もうさ、勘弁してよね。 そう言った俺に向けられた言葉は「でも来てくれたじゃん」というなんとも腹立たしいものだった。 真っ暗な寒空の下、電灯もほとんどない公園の真ん中。 まだ秋口だというのに部活のウインドブレーカーとマフラーで完全防寒している姿は、冬のときの何ら変わりはない。 ブレーカーのポケットに手を突っ込んだままのは「座ろうよ」とブランコの方を見た。
 から電話がかかってきたのは深夜二時過ぎだった。 今日は明日の練習試合に向けてかなりみっちり練習があった。 疲れていた俺はすっかり寝ていたわけだが、このからの電話で目が覚めてしまった。 電気もつけっぱなしで寝ていた俺は割と気分の悪い目覚めからの、深夜呼び出しだったというわけだ。

「帰ってもいい?」
「来たばっかじゃん!」
「明日試合なんだけど」
「知ってる知ってる!はい、座って」

 ばんばんと自分の隣のブランコの椅子を叩く。 もう、こういうのには慣れてしまったかもしれない。 とは小さいころからの幼なじみで、昔からこういう無茶ぶりが多いのだ。 こんな風に突然呼び出されることも何度もあったし、あれをしてほしいだのこれをどうだの。 まあ、そう言いつつ今日みたいに従ってしまう俺も俺だけど。 そんな自分にため息をついたら、白くなって夜の暗闇へ消えてしまった。

「なんなの、こんな夜中に」
「海に行きませんか!」
「……ごめん、俺耳遠くなったかも」
「海に!行きまっ」
「行きません」
「早い!」

 急に何を言い出すんだ、この馬鹿は。 心の中ではそう呟いて口では「お前馬鹿なの?」…あれ、心の中とほとんど一緒だ。 は「馬鹿じゃないですー」と口をとがらせて、少しだけブランコをこいだ。 ゆっくり動き始めるブランコの動きに合わせ、きーこ、きーこ、と錆びた音が公園に響く。 すごく昔、まだ俺もも自分の名前を漢字で書けなかったくらい昔。 はブランコがうまくこげなくて、いつも悲しそうに泣いていた。 見かねて俺が背中を押してやったり立ちこぎで一緒に乗ってやったりすると、本当に嬉しそうに笑ってくれたものだった。 それがなんだか嬉しくて、と公園にくるたび一緒にブランコに乗ったことをよく覚えている。 子どものころのことを思い出していると、なんだか妙に物悲しい気持ちになってくる。 高校一年生、まだ、そんな物悲しさを感じる必要などない年齢だろうに。

「いいじゃん、青春の一ページってことで!」
「あのさあ、俺明日ってか八時間後には試合だしそもそも電車動いてないんだけど」
「自転車がある」
「……どうしたの、急に」

 無茶ぶりが多いだけど、さすがに唐突すぎる。 あとなんといっても無茶すぎる。 ギリギリできる範囲でしかは無茶ぶりをしてこなかった。 それが今回は振り切りすぎていて、なんだか不気味だ。 は俺の視線から逃げるように目を逸らして、真っ暗な空を見上げる。 暗闇に溶けてしまいそうなの横顔は俺を不安にさせるには十分だった。

「高校入って、ますますおモテになるようで」
「……は?」

 は夜空を見上げたままにこにこと笑った。 「どういうこと?」と訊いてみてもはにこにこと笑うだけで、横顔はこちらを向かない。 モテるってなんの話だ。 きっと今自分の眉間にはしわが寄っているだろう。 頭をぐるぐる回して考えて、一つ思いついたのは部活後のことだ。 一週間前くらいの部活終わり、正門の前で女子からお菓子をもらったのだ。 コンビニとかで買ったやつじゃなくて、立派な箱に入ったお菓子だ。 そばで見ていたらしい及川さん曰く「まあまあいいとこのお菓子」だそうだった。 くれたのは一つ上の先輩で、話したこともなければ名前も知らない。 俺の横で見ていた金田一は「もうそれほとんど告白じゃん!」と興奮した様子で言っていたっけ。 たったそれだけでモテていると言っていいのかは分からないが、思い当たるのはそれくらいなものだ。
 だとしても、それとこれとに一体どんな関係があるというのだろうか。

