とおいとおい昔のひかり、抱えきれないほどの星を眺めて赤葦は静かに呼吸をする。 すう、はあ、すう、はあ。 目に見えないはずの呼吸が白色に染まって宙に消えていく。 それをぼんやり眺めてわたしも同じように呼吸をした。 すう、はあ、すう、はあ。 刺さるように痛い冷気を体に詰め込むような感覚。 決して心地よいものではない。 けれど、不思議と嫌じゃない。 きっと赤葦がとなりにいてくれるから。 そんなふうに思った。
 暗いグレーのマフラー。 一年生のときも同じものを巻いていたのを覚えている。 それ、かわいいね。 そう褒めたら赤葦は不思議そうな顔をしていた。 「そこらへんにふつうに売ってるやつですよ」、なんて言われて少し笑ってしまったのを今でもよく覚えている。 赤葦のマフラーと同じものを近所のショッピングセンターで見つけた。 千円プラス消費税。 どこにでもあるふつうのマフラー。 赤葦の言葉に偽りはなかった。 けれど、赤葦が巻くととてもかわいいマフラーに見えたし、赤葦にとても似合っていると思えた。 不思議な魔法だ。 きっと赤葦には分かりっこない魔法なのだ。
 あ、と小さく声がもれた。 赤葦が空を見上げたまま口を開けている。 その瞳は暗闇の中でも分かるほどきらきらと光っていて、きっと良いものを見つけたのだと見て取れる。 赤葦はわたしが訊くより先に「流れ星、見えました?」と正解を教えてくれた。

「えー、見えなかった。 もっと早く教えてよ」
「無茶言わないでください」

 赤葦は小さく笑うと西のほうを指さす。 「あの辺りで流れましたよ」と言ってから腕を下ろした。 赤葦が教えてくれたほうをじっと見つめる。 数えきれない星々が今にも落ちてきそうなほど輝いている。 今日はなんとか流星群の日だっただろうか。 あまり興味がないからよく分からないけれど、これだけきれいな星空なのだから特別な日に違いない。
 暗いグレーのマフラーを少し引っ張って口元を隠す。 この寒さはさすがにつらいようだ。 白く染まる息が見えなくなってしまうのは寂しかったけれど、赤葦が風邪を引いてはかわいそうだ。 我慢することにした。
 きらり。 一瞬のきらめきがまっすぐな線を描いて消えた。 見えた? 声には出さずに赤葦の瞳を窺う。 赤葦の瞳がちらりとわたしを捕らえると「見えました」と少しだけうれしそうな色を見せてくれた。 それがうれしくて笑ったら、赤葦は「子どもみたいですね」と穏やかな声で呟いた。
 願いごとなんてできそうにもない。 ほんの一瞬のできごとだから。 もともとするつもりもない。 流れ星に願うくらいならこの手でつかんでやる。 結局わたしの願いはわたししか知らないし、わたししかつかみとれない。 そんなふうに意地を張る子ども。 赤葦の、子どもみたい、という感想は間違いじゃないのだ。
 バレー部を引退して、進学先も決まって、生活が穏やかに変化していく。 進学先ではバレーをしないことを決めた。 もうバレーボールに触れることはなくなる。 そう決めたときに赤葦はまるで誰かが亡くなったときみたいに唇を噛んだ。 「そうですか」。 たった一言。 けれど、その声にはたくさんのものが詰め込まれていた。 わたしは決してうまい選手ではなかった。 どれだけボールを追いかけても。 どれだけボールに触れても。 どれだけボールを求めても。 何もかも一歩及ばず、引退試合に少し出ただけで高校バレーを終えた。
 そんなわたしを赤葦はなぜだか気にかけてくれることが多かった。 自主練習に付き合ってくれたり、悩んでいたら話を聞いてくれたり。 試合に少し出ただけで、こっちが恥ずかしくなるくらいに喜んでくれた。 レギュラーに入れず、控えにも入れず、いてもいなくても変わらない。 とてもじゃないけれど、熱い気持ちを持ち続けるのは難しかった。 ほんとうに、情けないのだけれど。 そんなわたしに選手としての息吹をくれたのは、わたしにとっては赤葦京治ただひとりだった。 ……なんていう、おこがましいにもほどがある、結論。

