顔だ。 初めて見たかもれない。 ちょっと驚いているわたしに気が付かないまま、北くんはバッグを置きつつ「その」となんとなく言いづらそうに口を開いた。

「……彼女ができたってばあちゃんに言うたら」
「う、うん」
「なんや、はりきってしもうたみたいで、に浴衣を作ったんやと」
「……え、わたしに……?」

 北くんにじゃなくて? 首を傾げていると北くんはそれをわたしが嫌がっていると勘違いしたみたいで「いや、ほんまに無理にとは言わへん」とちょっと焦り始める。 逆にわたしがそれに焦ってしまって「いや、あの、嫌とかやなくて!」とあわあわしてしまう。 それを見ていたおばあちゃんはくすくすと笑って「仲ええわあ」と優しい声で言った。
 少し緊張しつつ家にあがらせてもらうと、おばあちゃんはどこか楽し気に「信ちゃんの話聞いて、似合いそうやと勝手に思うたんやけど」と言う。 北くんを縁側に残して奥の部屋へつれていってもらうと、机の上に白地に青色の朝顔が涼し気な浴衣がきれいに畳まれていた。 黄色い帯が横に置かれている。 あまりにきれいな色合いで、ぼそりと「きれい」と呟いてしまった。

「今どきの子に作るにしては柄が古かったやろうか……」
「えっ、いえ、ぜんぜん! すごくきれいです!」
「ありがとうねえ、わがままに付き合うてくれて」

 これ、本当に手作りの浴衣? そう驚いてしまうくらいきれいだ。 入口で固まっているとおばあちゃんが手招きしてくれる。 あ、それ。 ちょっと笑ってしまった。 さっき家の前で北くんがわたしに向けてやった手招きとまったく同じ雰囲気だった。 北くんはおばあちゃんの家によく遊びに行っていた、といつかに言っていた。 きっとおばあちゃん子なんだろうなあ。 そう思うとほほえましい気持ちになった。

「おばちゃんもむかーしに大好きやった人とお祭りに行くとき、浴衣は何着てこうかって三日三晩悩んだ時代があったわあ」

 にこにこと笑う。 おばあちゃんは浴衣を丁寧に広げると、「朝顔の柄にはね」といたずらをする子どものような無邪気な顔を見せてくれた。

「愛情とか固い絆っちゅう意味があるんよ。 大好きな人と行くお祭りにぴったりやろ?」

 「信ちゃんにはないしょやで」とおばあちゃんはやっぱり無邪気な顔で笑った。 てきぱきと準備を整えて、浴衣の着方なんてほとんど分からないわたしにするすると浴衣を着せてくれる。 きれいに帯をしめて完成、かと思ったら「そこ座れる?」と言われたので座布団の上に座った。 すると、おばあちゃんはわたしの髪をくしで丁寧にといてから、慣れた手つきで髪を結い始めた。 そうして引き出しからかわいらしい簪を取り出すと、また無邪気な顔で言う。 「これな、信ちゃんがまだこーんな小さかったとき、ふざけて付けたったことがあるんよ」と。 それ以来なぜだか北くんはこの簪を気に入って、子どものころ遊びに来るたびこっそり引き出しを開けてじっと見ていたのだそうだ。 だけどだんだん大きくなるにつれ、引き出しをこっそり開けることはしなくなったのだとか。 けれど、おばあちゃんは今でもこの簪を同じ場所から動かさずにずっときれいにしまっていたんだとか。

「いつかな、信ちゃんが大好きな子連れてきたら、その子につけてもらおう思てたんや」

 「はい、できた」と鏡を渡してくれた。 浴衣の朝顔と同じ美しい青色のトンボ玉。 ゆらゆらと揺れるそれは眩しい光ではなくて淡くて優しい光を放った。

「よう似合うとるわあ。 さすが信ちゃんの大好きな子やなあ」

 ちょっと恥ずかしい。 縮こまってしまうとおばあちゃんはほほえましそうに小さく笑った。
 おばあちゃんに言われて先に玄関へ行き、下駄まで用意してくれていたので履かせてもらう。 痛くなりにくいものをいろんなお店を見て探してくれたのだそうだ。 それでも「痛とうなったらごめんね」と気遣ってくれるのだから恐縮してしまった。 北くんを呼んでくると言っておばあちゃんは部屋の奥へ行ってしまう。
 夕日は沈みかけて少し空が暗くなってきた。 ここからがお祭りの本番、というような時間だ。 涼しい夜風が吹いてきて心地よい。 なんだかふわふわとした気持ちを抱えて空を見上げていると、玄関から物音が聞こえた。 振り返ると、いつの間にか私服に着替えた北くんがじっとこちらを見ていた。 おばあちゃんはいなかった。 どうやら北くんを呼びに行ってそのままそこで別れたみたいだ。 たぶんおばあちゃんが何かしら気を遣ったのだろうと分かってしまって恥ずかしい。

「あ、あの、北くん」
「……そのトンボ玉の」
「え! あ、う、うん、貸してくれて……」
「ガキんころ、なんや分からへんけどそれ好きやったわ、俺」

 懐かしそうな瞳。 北くんは靴を履いて玄関の戸を閉める。 じいっとわたしを観察している。 あまりにじいっと見てくるので恥ずかしくなってきた。 北くんはもう一度トンボ玉の簪に視線をやると、「うん」と納得したように呟く。

「昔はなんでそれが好きなんか自分でもよう分からへんかったけど」
「うん?」
「きれいやから好きやったんやな、たぶん」
「……ふつうそうやないの?」
「いや、が付けとんの見たらそれがよう分かった」

 「すっきりしたわ」と言って北くんは満足そうに言った。 依然としてじっとこちらを見てくるので思わず「あんま見られると恥ずかしい……」と呟いてしまう。 北くんは「すまん」と言いつつも見るのをやめない。

「よう似合うとるなあ、思うて」
「……ふふ」
「なんで笑たんや」
「いや、ごめん、おばあちゃんと同じこと言うで、おもろくて」

 北くんは照れくさそうな顔をして「まあ家族やし、感覚が似とるんかもしれへん」と言った。 なんだか笑いが止まらないわたしを少し困ったように笑ってから「祭り終わってまう」とようやく歩き始める。 わたしも隣を並んで歩いていこうとしたら、北くんが何の前触れもなくわたしの手を握った。 ちょっと驚いてしまう。 北くんってこんなに積極的な人だったっけ。 手をつないだことは数回あるけど、ほとんどわたしからだったような。
 そんなわたしに気が付いた北くんはこちらを振り返る。 手を握ったまま「嫌やった?」と聞かれた。 その瞬間、空に大きな花が咲いた。 びっくりしてわたしも北くんも空を見上げる。 知らない間に花火の時間になっていたようだ。 いろんな色の花を咲かせては消えていく。 きらきらと夜空を彩るそれに目を奪われていたら、なぜだか北くんの手をぎゅっと強く握っていた。 きれい。 花火なんて子どものころに何度も家族で見に行ったし、友達とだって見に行った。 そのときだってきれいだって思った。 同じ”きれい”なんだけど、今思った”きれい”は明らかに何かが違った。 それはきっと、北くんと見ているからなのだろうと、手の体温を感じたらよく分かった。


きっとこれがはじまりの合図