一人暮らしをはじめた北くんの部屋は、無駄なものが何もない。 小さな本棚と小さな机、特記するような特徴のないベッド。 恐らくほとんどつけられていないのだろうと分かる小さなテレビ。 部屋に入るたびになんだか寂しいと感じるけれど、同時に北くんらしいとも思える。
台所には少し生活感はあるけれど、やっぱり物は少ない。 必要最低限の食器、必要最低限の食材、必要最低限の掃除道具。 いつ来てもそれを保っているから少し笑ってしまうほどだ。 はじめて見たときはあまりにもきれいにされているから、自炊をあまりしないのかと思っていた。 けれど、話を聞けばほぼ毎日自炊をしているというし、近くにあるごみ箱を見てそれが嘘ではないとも分かる。 ああ、毎日料理をしたあと、きれいに掃除をしているのだろう。 そう思ったら、なんて北くんらしいのだろう、とやっぱり笑ってしまった。
「何すんねん、急に」
わたしの目の前、というか、下で北くんが天井を見上げながら真顔で言う。 北くんの頭の下には白い枕。 帰ってきたときそのままの北くんはコートを着ているしマフラーも巻いたままだ。 それはそうだ。 ベッドの近くでマフラーをとろうとしていた北くんを、わたしがベッドに押し倒したのだから。
嘘みたいな本当の話。 高校生のときから付き合い始めたはずの北くんとわたしは、未だに、キスのひとつもしたことがない。
「危ないやろ。 手首捻ったりしてへんか?」
「……してへん」
北くんは少し黙ってから不思議そうな顔をした。 わたしがちょっとじゃれついただけだと思ったらしい。 すぐ退かないからそんな顔をしているのだろう。 黙ったままわたしの顔を見上げていたけれど、ようやくわたしの様子がちがうことに気が付いたようだった。 「なんや、眠いんか」と見当違いなことをいうものだから少しだけがっくりしてしまう。 そうじゃない。 かといって自分から言い出すのは恥ずかしい。
「…………わたしのこと、好き?」
「は」
は、の口の形のまま固まった。 北くんはまったく無表情を保って完全に動きを止めてしまう。 たぶんわたしが何を考えてそういうことを聞いてきたのかを考えているのだと思う。 頭ごなしに面倒だとは言わない。 ちゃんと理解しようとしてくれている。 そういうところが好きなのだけど、今はなんでもいいから話してほしくてたまらない。
しばらく固まっていた北くんがようやく動く。 「よう分からんけど」と言いながら右手を伸ばす。 指先でちょん、とわたしのおでこに触れた。
「好きやで」
ぎゅん、と凄まじい勢いでときめいてしまったのが自分でよく分かる。 分かるのだけど、うれしいのだけど、いま求めているものはもう少し先にある。 北くんの言葉にもちろん嘘はないと分かるし、こんなことをしても怒らないくらい想っていてくれるのも分かるけど。 求めるのはわたしばかりな気がしてしまって不安になってしまう。
無駄なものが何一つないこの部屋の二人でいると、わたしだけぽつんとはみ出た無駄なものなんじゃないかと、思える瞬間がある。 北くんにとってわたしは必要なものなのだろうか。 必要最低限のものなのだろうか。 そんなくだらないことを考えてしまう瞬間が、たまにあるのだ。
何かを求めてくれればいいのに。 わたしがあげられる範囲で、わたしが応えられる範囲で、何かを求めてくれればいいのに。 そういつも思っているけれど、北くんがわたしに何かを求めたのは覚えている限り一度だけ。 高校三年生の春に「俺と付き合ってくれへんか」と言ったその一度だけだった。
「……北くん」
「なんや」
「…………わたしに、なんか……してほしいことある?」
北くんが再びぴたりと動きを止めた。 言葉の意味をまた考えてくれているのだろう。 ぱちりと瞬きをしてから北くんの口から飛び出た言葉は予想外のものだった。 「なんでもええん?」と、無表情のまま言った。
「な、なんでもええよ」
「ほんまに?」
「うん」
「せやったらマフラーとってくれへんか」
「へっ」
