――九月三十日 日曜日

「赤葦やばい、どうしよう、本当にどうしよう?!」
「痛い、腕がもげる、やめろ」

 朝、木兎さんとともに体育館へやって来た赤葦の腕を引っ掴んで、木兎さんに「ちょっと借ります」と声をかけた。赤葦を用具庫へ押し込んだのちこうして泣きついている。

「まあ、毎日使うものだからね。早めに買い換えるのが普通じゃない?」

 そう呆れたように言う赤葦が用具庫のドアの隙間からちらりと外を見た。その先には木葉さん。楽しげに鷲尾さんと談笑している横顔がわたしにも見えた。
 朝、木葉さんに会ったときに「お誕生日おめでとうございます」と声をかけた。木葉さんはそれに少し間を置いてから「ありがとう」と言ってくれた。その木葉さんが肩に掛けていた鞄。その外ポケットに、見覚えのないものが入れられていたのだ。リールが付いているそれはまさしくパスケース。木葉さんが買い換えた新しいものであった。
 誕生日プレゼントと駄々被りなのである。わたしが買ったものもパスケース。木葉さんが買い換えたものもパスケース。パスケースのゲシュタルト崩壊なのだ。困った。これでは木葉さんもリアクションに困ってしまう。本当の本当に大ピンチだった。
 日付が回ると同時に木葉さんにはメッセージを送った。プレゼントを渡したいから日曜日に少し時間がほしいと添えて。木葉さんは起きていたようでそれにすぐ返信をくれた。「分かった」というものだった。
 そういえば、ちょっとだけ違和感を覚えたっけ。木葉さんはいつも文章を多めに返してくれていたのに。そういえば今朝もそうだった。おめでとうございます、というわたしの言葉にいつもなら言葉を多めに返してくれる木葉さんが、ありがとうの一言だった。別にそれが当たり前だし何か言ってほしくてお祝いしたわけじゃない。少し違和感はあるけど、気に留めないことにした。

「仕方ないじゃん。もう今から準備もできないんだし、正直に話して渡すしかないよ」
「気の利かない上に予想も立てられないだめな女に思われる……」
「一回木葉さんに謝ったほうがいいと思う。本当に」

 そんな人じゃないって、といつものように呆れつつ言ってくれる。そうだね、そうだよね。木葉さんはそんな冷たいことを言う人じゃない。優しくて、とてもとても温かい人なのだから。どうしてわたしを好きになってくれたのか分からないほど、わたしにはもったいない人なのだから。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 練習試合終わり、木葉さんに声をかけた。自分から声をかけるなんて滅多にないから緊張したけど、今日を逃せるわけがない。部室に戻ろうとする背中に「木葉さん」と呼びかければ、当たり前のように立ち止まってこちらを振り返ってくれて嬉しかった。

「メールでも送りましたけど、このあと少しいいですか」
「みんな帰ったあとの部室でもいいか? 帰り送ってくから」
「あ、はい」

 もう部員の半数は帰ったあとだ。自主練習をしていた人たちも少なくて、もう十五分もすれば部室から誰もいなくなるだろうとのことだった。鍵は木兎さんから預かって、木葉さんが返すことにするらしい。
 それにしても木葉さん、なんだか少しだけ元気がないような。部員のみんなからも誕生日を祝われて楽しそうに笑っていたけど。そういえば赤葦も終盤は少し元気がなかった。練習試合は完勝だったし連携ミスもなかった。どうしたんだろう。不思議に思いつつ、部室へ向かう木葉さんを見送ってからわたしも更衣室へ向かった。
 鞄に入れてある木葉さんへの誕生日プレゼント。きっと木葉さんからすればいらないものなのだけど、これしか手元にプレゼントらしいものがない。困った。完璧なチョイスだと思ったのに。赤葦が言っていた通り、毎日使うものが壊れたら早めに買い換えるのは当たり前だ。ちょっと残念だけど、先に何を買うかわたしが宣言しておけばこうならなかった。サプライズにはならないけど、確実に喜んでもらうにはそうするべきだったな。そう反省しておく。
 手持ちのもので何か代用できるものはないか、と悪あがきで探してみたけれどいいものは一つもない。困った。そう頭を悩ませつつ着替える。制汗剤を使いつつ悩ましげにしているわたしを見た雀田さんが「かわいい顔がブスになっちゃってるよ〜」と頬をつついてくれた。そりゃブスにもなります。彼氏へのプレゼントが不発に終わりそうなので。素直にそう白状したら、白福さんも混ざってきてわけを聞いてくれた。

