※社会人設定


 なんだこれは! 出社してまず口から飛び出たのはそれだった。昨日退勤したときにはきれいだったはずのわたしのデスク。その上に猛々しい書類の塔ができていた。おかしい、昨日やらなくてはいけないものは全部片付けて意気揚々と帰宅したのに。そう思っていると上司が「それ、明日までにね」と言った。嘘だろ、なんでだよ。思わず口悪く言いそうになったけどぐっと堪える。身に覚えがないんですが。そう恐る恐る聞いてみると上司が「来週二日も有休取るでしょ? その代わりだよ」と言った。絶句。え、有休の代わりの仕事って何?
 呆然としているわたしを置いて時間は経過してしまう。始業時間になると大人しく席につくしかなかった。意味が分からない。え、意味が分からない。どういうこと? 上司の言葉が理解できず首を傾げたままキーボードを叩く。もう立派な社畜なので少々の困惑でも指は止まらない。立派な社会人になったものだと笑うしかなかった。
 こそっと隣の席の先輩が教えてくれた。「あいつ、有休で連休作る子みんなにああいうことしてるよ」と。それは、あの、早く知っておきたかったです。知っていても来週は連休にしたけども。子どもみたいなことする人、大人になってもいるんだねえ〜。そんなふうにこそこそ陰口を言ってちょっとすっきりした。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 終わらん。泣く。机に突っ伏してもう五分ほど動けずにいる。なにこれ終わらない。終わりが見えない。わたし以外みんな帰ったフロアは静かでなんとなく肌寒くさえ思える。どうしてわたしはひとりぼっちなんだろうか。あの訳分からん理由で仕事を押しつけてきた上司は終業時間きっかりに帰って行った。わたしを気にして先輩も残ろうとしていたけど、する仕事がないのに残業をするなんて時間の無駄でしかない。気遣いにお礼を言ってどうにか帰ってもらった。
 営業の人が勝ち取ってきた仕事の事務作業なので言いづらいけど、多過ぎ。頑張りすぎ我が社の営業さんたちは。事務員の数が圧倒的に足りていません。あのクソ采配をとる上司のせいなんですけどね!
 ガバッと顔を上げて誰もいないので思いっきり言ってはいけない上司の秘密を叫んでやった。ハゲ! ヅラ! 年功序列で昇進したからってちょっといいヅラに変えてんじゃねーよ! ダンッと机を叩いて「残った毛根死んじゃえ……」と呟いた瞬間、思いっきり吹き出した声が聞こえた。

「やば、え、マジ? あの人ヅラなの?」
「うわあ木葉! いつからいた?!」
「え、結構序盤から。寝てるのかと思って静かにしてたら急に、ぶっ」
「聞かなかったことにして!」

 恥ずかしいところを見られてしまった。身なりを整えて咳払いをしてから「お疲れ」と改めて言ったら「いや、もうその感じ遅いわ」と笑われた。
 木葉とは同期で入社した。わたしは事務部で木葉は営業部。今となっては滅多に顔を合わさなくなってしまったけど、元々同期の中では一番に仲良くなった相手だ。今でも顔を合わせればこうして話す。
 それにしてもこんな時間に何をしてるんだろうか。営業の人は大抵外回りの後に直帰する人が多いと聞く。もちろん書類整理で残業していく人もいるけれど、木葉は要領がいいから最低限にしているイメージがあった。その分営業活動に時間を取られているようだけれど。
 「ほいっ」と突然木葉が何かを投げてきた。あっぶないな! 気を付けろスポーツマン! そう文句を言いつつどうにかキャッチしたそれは缶コーヒー。「頑張ってる事務員さんに差し入れ〜」とかわいこぶった声で言った。でかい男がかわいこぶっても無駄なんだけど。まあ、有難くもらうけどさ。「ありがと」とお礼を言ってから缶を開けた。

「で、なんで上司の毛根殺そうとしてたの?」
「来週有休で二連休取ってるんだけどさ〜。なんかそれが原因で機嫌損ねてるらしくて、仕事押しつけられてる」
「あ〜、あの人そういうことするタイプだよな。先輩が言ってたわ」

 自分の缶コーヒーを開けてけらけら笑った。有名だったのか、その話。なんで知らなかったんだろう。がっくり項垂れていると木葉が「二連休、なんかあんの?」と言いつつわたしの隣に座った。

