※未来捏造、社会人設定






 大きな手がわたしの手を包み込んで、きゅっと握られた。 もともと整っている顔が真面目な表情をしているだけでとんでもなくかっこよく見えるのだから、この人はずるいと内心で悪態をつく。 至極真面目な表情を浮かべてはいるのだけど、その頬はアルコールのせいか赤く染まっている。 どれだけ飲んだんだ。 若干呆れつつ「なに」と真面目な表情の後輩に言う。 というかなんでわたしは手を握られているのだろうか。

さん、お願いです」
「なに?」
「一回だけでいいからキスさせてください」

 高校時代の後輩と偶然駅で鉢合わせた。 先に気付いたのはわたしだ。 なにせ後輩はとても背が高くて割と目立つ存在なので、一目で分かった。 少し短くなった髪に新鮮さを覚えつつその背中を突いてやる。 くるりと振り返った顔がものすごく驚いているのが面白くて大笑いしてしまった。 後輩、二口堅治はそれに照れつつも「お久しぶりです」と丁寧に小さく頭を下げた。 真面目なやつ。 高校のときから変わらないそれに内心くすくす笑ってやると、「あの」と二口が言葉を続ける。 「これから飲みにいきませんか」と意外なお誘いをされたので少しだけ驚いてしまう。 それを隠しつつ「あ、うん、いいけど」と返したら二口はすぐにたまに行くという居酒屋へ連れて行ってくれた。 どうやらあまり酒に強いタイプではないようだったけど、とにかく二口は飲んだ。 飲んで飲んで飲みまくって、喋って喋って喋りまくった。 大丈夫か、と少しハラハラしつつそれに付き合っていたのだけど、どうやら限界を迎えたらしい。
 その結果が先ほどの血迷った発言だった。

「……お冷もらおっか」
さん」
「すみません、お水二つください」
さんってばあ〜!」

 完全に酔っぱらっている。 呂律が回っていないまま喋り続ける二口の言葉は正直言って暗号にしか聞こえない。 何を言ってるんだ、君は。 ぎゅうっとわたしの手を握ったまま二口はくっついてこようとする。 それを引きはがしつつ店員さんから水を受け取ると、「大丈夫ですか?」と引き気味で心配された。 あんたこのままだとセクハラ野郎だと認識されちゃうよ。 店員さんには「大丈夫です」と笑って返しておいた。
 手を無理やり引きはがして水の入ったコップを握らせる。 「飲みなさい」と言うと二口は珍しく素直に水を飲み始めた。

「なんか悩みでもあるの?」
「え〜なんでそうなるんスか〜」
「なんでも聞いてあげるから話してみたら?」
「キスしてください」
「お冷またもらおっか?」

 苦笑い。 どうしちゃったんだ二口。 割とチャラい後輩だったけどこんなことを言い出すタイプのチャラさではなかったはずなんだけど。 会社であまりにも嫌なことがあったのだろうか。 情けない顔をしている二口に店員さんが持ってきてくれた新しいおしぼりを渡す。 それを受け取ると口元を拭いて、「も〜」となぜだか怒ったような声を出した。
 会計を終えて居酒屋を出たころには、二口はまさにべろんべろんという感じだった。 わたしの肩につかまりながら「も〜〜」と言い続ける様子はまさに子ども。 それを引きずって電車に乗る。 座ると同時にわたしの肩を枕にして寝始める始末だ。 仕方なく二口の鞄の中からICカードを取り出して自宅の最寄り駅と思われる駅を確認する。 駅でタクシーを拾ってそこに放り込んでおけばどうにかなるだろう。 ため息をつきつつ二口のICカードを鞄に戻す。 すうすうと眠っている顔は高校時代と変わらないはずなのだけど、何かが違う気がした。
 二口の家の最寄り駅で降りる。 叩き起こされた二口は若干不満そうな顔をしているが放っておく。 ちょうどタクシーが一台停まっていたので二口を押し込みつつ「家の住所は?」と声をかける。 「ん〜」としか帰って来ない。 運転手さんが苦笑いしながら「相当飲みましたね」と言った。 仕方なくまた二口の鞄の中から財布を取り出す。 免許証を見つけたのでその住所を伝え、ようやくほっとしたのだけど。 このまま二口ひとりをタクシーに乗せると運転手さんが見ず知らずの大男を担ぐ羽目になる気がしてならない。 いろいろ悩んだ結果、明日は休みだし、自分の後輩なのだから仕方ない、と腹をくくっていっしょにタクシーに乗ることにした。
 タクシーが動き始めると二口はわたしの肩を枕にしてまた寝始める。 運転手さんがそれを笑って「かわいい彼氏さんですね〜」とからかってくる。 いや、彼氏じゃない、ただの後輩なんですけど。 それをそのまま伝えると運転手さんは笑って「失礼しました」と言った。
 しばらく運転手さんと話しをしているうち、意外と早く目的地に到着した。 割と新しめのマンションの下で停まったタクシーから二口を引きずり下ろし、料金を払うとタクシーは去っていった。 べろべろの二口に「部屋どこ?」と問いかけると「五階です〜」とちゃんと返事があった。 少しずつ酔いから醒めつつあるのだろう。 このまま完全復活してくれるといいのだけど。
 二口に肩を貸しつつマンションのエレベーターに何とか乗り込み、五階のボタンを押す。 二口が「三号室です〜」と追加情報をくれたので質問する手間が省けた。 エレベーターが五階に到着し、迷わず三号室の前に二口を引きずっていく。 「わたしもう帰るよ?」と聞くと「え〜」と返答がある。 え〜、って。 苦笑いしつつ二口の鞄をまた開けて鍵を探す。 鞄の底にあった鍵で扉を開けて二口を中に押し込もうとしたのだが、がっちり肩をつかまれているせいでわたしまで中に入る羽目になる。 ここまで来たら最後まで面倒を見るしかない。 二口を一度座らせて靴を脱がせる。 自分も靴を脱いで再び二口を引きずって「お邪魔しますよ〜」と言いつつ中へ入っていく。 ワンルームの部屋なのですぐにベッドが見えた。 そこに二口をぽいっと投げて大きく息を吐く。 疲れた。 重かった。