「えー、木葉そんなのでがっかりする男じゃないと思うけど?」
「そうですかね……」
「うんうん。なんでも喜ぶタイプだと思うけどな〜」

 わたしのこの失敗をフォローしてくれるだけの度量は確かにあると思う。優しいし、木葉さん。正直に話したら受け取ってはくれるかなあ。そうウンウン悩んでいると、白福さんが「ちゅーの一つでも添えてあげれば?」と笑った。

「そっ……そんなんで、あの、喜んでくれますかね?」
「喜ぶに決まってんじゃん。彼女からちゅーされて喜ばないやつなんか捨てちゃいな」
「そうだそうだー」
「え、ええ……」



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




――そのころの赤葦京治

「いやもう本当すみませんでした、本当にそういうんじゃないです、すみませんでした」

 冷や汗が止まらない。だから嫌だって言ったんだよ、俺。そう、ここにはいないに文句を付けておく。
 俺とが土曜日の午後に一緒にいたことを、なぜか三年の先輩が全員知っていた。練習試合後にこそっと木葉さんから「あとで土曜日のこと、事情聴取」とだけ言われて、今に至る。なぜ知っているのか聞いてみると偶然俺とが行ったショッピングモールに全員で行ったのだという。フードコートで食事を取っているところを目撃された、というわけだった。

「なんでかは言えないんですけど、に頼まれてちょっと買い物に付き合っただけで、断じて恋愛感情はないです。異性として意識したことは死んでもないです」
「おいコラ先輩の彼女に対してどうなんだよそれ」
「どうすればいいんスか……」

 ここでどうしてに頼まれたのかを言ってしまうと、さすがにが不憫だ。ここはどうにか黙っておいてやったほうがいいだろう。誤解を解くのがかなり面倒だけれど。そう思いつつちらりと木葉さんを見る。表情から察するに木葉さんを含めた三年生全員が、そういう、の浮気だとかを疑っているわけではなさそうだ。それにはちょっとほっとした。

「逆に俺から言わせてもらいますけど、お願いなんで木葉さん、ともうちょっと話してください……後輩を助けるつもりで……」
「え、えー……だって俺、なんかあんまり好かれてないっぽいしさ……」
「本当に、それは、ないんで!」
「赤葦の語気が珍しく強い」

 けらけら笑った小見さんが「分かった! 逆に赤葦が巻き込まれたやつだ?」とその通りすぎる発言をしてくれた。助かった。これで俺の冤罪は証明されただろう。
 どうにかこうにか説明を付けて部室を出る。木葉さんは部室の鍵当番をするそうで残るつもりらしい。いつも木兎さんがやっているので珍しいな、と思いつつ階段を下りていく。一番前を歩いていた木兎さんが「お、だ!」と言う。それで大体のことは把握した。俺たちから見えない位置で待機しているつもりらしい。残念ながら階段からは丸見えである。ってちょっと抜けてるんだよなあ。そう思いつつ、声を掛けようとする木兎さんを制止しつつ、何も気付かなかったふりをして全員で部室を後にした。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 他の人たちが帰っていったのを確認してから、こそこそと部室棟へ近付く。それと同時に木葉さんからメッセージが届いた。「迎えに行こうか?」の一文に「もう近くにいるので大丈夫です」と素っ気なく返してしまう。なんでこう、もっとかわいい文章で返せないかなあ。自分が嫌になる。
 二階の部室前に到着して、静かにドアをノックする。中からすぐに木葉さんの声がしたのでゆっくりドアを開けると、木葉さんが椅子に座って待ってくれていた。

