「あっ」

 静かだった体育館にその声だけが響く。 用具庫からそろ〜っと顔を出すと、体育館の隅で何かを拾い上げている二口の背中が見えた。

「どうしたの」
「遠征のプリント! 誰か忘れていきやがった」
「黄金川に一票」
「同じく」

 二口はこちらに体を向けながら「つーか他に誰がいるよ」と苦笑いをこぼす。 わたしと二口しかいない体育館はとても静かなのだけど、不思議と寂しいとかそういう感じはない。
 他の部員は帰ったというのに、どうしてわたしと二口だけ残っているのか。 それは監督が二口に体育館の鍵を任せたことからはじまる。 今日は監督もコーチも用事があるとのことで練習を早く切り上げるつもりだったのだという。 けれど、黄金川の特訓やら自主練をしたい部員がいたことやらが重なり、監督たちに交渉したのだ。 その結果、「責任を持って主将の二口が戸締りの確認等をするなら特別に許可をもらう」となった。 そうしてそれを二口が受け入れてくれたのだけど。 いざ練習が終わると「戸締りは俺とがやるからお前らさっさと帰れ」と言い出したのだ。 体育館にある窓や扉のすべて、そして片付けられていない用具はないか、忘れ物はないか、その他不備はないか。 その確認だけだから二人で充分、という発言に他の部員は頷いて帰っていったというわけだ。

「主将さん〜用具庫は問題なしですよ〜」
「あと窓頼むわ」

 二口は恐らく黄金川が忘れて行ったプリントを四つ折りにしながらそう言う。 それに「了解」と返して上の窓をチェックしに行く。 二口はというと、体育館の扉を一つ一つ確認しているようだ。 なかなか生徒だけでこの確認作業をすることはないらしいので、念入りな確認になんだか笑ってしまった。 まあ確認し忘れがあって何かあったら監督に迷惑がかかってしまうので仕方ないのだけど。

「なあ」
「なにー?」
「帰りコンビニ寄ってこうぜ」
「わたし肉まんで」
「奢らねえよ」

 けらけら笑いつつ窓の確認を終える。 下に降りていると二口も扉の確認を終わらせたようだ。 あとは鍵をしっかり閉めて職員室に返すだけだ。 隅っこに固めておいたリュックを背負い、二口はスポーツバッグを肩にかける。 一応最後に靴箱周辺に忘れ物がないかを見てから体育館から出た。 鍵もしっかりかけて、薄暗い校舎を通って職員室へ入り、残っている先生方に「気を付けて帰れよ」と言われつつまた外へ向かう。

んちってどっちだっけ」
「あっち」
「うわ〜俺んちと逆かよ」
「え、なに、送ってってくれるの?」
「いや、さすがに」

 めっちゃ暗いじゃん、もう。 二口は空を見上げながら言う。 たしかにその通りだ。 とはいえまさか二口がそんなことをしてくれるとは思わなかった。 いいやつだとは思ってたけど、そういうイメージはなかった。 気のいい男友達というか、なんというか。 まあそういうふうに女の子扱いしてくれるとは夢にも思わなかったのだ。
 他愛ない話をしつつわたしの家の方向へ歩いていると、ふと思い出した。 そういえば二口って徒歩通学だったっけ? いつも近くのバス停からバスに乗ってなかったっけ?

「二口、ここでいいよ」
「は? なんで?」
「二口ってバスじゃなかった?」
「そうだけど」
「じゃあ本当いいって、まだ結構歩くし」
「や、別に大丈夫だし」

 二口はなんだか呆れた顔をする。 練習で遅くなった日は少し離れた駅まで歩いて電車で帰ったり、家族に迎えに来てもらったりしているから大丈夫だ、とさも当然のように言う。 いやいや、なんでこういうところだけ優等生になるのかなこの人は。 足を止めない二口に「だからいいってば」と声をかけるのだけどすべて無視。 「腹減った」だの「次どっち曲がんの?」だのわたしの話には一切反応しない作戦らしい。

「二口ってば!」
「あーあーもううるせえな、おとなしく送られろっつーの」
「だから、」
「じゃあ代わりに一つお願い事していい?」
「……内容による、というかそういう問題じゃなく、」
「付き合ってよ」

 わたしの少し前を歩く二口は、月がある方向を見上げながら呟くように言った。 本人はいたって自然に言ったつもりだろう。 けれど、いつもとちがう声色と静かな声。 もうそれだけで十分、いつもどおりではなかった。 冗談かと思ったのだけどどうやら声の様子から察するにちがうらしい。 自惚れにもほどがあると思いつつも、どうもそう思えてならなかった。
 二口の後ろを歩きながらどう返そうか考えてしまう。 冗談言わないでと笑うかちゃんと雰囲気を合わせるか。 こういう雰囲気は慣れないし、二口相手だと余計に慣れない。 考えたこともなかった問題を出されて、解き方も分からないし答え方も分からない。

「いや、なんか言えよ」

 月を見上げたまま二口が呟く。 なんだか軽く笑った声にどきりと心臓が反応した。 今なら「冗談だけど」と言ってくれれば笑えるよ、二口。 心の中でそう言うのだけど、残念なことに二口は口を開いてくれなかった。
 二口のことが嫌いというわけではない。 友達として好きだし、バレー部の主将として尊敬するところも多い。 いっしょにいたら楽しいし、ふつうに悩み事を相談したりもできる。 でも、まさか、恋人とかそういうふうに、考えたことがなくて。

「軽く冗談やめてよ〜とか言ってくれるかと思ったんだけど」

 二口が足を止める。 ゆっくりこちらを振り返った顔は、この暗さでも分かるほど赤くなっていた。

「ちょっと期待するじゃん、やめろって本当」

 困ったように笑う二口は「保留でいいって、保留で」と早口で言う。 なんだか気恥ずかしくなって「じゃあ保留にします」とかわたしも早口で言ってしまった。 二口はまた前を向き直すと「じゃ、この話は一旦終了で」といつもどおりの声色を出す。 歩き始めたその背中は前と少しだけちがって見えた気がした。


不明瞭なきらめき
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