※未来捏造を含みます。




「赤葦、スーツ似合わなさそうだよね」

 ふと思ったことを思わず声に出してしまった。 案の定、練習の合間に水分補給をしていた後輩は「は?」と言いたげな目でわたしを見ている。 少しだけ言葉を探したのち赤葦はボトルのキャップをしめる。 わたしの顔をじっと見つめて「どうしてですか」と言った静かな声は、妙にわたしには響いて聞こえた。

「なんとなくだよ」
「なんとなくで失礼なことを言わないでください」
「ごめんごめん」

 笑って済まそうとしたのだけどこの後輩、許す気はないらしい。 「さんって本当に失礼な人ですよね」と呟かれた声にもう一度「ごめんってば」と謝るのだけど、なんだか拗ねた顔のまま赤葦は考え始める。 世間話程度のつもりだったのだけど。 本人が気にしていることだったのだろうか。 少し申し訳ない気持ちになってしまう。 なんと声をかけようか考えてみるのだけど、うまいフォローが見つからない。

「そんなに似合わないと思いますか?」
「えっ、いや、ごめん、なんとなく思っただけだから気にしないで」
「似合わないと思ってますか?」
「えー……あー……ユニフォームのほうが似合うよね」

 ちょっと歯切れの悪いフォローになってしまった。 赤葦はそんなわたしを咎めることはせず、ただただじっとまっすぐに瞳を向けるだけだ。

「そうですか」

 てっきり怒っているかと思ったのに赤葦はとても穏やかに微笑んだ。 その表情の意味が分からず、首を傾げるしかできなかった。











▽ ▲ ▽ ▲ ▽











「木兎飲みすぎだって! もうそのくらいにしたほうがいいってば」

 がやがやとしている居酒屋の中で、かおりの声が人一倍大きく響く。 それに木葉がげらげら笑うと余計にかおりは怒ってしまった。
 久しぶりに集まった元梟谷学園バレー部××代のわたしたちは大いに盛り上がっていた。 プロになった木兎が一番テンションが高かったけど、それに負けないくらいみんなテンションが高い。 お酒が入っているせいなのか、珍しく鷲尾もおふさげの輪に入ったりなんかして。 なんだか、最後の合宿の夜みたいだなあ。 そんなことを思い出しつつ、わたしは一人だけどこかみんなのテンションについていけないままでいた。
 わたし以外のみんなは東京で就職なりなんなりをした。 けれど、わたしだけ就職したあとすぐに関西へ配属された。 そういうこともあって本当の意味で久しぶりに再会したのはわたしだけ。 それがなんだかちょっと寂しいし、今日は帰りたくないなあ、なんて考えると自然と気持ちが落ち着いたままになってしまう。 高校時代は木兎といっしょにふざけたりしてかおりに怒られていたのに今日は一番大人しい。 それを小見や猿杙に茶化されたけど、やっぱりあのときのようには反応ができなかった。

「そういえば赤葦と尾長は? 誘ったんだろ?」
「尾長はもうちょっとで来るってさ。 赤葦は来るにしても残業で遅くなるらしい」
「マジかよ〜! 赤葦いっつも残業じゃん〜!!」

 木兎がゴン、と壁に頭を打ち付ける。 酔っぱらっていて行動に際限がなくなっている。 それを苦笑いしていると、「だってせっかく東京来てくれたんだし赤葦会いてーよな?!」と突然話を振られた。 続けて木葉が「それもそうだよな〜」と頬杖をついてスマホをポケットから取り出した。 赤葦から連絡がないかを見ているらしい。 今日は平日なのだけど、わたしは今日代休なのだ。 その日に合わせて飲み会を開いてくれたのでこうして参加できているというわけだ。 滅多にこういう機会はないし赤葦と尾長とも会いたいなあ、とは思っていた。 尾長とは会えそうだけど、あと三十分ほどで駅に向かわなければいけないので赤葦とは無理そうだ。 ちょっと残念だな、なんて。
 木葉を横目に見ていた雪絵が「そういえば赤葦に来るって言った?」と木葉に問いかける。