「お疲れ様です。すみません、練習後で疲れているのに」
「いやいや、全然。俺も二人の時間作りたかったし」

 そういうことをさらっと言うから困る。木葉さんの隣にある椅子に腰を下ろして「あの、改めてお誕生日おめでとうございます」と伝える。木葉さんは少し照れくさそうに「ありがとう」と笑った。
 プレゼントがあるんですが、と鞄に手を掛けたとき。木葉さんが「その前にいい?」とわたしの顔を覗き込んだ。まさかここで話題を変えられると思わなかったのでびっくりしてしまう。「はい」とだけ返事をすると、木葉さんがほんの少しだけ緊張している様子に気が付いた。

「昨日の練習終わり、何してた?」
「えっ……えーっと、び、備品を、買いに行っていました、けど?」
「俺がついて行ってもいいか聞いたら断ったやつだよな」
「は、はい」
「俺はついてっちゃだめなのに、なんで赤葦はいいの?」

 完全に脳がフリーズした。浮かぶのは、なんでそれを、ということだけ。わたしは赤葦と出かけるなんて一言も言っていないし、赤葦は隠したがっていたからうっかりこぼすわけがない。どうして木葉さんがそれを知っているのだろう。
 困惑しているわたしに木葉さんが、たまたま土曜日に三年生みんなで同じショッピングモールに行ったと教えてくれた。そこでわたしと赤葦の姿を見かけたのだという。
 なんで赤葦はいいの、と聞いた木葉さんの顔を見て、あ、と思った。わたしは誕生日プレゼントを木葉さんに喜んでもらうことで頭がいっぱいで、そもそも赤葦とはいえ男の人と二人でいることを嫌がられないか、という根本的なことを考えていなかった。赤葦は友達で仲が良いことを木葉さんも知っているから何も思わないだろう、と深く考えずに。お願いしたときに赤葦が渋ったのも頷ける。仲が良かろうがなんだろうが、彼氏からすればあまり良い気はしない。完全に考えが足りなかった。

「……あの、木葉さん」
「うん」
「ごめん、なさい。赤葦は悪くなくて、わたしがお願いしたんです……」
「うん。なんで?」
「プレゼントを、どうしようか、相談していて……」
「え、それって俺の誕生日の?」
「はい……」

 結局デザインも色もわたしが選んだから、赤葦は本当に御守みたいな存在になってしまった。それでも、すぐに相談できる相手がいてくれたことは助かった。今度赤葦にもちゃんとお礼をしよう。縮こまりながらそう思っていると、木葉さんが一つ息を吐いて「よかった〜」と安心しきった声で呟いた。

「赤葦とめちゃくちゃ仲良いから、俺より赤葦のほうが好きなんじゃないかって……」
「え?! いや友達としては大好きですけど、異性としては意識したことないです! 木葉さん以外の人をそういうふうに見たことないですよ!」

 勢いで言ったそれに、あ、と思わず声がもれた。なんか結構大胆なことを言ってしまった気がする。固まるわたしと同じく木葉さんも固まっている。こんなふうに感情をしっかり出して木葉さんと話したことがあまりない。だから余計にびっくりされているのかもしれない。
 木葉さんがわたしから目を逸らした。少しだけ赤い顔。木葉さんと違って目が離せないわたしは、木葉さんに聞こえてしまうんじゃないかと思うくらいどきどきしていた。

「それなら、よかった、です」

 ぼそりとそう呟いてから、木葉さんがわたしに視線を戻す。いつも通りの明るい笑顔を浮かべて、「何くれるの?」と明るい声で言った。
 う、と今度はわたしが目を逸らした。どうしよう、わたしのミスを許してくれた木葉さんに、まさかプレゼントまで間違えてしまったなんて申し訳ない。「あの、やっぱりやり直していいですか……」と正直に白旗を揚げる。木葉さんは首を傾げて「え、何が?」と笑った。

「準備はしたんですけど……」
「なんでやり直したいの?」
「その……ぱ、パスケース、なんです、中身が……」

 苦しい思いでいっぱいになっているわたしに対して、木葉さんは目を丸くしてきょとんとしている。そのまま「え、ありがとう?」と余計に首を傾げてしまった。
 木葉さんが元々使っていたものが壊れたから選んだのに、木葉さんが新しいものをすでに使っている。そう言うと木葉さんは笑って「普通に嬉しいけど?」と言って右手を差し出してきた。「くれないの」と優しい声で言われると、まさか出さないわけにはいかない。恐る恐る鞄から包装してもらったパスケースを取り出した。木葉さんに手渡すと「開けていい?」とにこにこして言われるので、頷いて返事をしておく。
 丁寧にリボンを解いて、そっとパスケースを取り出した木葉さんが「めちゃくちゃかわいい。嬉しい」とはにかんだ。よかった。気に入ってもらえたみたいだ。