「ありがとね、赤葦」

 ミスをした瞬間。 成功した瞬間。 思いついた瞬間。 立ち止まった瞬間。 また進みはじめた瞬間。 どこを切り取っても赤葦がいてくれた。 息吹を吹き込んでくれた。 バレーを嫌いにならなかった。 ずっと大好きなまま、バレーを辞められた。 ぜんぶ赤葦がいなかったらたぶんだめだったと思う。 面倒見が良くて、後輩なのにいろいろ大きくて、いつも平等。 そんな赤葦がいてくれたから、こんなにも心が朗らかに晴れ渡っている。 それをぜんぶ含んだ、ありがとね。 赤葦が感じ取ってくれたかは分からない。 けど、なんでもいいんだ。 言えたらなんだっていい。 いろんなことが伝わらなくても言葉を紡げただけでわたしは十分満足だ。
 わたしという選手が死んでしまっても、わたしという選手が生きた呼吸は忘れない。 その結末が今は愛しくてたまらない。

「……さんのサーブが好きでした。 きれいな線を描くその一瞬が、たまらなく」

 わたしのサーブ? 思わず素っ頓狂な声が出てしまう。 あんなへなちょこサーブを好きだと言ってくれるなんて少し驚いた。 サービスエースを取ったことなんかもちろんないし、得点につながったことがあるわけでもない。 決して褒められたものではなかった。 でも、赤葦が褒めてくれるのだから何かいいところはあったのかもしれない。 わたしには分からないけれど。

「あなたの描くすべてが好きでした」

 へろへろでふらふらでふわふわしている。 何一つ特別なものはなかった。 誰かの心に刺さることなどありえない。 そのまま勢いを失って、死にゆくだけの線。 最期には地に落ちて終わりを迎える線。
 ああ、そうか。 地に落ちないように。 死んでしまわないように。 赤葦がそれを落ちないようにずっと、何度も何度も押し上げてくれていたのだ。 だからわたしはここまで来られた。 つないで、つないで、つないで、つないで。 苦しいはずのそれをずっと赤葦はやめないでいてくれた。 死んでしまうだけだったはずのそれは、ふわりとした軌道を描いて跳ね上がり、最後は勢いよく放たれる。 直線を一気に描いて、わたしの心臓に突き刺さり、どくどくと熱い血を全身に巡らせた。 死んで消えてしまうだけだったはずなのに。 それまでつないでくれたのはまぎれもなく赤葦で、やっぱりおこがましい結論に至ってしまう。

さんだから好きでした」

 ぱちんっと静電気のような衝撃が全身に走る。 化学反応を起こしたようにわたしの体はかあっと熱くなって、ぷすぷすと煙が出るんじゃないかってくらいになった。

「好きです」

 白い息。 すう、はあ、すう、はあ。 いつもは見えない呼吸が宙を染める。 これは赤葦が吹き込んでくれた息に違いない。 だって、同じ色をしてる。 混ざり合ってもどっちがどっちだか分からない。
 平等じゃなかった。 赤葦の何もかもは。 わたしだけ、だった、と思っていいのかな。 それこそおこがましいのかもしれない。 けれど、そのおこがましさなどどうでもよくなるくらい、今は言葉を探すことに必死だった。
 赤葦の長い指がわたしの頬にちょん、と触れる。 指先だけ触れたそれはすぐに離れていく。 赤葦ははにかもながら「真っ赤ですよ」とからかうように言った。 寒いからだよ。 そんなふうに返したけれど赤葦は小さく笑いながら信じていないみたいだった。
 わたしも好きだよ。 それを紡ぐことがどれだけ大変なことか。 赤葦には分かりっこない。 わたしが赤葦のことを分からないのと同じで、赤葦も分かりっこないのだ。
 抱えきれないほどの星空をじっと睨むように見上げる。 どれかひとつが流れたら言おう。 きらりと輝く星に願いを込めて。 結局星頼みになってしまう。 それが恥ずかしくて思わず笑うと、赤葦も空を見上げた。

「早く流れてくれるといいんですけどね」

 その声がどうしようもなく熱を帯びていて、わたしたちはまた同じ呼吸をした。


いのちつきぬ