「ちょっと遊びに行く予定があってね〜」
「彼氏?」
「いやいや。いないから。高校からの友達だよ」

 笑いつつ背もたれに体を預ける。ぐっと伸びをしたらどこかの関節がパキッと音を立てた。変な姿勢でじっとしていたせいだろう。少し首が痛くて思わず手で首を揉んでしまった。木葉はそんなわたしの様子を見つつ「ふ〜ん」とだけ言った。興味なさげ。ま、人の予定なんて興味ないのが普通だよね。
 時計をちらりを見ると、もう少しで日付が回りそうだった。最悪。こんな時間まで残業したの久しぶりなんだけど。深いため息がこぼれる。あと二時間もあれば終わるだろう、いや、終わらせてやる。そんなふうに意気込んでいると、木葉が座っている椅子がぎしっと音を立てたのが聞こえた。横を見てみると、木葉がこちらに顔を向けたままデスクに顔を乗せていた。じっとこちらを見ているので思わず「何?」と笑ってしまう。

「今日何の日か知ってる?」
「は?」
「ちょっとだけ息抜きだと思って付き合ってみて」

 まあ、ちょうど疲れてたし。そう思って少し考えてみる。今日は九月三十日木曜日。何の変哲もない平日だ。祝日というわけでもないし何か有名な「○○の日」があるわけじゃない。朝のニュース番組でもそういった類いの話は何もしていなかったし。こういうのは考えても分からないものだ。スマホを取り出して「九月三十日」で検索をかけてみる。

「くるみの日」
「へー、はじめて知った」
「クレーンの日」
「なんだその日」

 けらけら笑う。それ以外は特にこれといったものがないけどな。有名人の誕生日とか? 男の人が好きそうな有名人を探していると、グラビアアイドルの誕生日だと書かれていた。名前を挙げてみたけど木葉は「それは知ってる」と言うだけだった。知ってるんかい。
 あと五分で日付が回ってしまう。何の日だろうなあ。そう悩んでいると木葉が「カウントダウン〜」と言って数え始めた。え〜、と言いつつも分かるわけがない答えなのだろうと考えるふりをしておく。ごーお、よーん、さーん、にーい、いーち。木葉はけらけら笑いながら「時間切れ〜」と言った。

「えー分かるわけないじゃん。何の日なの? 個人的な記念日とかだったら殴るね」
「怖い宣言するなよ」

 むくっと体を起こして、くしゃっとなってしまった髪を直す。木葉はデスクに肘を置いて「あー」と少し上に視線を向けつつ言った。緩んだネクタイがちょっと色っぽいな、とか思ったけどもちろん口には出さない。木葉って不思議な色気があるんだよね。なんでか分からないけど。モテるんだろうな〜と思いつつ「何よ」と足を軽く蹴っておく。

「誕生日なんですよ、秋紀くん」

 それだけ、と呟いて木葉は机に突っ伏した。「お祝いしてほしいな〜」とぼそっと言ったっきり静かになる。九月三十日、誕生日なんだ? もう数分で終わっちゃうじゃん。そう言いながらつむじをつついてやる。「秋紀くんお誕生日おめでと〜」と子どもに言うみたいに言ったら「わ〜い」とノリの良い返事があった。「何ほしいの?」と聞いてみる。手持ちのもので宜しければ差し上げますが。まあ大したものは持っていないのだけど。
 木葉が顔を横に向けた。また髪の毛くしゃくしゃになっちゃうよ。笑ってやりながら髪を直してやった。うわ、さらさらなんだけど。シャンプー何使ってるのこれ。ちょっと羨ましくなりながら手を引っ込めた。

「何もくれなくていいんだけどさ」
「いらないんかい。じゃあ何?」
「その代わり、これ、もらって」

 木葉が体を起こしつつ、ジャケットの内ポケットに手を入れた。ごそごそと何かを取り出すとわたしにそれを向けた。紙が二枚。首を傾げつつ見てみると、水族館のチケットだった。よく分からない。これをもらってほしいとはどういう意味だろうか。
 木葉が差し出したままのチケットをよく見てみる。イルカの写真がきれいなそのチケットの右下に「カップル専用チケット」と書かれていた。割引が適用されたものなのだろう。はあはあ。なるほど。安く行けるからってそれにしたな? 嘘吐いちゃったんだね? そう笑っていると木葉がちょっと赤い顔をしてこっちを見た。

「俺とデートしてって言ってんだけど」

 秒針が日付を跨ぐ。誕生日終わっちゃったけど。差し出されたチケットと、赤い顔のままの木葉を交互に見て、ようやくなんとなく意味を理解した。

「…………木葉の誕生日なんだよね?」
「そうだよ。さっき終わっちゃったけど」
「わたしがチケット奢ってもらってるみたいになってるんだけど」
「いいじゃん、そんなの。誕生日だから好きにさせてよ」

 いや、もう終わってるじゃん。笑ってしまった。なんだそれ。木葉の誕生日を祝ってることになる? よく分からないけど、まあ、断る理由はないし。お誕生日様は祝わなくちゃね? そう照れ隠しで茶化しながら、チケットを一枚手に取った。


no doubt about it.

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