「じゃあわたし帰るね」
「え〜帰っちゃうんですか〜」
「帰っちゃうんです〜。 明日仕事じゃないよね? さすがに朝起こすのは無理だからね?」
「休みです〜」
「ならよかった。 じゃあ、また何かあったらなんでも連絡してね」
さん」
「ん?」
「水飲みたいです」
「……はいはい。 お水用意したら帰るね」

 相変わらず世話の焼ける後輩だ。 台所にちょうどあった洗ってあるコップを手に取る。 冷蔵庫の中を見るとミネラルウォーターが入っていたのでそれを注いで、「はい、どうぞ」と二口に手渡す。 二口は「どうもです」とそれを受け取ってごくごくと飲むと、「は〜〜」と言いながらベッドに寝そべった。 は〜〜、はこっちなんだけどな、二口くん。 苦笑いをこぼしつつ「じゃあね」と言って玄関に向かおうと、したのだが。
 突然ぐいっと手を引っ張られる。 あまりに突然だったのでバランスを崩してしまってベッド、というか二口の上に思いっきり倒れ込んでしまった。 「ちょっと」とわたしが言葉を出すより先にぎゅうっと思いっきり抱きしめられると、いくら相手が後輩とはいえ照れてしまう。 腕から逃げようとしつつ「なに、どうしたの」と笑ってしまった。 二口は無言のままぎゅうぎゅうわたしを抱きしめ続けている。 あれ、これ、ちょっとまずい気がする。 いや、まさかそんなことはないはず、だけど。 困惑していると腕の力が少しだけ弱まった。 その間に抜け出そうとしたのだけど、また少し強く抱きしめられたかと思ったら、ぐるんっと体を引っ張られる。 先ほどまで二口の上にあった体が下に移動していた。

さん」
「な、なんでしょうか」
「一回だけでいいからキスさせてください」

 ぐいぐい顔を近付けようとしてくる。 それをなんとか手で押さえつつ「いやいや」と苦笑いしておく。 二口は至極真面目な表情を浮かべて「一回だけでいいんで」と言って、さらにぐいぐいと顔を近付けてきた。

「あのね、二口」
「はい」
「そういうのは彼女とすることなの。 いい?」
「なんでですか」
「な、なんでですか……?」
「俺とさんがキスしちゃだめなんですか」
「だ、だめって、いうかね?」

 理由を説明しなくちゃ分からないの?! 内心かなり動揺しつつしどろもどろ言葉を出すのだけど、二口はすべてに「なんでですか」とまるで子どものような反応をするだけだ。 まだ酔っぱらっているのかと呆れたのだけど。 よく二口の顔を見るともう赤くない。 じいっとわたしの瞳を覗き込むその表情は真面目に戻っていた。

「だめですか」

 二口の額と顎のあたりを押さえていた手をするりと握られる。 二口はわたしの手をそのまま自分の口元に持っていくと、手の平に唇を押し当てた。 わたしの目を見つめながら、何度も何度もちゅ、ちゅ、と音を立てて手の平にキスをする。

さん、高校のときから俺のこと、好きでしょ」

 くすりと笑われた。 言い終えるとまた手の平にちゅ、ちゅ、とキスを落とし続ける。 「ねえ」と熱っぽい声をわたしの手の平に唇を当てたまま言う。 「さん、どうなんですか」と心底楽しそうに囁く。

「……ねえ、ばかにしてる?」
「え、なんでですか」
「ばかにしてるでしょ、わたしのこと」
「だからなんでですか?」
「……なんで、って」

 誰にも言ったことはない。 高校時代、わたしは部活の後輩である、二口に恋心を抱いていた。 死んでも言うものかと封印していたはずのそれを、どうして本人が知っているのか。
 二口はより一層楽しそうな表情を浮かべる。 唇をわたしの手の平から離し、にっこり笑ってずいっと顔を近寄せた。 「ねえ、なんでですか?」と言った声は今まで聞いた中で一番楽し気に聞こえる。

さん、知らないでしょう」
「……なにを?」
「俺、さんのこと、ずっと好きなんですよ」

 「ねえ、知ってました?」。 内緒話をするような、密やかな声だった。 二口はわたしの顔を見下ろして「すげー顔してますよ」とくすくす笑う。 その顔が先ほどまでの熱っぽい表情を違って、昔の二口そのままで少しだけ体の力が抜けた。 二口は少し体勢を直してからわたしの手を引っ張る。 自分の心臓の上にわたしの手をあてると「さん」と笑みを消した。

「俺とさんが、キスしちゃだめなんですか」


求めるのはひとつきり
▼title by 金星