そろそろマフラーしてこようかなあ。 隣のクラスの女の子たちがそんな話をしながら通り過ぎていく。 空を見上げると夏とは雰囲気が違う、なんとなく霞んだような青色が優しい光を放っていた。 もうそろそろ冬だ。 肌寒くなってきた。 特に朝は布団から出るのがつらくなってきたっけ。 パジャマも長袖にいつの間にか変わっていたし、知らない間に冬がこっそり迫って来ていたんだなあ。
 冷たい風が吹くとぶるっと体が無意識に震える。 カーディガンしか羽織っていないのでちょっと寒い。 腕をさすりつつ靴を脱ぐと、ふと、思い出してしまった。
 昨日、付き合って半年経った赤葦くんと、はじめて、そういうことをした。 日曜日だった昨日は赤葦くんの家は夕方までご家族が不在だということで、一緒に勉強をしないかと誘われた。 相手は赤葦くんだ。 下心があるなんて想像もしなかったので、いつものようにばかみたいに喜んで「うん!」と答えてしまったのを今更恥ずかしく思う。 お昼前に赤葦くんの家にお邪魔して、それからしばらくお互い苦手科目の予習復習をしていた、の、だけど。 じいっと赤葦くんがわたしを見ていたのでどうしたのかと聞いた。 そこでもまだわたしは気付いていなかった。 赤葦くんはなんだか恥ずかしそうに「あの、今、どういう状況か分かる?」と聞いてきて。 意味が分からず「赤葦くんの家で勉強してるよ?」と答えてしまった。 本当に鈍くて恥ずかしい。 赤葦くんもきっと困っただろうと思う。

「あ」

 低い声にどきっとした。 恐る恐る視線をそちらに向けると、登校してきた赤葦くんがいて。 寝坊したのか髪の毛が少し跳ねている。 いつもならそれを笑って茶化すのだけど、今日は思わず少し視線を逸らしつつ「お、おはよう!」と不自然な挨拶をするしかできない。 赤葦くんもそれに続いて「おはよう、ございます」となぜだか敬語で挨拶を返してくれた。
 同じクラスなのだから下駄箱で会うなんてふつうなのに。 なぜだか今日はどうしてこんなにピンポイントのタイミングで、なんて恨めしく思ってしまう。 まともに顔を見られない。 たぶん赤葦くんも同じなんだと思う。 いつもならこのあと話をしてくれるだろうに声が途切れてしまった。
 脱いだ靴を自分の下駄箱に入れつつ上履きを出す。 先に去ってしまうのも変だし、かといって声をかけたり待っている素振りをするのも変だし……。 いろいろ考えてしまって不自然にゆっくり上履きを履いてしまった。 赤葦くんが上履きを履いたタイミングで教室へ歩き始めると、赤葦くんも戸惑いつつ隣に来て教室へ歩き始める。 なんて、声をかければ。 無言のままも変だし、かといって昨日のことには触れづらいし、それをスルーして他の話題を振るのもなあ……。 どうしたらいいのか分からず迷っているわたしに、赤葦くんのほうから声をかけてくれた。

、あの、さ。 体大丈夫?」
「へっ?!」
「いや、ごめん、今のなし、ごめん、忘れて」

 赤葦くんの顔をようやくもう一度見られた。 いつも凛としている横顔が今は少しだけ赤くなっていて、なんだかふにゃふにゃとしているように見えた。 あの赤葦くんが、焦っている、というか照れている、というか。 けれど、今思えば昨日もずっとこんな感じだった、ような。
 思い出したことを後悔した。 昨日、あのあと赤葦くんがちょっと困ったように笑って「鈍感」とわたしをからかった。 そうしてそのままあまりにも丁寧に唇を奪われて、わたしはようやくその意味を悟ることができた。 そのあとは、うん、思い出したらまずい。 ただただ言えるのは、今思ってもかなり用意周到だったから赤葦くんは最初からそのつもりだったんだなあ、って、いうこと、くらい。 赤葦くんもちゃんと男の子なんだなあと思って照れてしまう。

「いや、あの、だ、大丈夫、ものすごく元気……です」
「……それなら、うん、よかった」
「むしろ、あの、ご、ごめんね、最後までできなくて……」
「いや本当に大丈夫、本当に全然大丈夫だから謝らないで本当」
「赤葦くんって焦ると口数多くなるよね」
「……恥ずかしいから冷静に分析しないで」

 困ったように笑う。 その顔が少しだけいつも通りに近付いたのでほっとした。
 結局、あまりの痛さにわたしがギブアップしてしまって、最後までできなかった。 何度も謝るわたしに赤葦くんはおろおろと焦った様子で「いや本当全然気にしないで、全然大丈夫だから」と口数多くフォローを入れてくれた。 それが余計に申し訳なくてまたわたしが謝ってしまうので悪循環だった。
 ちらりと赤葦くんの横顔を盗み見る。 なんとなく、本当になんとなくなのだけど。 今までよりも、かっこいい、ような気がする。 あたたかい体温とか、大きい体とか、色っぽい息遣いとか。 そういうのを一瞬で全身が思い出した。 ぶわっと熱が体を支配すると、くらくらふわふわと頭が赤葦くんでいっぱいになる。 かっこ、よかった、もんなあ。 思い出すと恥ずかしくてたまらないのだけど、はじめて見る男の人の顔をした赤葦くんは、文句なしにかっこよかった。 肌に触れる指先が怖いくらいに甘くて、優しく重なる唇が泣きそうなくらい柔らかかった。 それを知っているのって、この世界でわたしたった一人、なんだよなあ。 そう思うと余計にかっこよくてたまらなくなる。

「……あの、ね、赤葦くん」
「はい」
「……なんで敬語?」
「気にしないで。 どうぞ」
「来週の土曜日、空いてる……?」
「…………練習終わったあと、三時以降は空いてる」
「……う、うち、ね、その日、誰も、いない、んだけど……」

 その先はあまりにも恥ずかしくて言えなかった。 だんだん近付く教室にたどり着かないようにお互いゆっくり足を進めている。 赤葦くんの横顔をちらりと見ようとしたら、ばちっと目が合ってしまった。 赤い顔をした赤葦くん。 ちょっと驚いた顔をした後すぐ照れくさそうに「お邪魔します」と言って、目を逸らした。 わたしも目を逸らしてから「分かりました」と返す。 そのあとは一言も話せなくなってしまって、お互い教室についたらそそくさと自分の席についた。
 ざわざわしている教室の中で、どきどきと心臓がうるさい。 静まれ、静まれ。 そんなふうに深呼吸をしていると友達が「おはよー!」と元気にわたしの背中を叩くものだから変な声が出た。 教室中に響いたそれに一瞬静まり返るものだから冷や汗が止まらなくて。 友達に理不尽に怒ってしまうと、友達に「顔真っ赤じゃん。 大丈夫?」なんて言われるものだから余計に顔が熱くなった。


触れたらすべてが変わってしまう
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