「いや、飲み会するぞって言っただけだから言ってないけど」
「えー木葉うそでしょ〜そこは言うでしょ〜」
「本当使えないわ、そのへん走って来い」
「ひどくない?!」

 木葉が「はいはいすみませんでした〜」と言いつつメールを打ちはじめる。 別にそれ言わなくてもいいんじゃないかなあ。 ぼんやりそう思いつつ、まだ半分残っている飲み物を口に運ぶ。
 あーあ、帰りたくないなあ。 やっぱりみんなといるのが一番楽しいなあ。 子どもみたいに駄々をこねていいのなら、口に出せるのに。

「えっ赤葦から電話来たんだけど」
「マジ?! 出て! っていうかなんで俺にかけてこねーんだよ赤葦〜!!」
「もしもし? おう、残業どっ……え、? はいはい、ちょっと待って」
「え、なに?」
「赤葦が代わってくれって」
「わたし?」

 恐る恐る木葉のスマホを受け取る。 「もしもし?」と言った瞬間に、かぶせるように「何時に帰るんですか」と聞かれた。 その勢いに驚きつつもあと三十分ほどで駅に向かうことを伝える。 しばらく沈黙が続いたのち、赤葦が「駅って東京駅ですか」と追加の質問が飛んでくる。 赤葦からの質問に圧倒されつつ答えていくと、最後に「分かりました」とだけ言われて通話が切れた。 え、なに、今の? 怒ってるのかな? そう思うくらい有無を言わせない勢いだった。

「え、切れた?」
「切れた……わたしなにかしたかな……なんかちょっと怖かったんだけど……」
「何かしたかなって、は赤葦と卒業以来会ってないだろ?」
「そうなんだよね〜」

 特に心当たりもないし、どうしたものか。 なんだか慌ただしかったというか、焦っていたような? スマホの画面を拭いてから木葉に返すと「律儀な〜」と笑われた。 木兎は赤葦と電話できなかったことにご立腹の様子で、「俺も喋りたかった〜!」とまた壁に頭を打ち付けた。 かおりが「やめろっつってんだろ!」とその頭を思いっきり叩くとしょぼくれてしまった。 プロになってからは木兎も赤葦とはあまり会えていないらしい。
 それにしてもなんだったんだろう。 疑問は残ったけれど、残り少ない楽しい時間だ。 帰りたくないなあ、なんて気持ちを押し殺して楽しむことに専念しよう。 そう思い直して飲み物をぐいっと飲むと、ちょうど尾長の声が聞こえた。









 楽しかった時間は夢かのようにもうここにはない。 少し不快に思える東京駅の喧騒にため息がこぼれる。 居酒屋の騒がしさはあんなにも楽しく心地よいものだったのになあ。 帰ったらまた仕事、仕事、仕事の日々が待っている。 忙しくて友達と出かける余裕はない。 何より、就職と同時に関東から関西へ引っ越したわたしには、疲れた体を押してまで会おうと思える友達はいない。 さみしいなあ。 ぽつりと喉の奥で呟いた言葉はもちろん誰にも聞かれないまま封印する。 子どもじゃあるまいし。 情けなくも苦笑いがこぼれた。
 改札をくぐりたくなくて改札の前でぼけっと突っ立って時間が経つのを待つ。 有休を取ってくればよかった。 今更無駄な後悔をしつつ、スマホの画面を見る。 グループメッセージにたくさんの写真が送られてきている。 木兎が眠った写真、尾長がピースしている写真、小見が変顔をしている写真……。 最後にかおりから「また絶対みんなで飲み会しようね」と雪絵とのツーショットが送られてきた。 いいなあ。 そう思いつつ「また絶対参加する!」と返してスマホをポケットにしまった。
 そういえば赤葦は結局まだ来られていないのか。 どの写真にも映っていなかったし、やっぱり残業で忙しいのだろう。 高校時代から苦労人気質だったけど、社会人になってもそれは変わらなかったに違いない。 それを考えるとかわいそうだけど少し笑ってしまった。
 時計を見る。 仕方ない、一応ホームに向かおうか。 はあ、とため息をついてから壁にもたれかかっていた体を起こす。 明日もなんでもないふつうの日がはじまる。 わたしの気持ちなんて知らんふりして。 それがふつうのことなのだから文句を言っても仕方ない。 がんばるしかないのだ。 いつかまたあるであろう、夢を見るために。 鞄から切符等を取り出して歩き始める。 進むたびにため息が出そうになるのをぐっと堪えて、どうにか一歩ずつ改札のほうへ近付いていく。 楽しかったなあ。 今日が楽しかった、その記憶を胸にまたがんばろう。
 堪えきれず一つだけため息がこぼれ落ちたその瞬間、切符を握っていた右手を誰かにつかまれた。

