※未来捏造、社会人設定






 わたしの彼氏は、絶賛十連勤中のたぶんブラックな企業の社員。 なんて一ミリもときめかない紹介をしてみる。
 わたしの部屋に来るなり溶けるようにその場に崩れ落ち「靴脱がせてください……」とか細い声で呟いたときはさすがに驚いた。 本人曰く大事な会議を控えているらしい。 その資料作りや日程、段取り組みをすべて任されてしまったそうだ。 それに毎日奔走しながら取引相手である担当企業との連絡の取り合いもこなし、新入社員の教育担当もこなし、癖のある上司のストッパーもこなし。 そんなふうに走り続けてようやく、ここで気を抜けた、という感じらしい。
 靴を脱がせてから無残にも玄関に投げ捨てられてしまった鞄を拾い上げる。 「ちょっと待ってね」と声をかけてからまず鞄をリビングに置いてきて、再び玄関へ。 倒れこんだまま動かないその人の両手を引っ張って、ずるずるとリビングへ運び入れる。 リビングに上半身が入ったところで、ようやく起き上がる気力が出てきたようだ。

「すみません、つい甘えてしまいました」

 はあ、とひとつ息をつく。 よっぽど大変なようだ。 連絡はちゃんと取っているので忙しいことは分かっていたけれど、まさかこんなふうになるまでとは。 少し驚きつつも「大丈夫だよ」と笑って手を差し出す。 ジャケットを受け取るつもりだったのだけど、なぜだかぎゅっとその手を握られて、余計に笑ってしまった。

「お疲れ様」
「ありがとうございます。 でも……まだ終わってないんです……」
「あ、そっか。 今週末だったよね?」
「はい……」

 脱いだジャケットを受け取ってハンガーにかける。 ついでにネクタイをほどいて取っていく。 第一ボタンを外してもう一度息を吐きつつソファに腰掛けると「あー、しんどい」と低い声が部屋の中に小さく響いた。 そりゃあそうだ。 重要な会議の諸々だけでなく、いつも通りの仕事をして教育担当、社員同士のいざこざの対処。 両手で抱えても収まらないくらいの仕事量にちがいない。
 冷たいお茶をコップに注いで渡すと、少しだけ疲れた顔ではにかむ。 わたしも社会人ではあるけど、ここまでの激務は経験がない。 こういうとき以外はちゃんとした会社なだけに気軽に転職を勧めることもできない。 どうやって労おうとか励まそうとか、いつも考えているのだけれど答えが出た試しはなかった。 むしろこんなに忙しいのにほぼ毎日連絡をくれたり、こうしてふらっと会いに来てくれたり。 わたしのほうがよっぽど気を遣ってもらっている。 それには苦笑いをこぼしてしまう。

さん、お願いがあるんですけどいいですか」
「うん? いいよ、なんでも言って」
「今度の会議が終わったら何か、所謂ご褒美のようなものがほしいです」
「もちろん。 何がほしいの?」
「ものじゃないんですけどいいですか」
「へ? うん、いいけど……?」

 ものじゃないご褒美とは? 前にほしい時計があるとか家電があるとか聞いていただけに意外だ。
 そんなふうに考えているわたしを手招きする。 よく分からないまま顔を寄せると、耳元でぼそっとお願いを教えてくれた。 その熱っぽい声に思わず後ずさりしてしまう。 じいっとわたしを見つめて「だめですか」と得意げに笑うものだから、一瞬で顔が熱くなっていった。

「だっ……だめじゃ、ない、けど」
「週末、楽しみにしてます」

 にこりと笑顔を浮かべてお茶を一口飲む。 それをじいっと見てしまう。 昔はもうちょっと初心というか、照れ屋だったくせに。 一応ひとつとはいえ年上だし先輩だから引っ張っていかなきゃなんて思っていたのに。 高校のときは長く付き合ったらどきどきすることも少なくなるのかな、なんて思ったりしていたのに。 いつの間に変わっていたのだろうか。
 余裕綽綽な姿を見て若干悔しくなりつつ、いつも頑張っているのだからお願いには応えたい。 正直そんなことでいいのかな、なんて少し思ってしまっているくらいだし、余計に。 そう思って「何か準備しておいたほうがいいものとか……ある?」と聞いてみる。 コップを机に置いてからわたしのほうを向き直し、頬杖をつきながら口を開く。

「週末、赤葦くんに抱かれるんだな、って思っておいてください」























「映画のDVD借りてきたので観ませんか」

 部屋に入るなりそう言った赤葦くんに「へっ、あ、うん」となんとも間抜けな返事をしてしまう。 赤葦くんはそんなことには気が付かなかったらしく「映画館で観られなかったのでチェックしてたんですよ」とうれしそうに笑った。 それに「へ、へ〜」と少し動揺したまま赤葦くんの隣に腰を下ろす。 買ってきてくれたおやつを広げ、飲み物のふたを開ける。 赤葦くんはリモコンを操作しつつどんな映画なのか簡単に教えてくれた。
 映画がはじまると赤葦くんは真剣に画面を見つめ続けた。 内容がかなり重めのものだったから話しかけるのも憚れる。 テレビを観たり赤葦くんの横目を見たり、わたし一人だけそわそわしてしまっている。 それが恥ずかしくなってきてしまい、なんとか映画に集中しようとじっと画面を見つめた。
 無事に会議が終わった、と昨日メールをくれた。 準備した資料は見やすいと好評で、お偉いさんたちからはかなり褒められたらしい。 毎日残業をして準備したことも汲んでくれたそうでしばらくはゆっくりするように言ってもらったのだとか。 文面からもうれしそうな感じが伝わってきてわたしもうれしかった。 それと同時に、あの日のお願いを思い出してどきどきしてしまって、なんだか自分が恥ずかしい女だなあと思ってしまった。
 そわそわしているわたしの手を、突然赤葦くんがつかんだ。 その手をそのまま持ち上げて、手の甲に唇を軽くあてる。 上目遣いでわたしを見つめると「いま、何考えてます?」と密やかな声で呟いた。

「へっ、え、映画、観てるから……映画のこと……」
「今話している登場人物の名前は?」
「えっと……」
「今登場人物たちは何をしていますか?」
「……わ、分かんない……」

 手の甲にかすかに触れる赤葦くんの唇がやけに熱く感じる。 視線をそらしたらくすりと小さな笑い声が聞こえてきた。 ぐいっと手を引っ張られてバランスを崩してしまうけど、すぐに赤葦くんの腕の中に落ち着く。 わたしの耳元で「何を考えてたんですか」と熱っぽい声。

「あ、赤葦くんに」
「はい」
「……いつ、抱かれ、る、のかな、って」

 別にもうはじめてのことじゃない。 こんなに照れることでもないかもしれないけど、意識するとどうしようもなく恥ずかしい。 今日のことを思っていろいろ準備してしまっていたこともあり、なんだか自分がその気が満々みたいで恥ずかしい。 ふだんわたしからこういうことを言わないから余計に。
 赤葦くんはわたしの背中をつーっと指でなぞってから、顔を上げて瞳を覗き込む。 静かに顔を近付けると、触れるだけのキスをした。 もうそれだけで体が熱くて仕方ない。 そんなわたしを知ってか知らずか、赤葦くんは囁くように言う。

「今からですよ」


どこまでも愛しい人

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