「すみません、被っちゃって……」
「なんでだよ。自分で買ったのと彼女からもらったのじゃ全然わけが違うだろ」

 木葉さんが鞄に付けてあるパスケースを取った。そこからICカードを取り出して、わたしがプレゼントしたほうに入れ直す。そのパスケースを鞄に付けると「嬉しい〜」とにこにこパスケースを見つめた。
 木葉さんの手元に残った、新しく木葉さんが買ったパスケース。わたしが買ったものよりシンプルで色味が薄いものだ。それも素敵だなあ、と見ていると木葉さんが「あ、もしよかったらさ」とそのパスケースをわたしに手渡してくる。

「え、あの」
、これ使ってよ。今のが気に入ってるとかだったら全然戻してもらっていいので」
「……いいんですか?」
「うん。使ってくれたら嬉しいです」

 おどけてそう笑う木葉さんからパスケースを受け取る。わたしが今使っているものは、中学生のときに自分で買ったものだ。とにかくなんでもよかったから適当に買ったもので、愛着はあれど特に気に入っているというわけではない。
 手の中にあるパスケースは、木葉さんからもらった、なんて付加価値がついたこの世で一番お気に入りのものになってしまう。それはそれで、ちょっと困る。絶対汚さないようにしよう。そう、少し、にやけてしまった。
 木葉さんと同じようにパスケースを付け替える。それをじっと見ていた木葉さんに「ありがとうございます」とお礼をもう一度言うと「いやいや。こっちがね」とおかしそうに笑ってくれた。
 ちゅーの一つでも添えてあげれば。白福さんの言葉を思い出した。本当に喜んでくれるかな、木葉さん。相手がわたしでも。そうじっと見つめてしまう。木葉さんもその視線に気が付いて「何?」と優しく笑った。

「木葉さんって、どうしてわたしを好きになってくれたんですか」
「えっ」
「その、わたしって木葉さんにちょっと、素っ気ないじゃないですか」
「あ、はい。よく存じております」
「だから、どうしてなのかな、って……」

 やっぱり木葉さんも素っ気ないと思っていたんだなあ。露骨だったと自分でも思うし、それを面と向かって受けているのだから当たり前だろう。いまさら申し訳ない気持ちでいっぱいになる。少し俯いてしまった視界の中に横髪がさらりと落ちてきた。木葉さんを好きになってから髪の手入れを怠らないようになった。お風呂上がりのタオルドライはこすらないように。ヘアオイルを塗ってドライヤーで髪を傷めないように。自然乾燥させないように。そんなふうに自分なりに気にしている。女の子らしいほうが好きだと言っているのを聞いたからだ。女の子らしい見た目といえばきれいな髪。単純なわたしはそれを知った日から髪の手入れをはじめた。そんな、ささやかな、アプローチ。木葉さんには一生届かないであろうものだ。
 こんなにも大好きなのだ。わたしが木葉さんに素っ気なくしてしまうのは、ひとえに、恥ずかしいから。こうしないと木葉さんへの気持ちがだだ漏れになってしまう。それが恥ずかしくて、隠すように素っ気なくしてしまう。好きだからこそのものなのだけれど、もちろん木葉さんがそれを知るわけがない。そんなことは分かっている。分かっているけれど、素直になれない。情けない話だなあ、と拳を握ってしまう。
 木葉さんが「んー」と困ったように声を漏らした。少しだけ笑っている声でもある。そうっと視線を持ち上げて木葉さんの顔を見てみると、わたしが渡したパスケースを両手で触ったまま、こちらを見ている。声と同じで困ったように笑っている表情。それに、ぽかん、としてしまった。