「えっ……あ、赤葦?」
「どうも、お久しぶりです」

 ぜえぜえと息を荒くしながら突然現れた赤葦がそう言う。 かなり驚いたけど、素直に久しぶりの再会を喜んでしまった。 右手をつかまれたときに落とした切符を赤葦が拾ってくれたので受け取ろうとしたのだけど、赤葦はその切符をじっと見てなかなか返してくれない。 「お元気そうでなによりです」とかそういう世間話をしつつ赤葦は切符を持ったままだ。

「残業終わったの? というか飲み会行かなくていいの?」
「たぶんあとで行きます。 それよりさん、後輩のわがままに付き合ってください」
「え?」

 わたしの右手を握ったまま、赤葦はくるりと方向を変えてしまう。 はてなを浮かべつつ引っ張られるがままについて行くと、近くにあったみどりの窓口の列に並んだ。 これがわがまま、とは?

「一時間、時間遅めて下さい」
「えっ、新幹線?」
「はい」
「ちょっと一時間は……向こうの終電に間に合わないんだよね、ごめん」
「タクシー代渡します。 いくらですか?」
「え、えっと? 赤葦、どうしたの?」
「わがままです」

 そう言いつつビジネスバッグから財布を取り出す赤葦を止める。 止めたのにとにかく「いくらですか」としか聞いてこない。 相変わらずかわいいんだかかわいくないんだかよく分からない後輩だ。 このままずっと「いくらですか」と聞かれる気がしてきたので仕方なくこっちが折れることにする。 でも、結構距離があるので半額くらいの金額を伝えておくことにする。 赤葦は財布を開けて「じゃあこれで」と何の躊躇いもなく一万円を出した。

「……わたしの話聞いてた?」
「それが半額ですよね。 これで足りるかと思ったんですけど。 足りないならもういちま、」
「足りる! 足りるから!」

 焦りつつ渋々それを受け取る。 赤葦は「なんかホステスにタクシー代渡すあれみたいですね」と堪えきれなかったらしくお腹を抱えて笑った。 怒るところだったかもしれないけど、赤葦もそういう冗談言うんだ、とか、赤葦そういうの知ってるんだ、とかいろんな衝撃があって驚いてしまった。
 時間変更の手続きを済ませると、赤葦はなんだかほっとした顔をした。 「間に合わないかと思いました」と言った口ぶりから、大急ぎで残業を切り上げてきたことが窺える。 そんなに急ぎの用事でもあったのだろうか。 卒業式以来会っていないわたしなんかに。
 赤葦は入る店を決めていたらしく、迷うことなく駅にほど近い喫茶店へ入った。 お客さんはまばらではあるけれど数人いる。 昼時なんかはたくさん人が入るお店なのだろう、という印象だ。 窓際の席に案内されると、ソファ側を赤葦が譲ってくれた。 相変わらず律儀な後輩だ。 赤葦は鞄をテーブルの下に置いてあったカゴに入れ、椅子に座るとすぐにメニューを開いた。 なんでも夕飯を食べていないらしい。 もうずいぶん遅い時間なのに。 「大変だね」と苦笑いで言うと、赤葦は少し考えたのち「そうでもないですよ」と笑った。
 高校時代より少し短くなったように思える髪。 顔つきが大人っぽくはなっているけど、何も変わらないわたしが知っている赤葦のままだ。