「そのあとコート脱がせて」
ぽかん、としてしまう。 そういう、意味では、ないのですが。 内心またがっくりしつつも「分かった……」と答えて、ひとまず北くんの手を引っ張って上半身を起こす。 介護ロボットになった気分。 そういうことじゃないよ、北くん。 言うのが恥ずかしくてすべてを委ねてしまったわたしが悪いのだけど。
北くんの膝に座ったまま、しっかり巻かれたマフラーをほどく。 それをできるだけ丁寧に畳んでからひとまず近くに置いておく。 それから北くんが去年から気に入って着ているコートのチャックを下ろして脱がせる。 ハンガーにかけようとしたけれど、北くんが「ここ置いといて」とベッドを叩いた。 いつもすぐにハンガーにかけるのに珍しい。 少しだけ不思議に思ったけれど、そういうときもあるのだろう。 言われた通りできるだけしわにならないように畳んで置く。 次はなんだろう。 退いて、とかかな。 そんなふうに思っていると、北くんはタートルネックの首元を直しながらじっとわたしを見つめる。 当然のように「脱がんの?」と聞かれ、自分もまだマフラーを巻いた上にコートを着たままだったことを思い出した。 「脱ぐ……」とテンション低めに返しつつ北くんの上から退こうと膝立ちした、の、だけど。 がしっと北くんに肩を掴まれてしまう。 驚いていると北くんがものすごく不思議そうに「なんで降りるんや」と言うものだから、「え、あ、うん」とだけ答え、また膝の上に座ることとなる。
どういう状況なのだろうか。 自分が招いたものではあるのだけど、よく理解できていない。 北くんの膝に座ったままマフラーをとる。 マフラーは北くんが自然に回収して畳んでくれた。 コートも同じく畳んでくれて、先ほどわたしが北くんのコートを置いた隣にそっと置いてくれる。 きょとんとそれを見ていると、北くんの視線がわたしに戻ってきた。
「まだなんかしてくれるん?」
「え、あ、うん……わたしができることなら……」
「ぎゅってしてもええ?」
思わずびくっとしてしまう。 そんなことを言われたのははじめてかもしれない。 滅多に抱きしめたりとか抱きしめられたりとかもないから、北くんはそういうのがあまり好きじゃないのかとすら思っていた。 わたしが小さく頷くと、北くんはすぐに両腕を広げてぎゅっとわたしを抱きしめる。 どきどきする心臓の音が聞こえていないか少し気になってしまう。 それくらい強い力で抱きしめられたのは本当に久しぶりで、どうしたらいいのか分からない。
しばらくしてから北くんが腕をほどく。 再びわたしのことをじいっと見つめるようにして、「まだええん?」と言う。 自分から言ったことなのに、北くんに何かを求められるということにどきどきしてうまく言葉が出せない。 さっきと同じように小さく頷くだけになってしまった。
「俺のこと好きって言うて」
「えっ」
「あかん?」
「……す、好き」
「もう一回言うて」
「……北くんのこと、好きやよ」
じいっと見つめられている。 北くんは映画の重要なシーンでも観るかのようにわたしの顔を見つめていた。 その瞳の力があまりにも恥ずかしくて少し視線を下ろしてしまう。 北くんの胸のあたりを見たまま固まっていると、ふっ、と小さく笑った声が聞こえた。
「これ以上、何してくれるん?」
楽しそうな、うれしそうな、噛みしめるような。 自惚れているかもしれないけれど、そんな声に聞こえた。 思わず顔を上げてしまう。 北くんの頬がほんのりと赤く染まっていて、表情が柔らかくへにゃっと崩れている。 こんな顔を見られるのは恐らくこの世界でわたしだけなのだろう。 わたしは北くんにとって無駄でも、必要最低限でも、必要なものでもない。 もっと別の何かになれているのかもしれない。 そんなおこがましいことを思ってしまうほどに、愛しいと、うるさく心臓が叫んでいた。
世界のすべてを愛するということ
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