「なんで好きになったかって、この世で一番難しい質問だと思うんだよな」

 木葉さんの視線が下へ向く。パスケースをじっと見つめる瞳。さらりと揺れる髪。そのすべてがやっぱり好きだと思う。この気持ちに嘘はない。けれど、確かに理由を聞かれると答えられない。どうして好きなのか。なぜ好きになったのか。言葉にできないこれ≠どう説明すればいいのか。
 ゆっくりと木葉さんがこちらを見た。いつもの優しい顔で笑ってくれる。それも、好きだと心から思う。理由はない。理屈もない。それでも好きだと嘘偽りなど一つもなく言える。

「理由は分からないけど、もっと笑った顔が見たいとか今何してるんだろうとか、そういうことをふと考えたりとか。ちょっと寝癖がついてるとか大きなあくびをしてるとか、そういうのも全部かわいいと思ったりするのはだけだよ」

 ちょっと恥ずかしそうに笑った木葉さんは「あれ、俺いま質問に答えられてた?」とおどけて首を傾げる。その仕草がかわいくて、なんだか心が少し軽くなった気がした。
 きっと、木葉さんは笑わない人だ。わたしがどんなに気持ちを爆発させても、どんなに恥ずかしいことを言っても、馬鹿にしない。なぜだかそう思った。
 木葉さんの顔を覗き込むように少しだけ背中を丸めた。木葉さんのほうに少し近付くと「ん?!」と木葉さんが驚いて少し距離を取られる。それでもわたしが何も言わずにじいっと顔を覗き込んでいるものだから、木葉さんは目をぱちくりしてしばらく固まった。

「あの」
「ん? ど、どうした?」
「その、嫌だったら、断ってもらっていいんですけど」
「は、はい」
「……ほっぺにキスしてもいいですか?」

 ばちん、と音が聞こえてくるくらいの勢いで木葉さんが頬を両手で隠した。痛くなかったのだろうか。あまりの音に少し驚いていると木葉さんが「いや、え、いい、いいですけど、なんで?」と顔を真っ赤にさせる。一つゆっくり呼吸をしてから木葉さんがわたしから目を逸らした。嫌がられているのだろうか。そう不安になっていると木葉さんがものすごい勢いで顔をこちらに向き直し「嫌とかじゃないけど! 照れてるだけで!」と言った。
 しばしの沈黙。お互いの顔を見たまま黙りこくる。外からかすかに人の声が聞こえてきたり、木々が揺れる音が聞こえたりするだけの空間。妙な緊張感に包まれた部室内は少しだけ異様な気がする。心臓がとくとく動いている。それが、なぜだか心地良い。
 なぜだか分からない。理由も理屈も分からない。それでも、好きだと思うのが恋なんだなあ。それを静かに実感していた。

「理由は分からないですけど、したくなったんです。いいですか?」

 笑ってしまった。こんなに一瞬で人は変わってしまうものなのか。これも恋がなせる業なのか。そんなふうに思っているわたしのことなど知らない木葉さんは、もうすでに真っ赤になっている顔をさらに茹で上がらせて、頬を覆っていた両手で顔を隠して「勘弁して……」と白旗を掲げる。

「木葉さん、あの」
「はい……もうこれ以上はオーバーキルになるからお手柔らかに……」
「改めてお誕生日おめでとうございます。これからもよろしくお願いします」

 顔を隠している両手は頬までは隠し切れていない。そっと顔を寄せて少しだけ見えている頬に唇を当てて、すぐに離れる。それとほぼ同時に木葉さんが両手を顔から離すと「ちょっと待て!」と半泣きにも見える必死な顔をわたしに向けた。

「心の! 準備をさせて! あとありがとう!」
「木葉さん、今日すごく元気ですね」
「元気だよ! どこかの誰かのせいで!」

 また笑ってしまう。木葉さんは再び両手で顔を隠すと「なんだよもう〜」と悔しそうに言って俯く。さらりと流れた髪の隙間から耳が見えている。赤くなっているそれがかわいい。来年も、そのまた来年も、ずっとこうであってほしいと思うほどに。
 ぼそりと「誕生日のとき覚悟しとけよ……」と情けないへなちょこの声で言われた。とてもじゃないけど怖くない。笑いながら「楽しみにしておきます」と返せば、木葉さんは余計に情けない声で「もうやめて、降参します、ごめんなさい」と呟く。それから顔を上げて両手を顔から離す。まだ赤い顔はしていたけれど、いつも通りに笑うと「いい誕生日だわ」とおどけて言った。


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