さん、何食べますか」
「わたし飲み会で食べちゃったから、コーヒーだけにしとこうかな」
「俺、結構がっつり食べますけどいいですか」
「どうぞ」

 呼び出しボタンを押すとすぐに店員さんが来てくれた。 赤葦はわたしのコーヒーを頼んだのち、次々と料理を注文していく。 高校時代もよく食べるとは思っていたけど、どうやらそれも健在のようだ。 残業が多いと聞いていたので体のことが少し心配だったが、今のところ大丈夫みたいだ。 後輩の頑丈さに感心しつつも、この状況にどんな理由があるのかが気になってしまう。 わたしに何か用があるのだろうけど全く心当たりがない。
 注文が終わり、メニューを閉じて元の場所に戻す。 赤葦は背もたれに大きく体を預けると、ゆっくりした動きでネクタイをほんの少しだけ緩めた。 同じ動作なはずなのに、会社の同僚がやるそれと違うように見えるのが不思議だ。 同僚がやるとちょっとだらしない、なんて思うのに。 赤葦がやると様になって見えるというか、ちょっと色っぽく見えるというか。 赤葦って、こんなに、かっこよかったっけ?

「いま、失礼なことを考えていませんか」
「かっ、考えてないよ!」
「考えてましたね」
「考えてないってば」
「やっぱりスーツ似合わないなあ、とかですか」
「……はい?」
「言ってたじゃないですか。 高三のとき」

 頭にはてなが飛ぶ。 そんなこと言ったっけ? 首を傾げるわたしを笑いながら「俺は覚えてますよ」と言って経緯を話してくれた。 話を聞いているうちにそんなこともあったような気がしてきたけど、はっきりは思い出せなかった。

「ユニフォームのほうが似合うって謎のフォロー入れてましたよ」
「え、えー……そうだっけ……」
「そうですよ。 結構傷付きました」
「えー……ごめん……スーツかっこいいよ」
「えっ」
「えっ?」

 あ、照れている? 高校時代もあまり見なかったその顔に昔よく出てきていたいたずら心が出てくる。 「似合う似合う」と褒めちぎってやると、赤葦はかわいらしく「もういいです」と少し目を伏せて呟いた。
 しばらくしてわたしのコーヒーと赤葦の夕飯がやってきた。 相当お腹が空いていたらしい赤葦の食べっぷりを見つつコーヒーを一口飲む。 お互いの近況を離しつつ赤葦のことを見ていると、やっぱり不思議な感覚があった。 なんだろう、なんか赤葦がかっこよく見えるのは気のせいかな? 別に高校時代はそんなふうに思わなかったのに。 いや、もちろん試合中はかっこいいと思っていたけど、それは他の部員みんなに対してのものと同じだったのになあ。 スーツ効果かな。 でも別に木葉とか鷲尾には思わなかったしなあ。

「なんですか? じっと見て」
「え、あ、ごめん。 なんか……あ! 分かった!」
「何がですか」
「赤葦、彼女できたでしょ! だからか、そうかそうか〜!」

 よく言う恋をしている女の子はかわいくなる、とかいうやつの男の人バージョンだ! ようやく納得できる答えにたどり着けたので満足した。 一人でそんなふうに大満足していると、赤葦は一口水を飲んでから「いや、いませんけど」と首を傾げる。

「あの、さっきから何を考えてるんですか」
「なんか赤葦がかっこよく見えるのはなんでだろうなあって考えてるの」
「……スーツだからじゃないですか?」
「たぶん違うんだよね。 恋してると、って言うでしょ? だからかと思ったんだけどなあ」
「…………まあ、好きな人はいますけど」
「えっ?! そ、そうなんだ! じゃあそれだ!」

 赤葦の口から飛び出た「好きな人」という言葉に驚きつつも納得する。 なるほど、会社の人に恋をしているのか。 高校時代も背が高くて大人っぽかったから人気があったけど、会社でもそれは健在なのだろうか。 当の本人はそんなことに興味はないままバレーに熱中していたけど。 今は順調にその恋が進んでいるのかもしれない。 それを微笑ましく思いつつ「どんな人?」と話を広げてみる。 赤葦は少し考えつつ「そうですね」と話に乗ってくれた。

「年上です」
「いくつ上?」
「一つですね」
「わたしと同い年だ! 同じ部署の人?」
「いえ、関西のほうに勤めてますね」
「それだとなかなか会えないね。 支社の人?」
「別の会社の人です」
「えっ、どうやって知り合ったの? 取引先とか?」
「高校の先輩です」
「えっ?! 誰?! わたし知ってる子?!」
さんっていうんですけど、さん知ってますか」

 危うくコーヒーカップを落とすところだった。 固まったわたしを赤葦がくつくつと笑っている。 「どんな人か知ってますか」と笑いながら聞いてきた赤葦は心の底から楽しそうだった。

「え、えっと、同学年にって子……いないんだけど……」
「一人いましたよ」
「……い、いた、かな?」
「いますよ、さんっていう男子バレー部のマネージャーだった人が」
「あ、あのね赤葦、っていうマネだった人、って、わたししかいないんだけど……」
「そうですね」

 さも当然のように赤葦は「さんのことですね」と言って食べ終えた皿をテーブルの端に寄せる。 水を一口飲んでから最後の料理を食べ始めるた赤葦は、ほんの少しだけ顔を赤くしているように見えてしまった。 それを見つけてしまったわたしもようやく顔が熱くなってきた。 赤葦の言った言葉一つ一つがやっと理解できてきて、余計に熱くなる顔が恥ずかしい。
 最後の料理を平らげ、「ごちそうさまでした」と手を合わせた赤葦がゆっくりとわたしを見る。 赤葦の息遣いまで聞こえてくるんじゃないかと思うほど静かな空間だ。

「好きです、さん」

 はっきり言われたそれに、思わず目をそらしてしまう。 理解はできているのだけど頭は混乱しきっている。 赤葦もさっきまでの少し茶化す感じはなくなっていて、ちょっと恥ずかしそうというかなんというか。 その空気の変化が伝わってくるからこそ、冗談じゃないというのも分かってしまって。
 でも、とてもじゃないけど今すぐ返事をできる気がしなかった。 赤葦のことは本当に頼りになる後輩としか見ていなかったし、会ったのだって久しぶりだ。 たしかにかっこいいとは思ったけれどそれは好きとはまた違うものだし、といろいろ考えてしまう。 それ以前になぜ赤葦がわたしのことなんか、とか。

さん、今週の土日はふつうに休みですか」
「え、あ、うん、休みだよ」
「なら土日に行くので返事はそのときでいいです」
「えっ、行くって、こっちに?」
「そうですけど」
「え、で、でも」
「予定とかありましたか」
「……な、ない、です」
「じゃあ、それでいいですか」

 それでいいですか、なんて下手に出ているように見せているけど、ほとんど拒否権はない。 「分かった」としか答えられるわけもなく、了承してしまったけれど。 答えが出せる気がしない。 答えが決まらなかったら赤葦には悪いけど逃げてしまうかもしれない。 そんなことをぐるぐる考えていると、赤葦の右手がネクタイへ伸びた。 何をするのかと思えばネクタイピンを外すと、「さん」と言ってわたしにそれを渡してきた。 嫌な予感がしたので受け取らずに「なに?」とだけ聞いたのだけど、赤葦の左手がわたしのほうへ伸びてきた。 そうして無理やりわたしの腕を出させてネクタイピンを手の平に置かれる。

「それ、就職祝いに父親がくれたタイピンです」
「……だ、大事なものなんだね」
「そうです。 だからちゃんと返してくださいね」

 そう優しく笑う。 赤葦は腕時計を見て「そろそろ時間ですね」と呟くと、伝票を当たり前のように手に取る。 鞄を持つと「出ましょうか」と言ってソファに置いてあったわたしの鞄まで持ってしまう。 そうして一人でさっさとレジへ歩いて行ってしまった。 タイピンを握らされたまま固まっていたわたしも仕方なく立ち上がり、急いで赤葦を追いかける。 ちょうど会計をしはじめている赤葦に「財布出すから、」と言いかけたのだけど、「ちょっといま手が塞がってるんで」と分かりやすい嘘をつかれてしまった。 無理やり赤葦の腕にかけられたままの鞄に手を伸ばしても赤葦に邪魔をされる。 店員さんに迷惑がかかってしまうのでとりあえず一緒に払ってもらうことにせざるを得なかった。
 店を出ると赤葦がわたしの鞄を渡してくれた。 コーヒー代を出すと言っても「新幹線乗り遅れますよ」と言って駅に向かい歩き出していく。 返させてくれる気はないらしい。 しばらく頑張っていると「コーヒー代くらい払わせてください」と苦笑いをされた。 タクシー代までもらっているのに、さすがに申し訳なさすぎる。 そう言っても赤葦は小さく笑うだけだった。

「諦めが悪いですよね、さん」
「諦めが悪いというか……」
「そういうところ、昔から好きですよ」
「…………」
「照れると黙るところも好きですよ」
「赤葦!」

 楽しそうにしている赤葦の顔はもういつも通りの顔色に戻っていた。 それがなんだか憎らしくて思わず背中を叩いてしまった。 高校時代もこんな光景が何回もあったな、なんて懐かしさに浸る余裕はない。

「言わず仕舞いで後悔していたので何度でも言います。 好きです、さん」

 後悔していたのなら、連絡先を知っているんだし、電話なりメールなりしてくれたらよかったのに。 そんなことを思っているのはお見通しらしい。 「直接言いたかったので」と付け加えられると文句の付け所もなくなってしまった。

「もう時間ですね」
「……そ、そうだね」
「返事、聞きに行きますから。 良くても悪くても」
「……うん」
「好きです」
「も、もう分かったから!」
「分かってないですよ。 さんは、俺のことをこれっぽっちも」
「え、えー……そうかなあ」
「そうですよ。 だから何度も言います。 好きです、さん」

 切符を取り出す。 その隣で赤葦が「わがまま言ってすみませんでした」と苦笑いをこぼした。 それに続けて「週末、楽しみにしてます。 おやすみなさい」と言って小さく手を振る。 それに気恥ずかしくなりつつ「おやすみ」と返してわたしも小さく手を振り返し、改札をくぐった。
 なんでわたし、帰りたくない、なんて思ってるんだろう。 一時間前に思っていたそれとこれはちょっと違う。 暗い気持ちはどこにもなくて、ただただ胸の奥のほうが熱い。 早く、週末になればいいのになあ、とか。 それをどこか楽しみにしている自分がいる。 赤葦に無理やり渡されたネクタイピン。 なくさないようにいつも持ち歩いているポーチに入れたそれを思い出す。 ちゃんと返さなきゃ。 これももちろん、そうなんだけど。
 少し離れたところでそっと改札の向こうを振り返る。 まっすぐにわたしを見ている赤葦が一歩も動かないままそこにまだいた。 その瞬間、心臓が止まったかと思うほど、大きく動いてしまって。 今すぐに駆け出して戻りたい気持ちに駆られたけど、寸のところでアナウンスが聞こえてどうにか足を止めることができた。 なにやってるんだろう、わたし。 恥ずかしい気持ちになりながらまたホームのほうへ足を向けて歩き始めた。


かくして、僕たちは辿りつく
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