「いまいち話が読めないんだけど」
「朝日が見たい」
「聞けよ」
「このまま朝までここにいようよ」
「絶対嫌だ」
「ひどいなあ」

 へらり。 まさにそんな笑い方だ。 相変わらず横顔しか見えないの顔は、笑いすぎているほどににこにことしている。 昔から自分の本心を出すのが苦手なやつだった。 そのことをよく知っている俺だからこそ、無理には訊かないようにしてきた。 無理に訊かないようにしていれば、は自分から話してくるからだ。 今日はなんだかそのタイミングも早そうだ。 俺がそう確信した瞬間、はまた口を開く。

「英にとってさ」
「うん」
「特別ってなに」
「質問の意味がよく分からない」
「どうすれば英の特別は生まれるの」

 きーこ、きーこ。 ブランコの錆びた音が次第に小さくなっていく。 ずりずり、と靴を地面につけてはブランコの動きを止めた。 俯いた顔が無理やり笑おうとしている。 俺、お前になんかしたのか? そう訊きたい気もするけれど、なんだか訊くのが怖い。 ただただの問いかけへの答えを考えることでしか不安はぬぐえない。

「特別なものなんてめったにないよ」
「なんで」
「めったにないから特別なんだろ。よく分かんないけど」

 冷たい風がの髪と一緒に、きらきら光るものを連れ去る。 暗闇の中でたしかに煌めいたそれにびくっと心臓が反応した。 本当にどうしてしまったのだろうか、は。 いつもと違う雰囲気やいつもと違う言動にひたすらに怯えるしかない。 なにかが壊れようとしている。 ただそれだけはよく分かった。 それと一緒に、がそれを壊すことを恐れていることも、痛いほどに。 壊さないようにしてきたものをきっとは自分で叩きつけて壊そうとしているのだろう。 それがなんなのかは、残念なことに察しが良い方の俺には、なんとなく分かってしまう。 分かってしまうからこそ怖いし信じられずにいる。
 きれいな月だけが俺とを照らしている。 まるで隠し事などできないように、見張っているみたいだ。

の特別なものはなんなの」
「英」
「それだけ?」
「うん」

 ようやくが俺の顔を見た。 相変わらず笑ったままの顔で情けなく「知ってましたって顔、むかつく」と呟いた。 そんなことを言われても、分かっていたのだから仕方がない。 はブランコから立ち上がって寒そうに手をすり合わせる。 くるりとこちらを振り返ったのと同時に、スカートが少しだけ翻った。

のその特別なものはどうやって生まれたの」
「どうやって?」
「きっかけとかあるだろ」
「えー分かんない。気付いたら大切だったよ」

 誰にもとられたくないくらいに。 はゆっくり、言い間違えないように、慎重に呟く。 言葉の一つ一つから穏やかな緊張が透けて見えてしまって、俺まで妙に意識してしまう。

「だからさ、誰もやらないようなことを一緒にやれば、なれるかなって」

 試合の前日、この寒さの中海へ行くもしくは朝まで公園にいる。 たしかに誰もやらないだろうし記憶には色濃く残ることかもしれない。 けれど、それはあまりにも乱暴すぎやしないか。 なんだか言っていることが割と理解不能な方向に向かっているを落ち着かせるために、とりあえず座るように言ってみる。 割と大人しくブランコに腰を下ろしたは「すっきりした」とどう見てももやもやしたままの表情で呟く。
 ついに、こんなときがきてしまったのか。 高校一年生、まだ、何も手放さなくても、十分に楽しく過ごせる年齢なのに。 がそれを求めないというのならば、この暗闇とともに消してしまうのもありなのかもしれない。

「本当、能天気だよね」
「ひどい」
「こんな深夜の呼び出しに付き合ってやってる時点でさ、ふつうは察してくれるもんでしょ」

 ブランコから立ち上がる。 よく分からない、といった様子のは俺を見上げて「帰っちゃうの」と不安そうな声で呟く。 帰るに決まっている。 明日は試合だし、ちゃんと寝ないと朝起きれないし、こんな思い出作りは不要だから。

「朝日を見るのは良いけど、ここじゃなくて俺んちね」
「……海は」
「来年の夏休み、暇のときにね」
「絶対嘘だ」
「嘘じゃない」

 に向かって手を差し伸べる。 はそれを見て、今日はじめてちゃんと笑った。 迷うことなく手を取ったは「朝日何時くらいかな」と弾んだ声で言う。

「起きてずっと外見てればいいじゃん。俺は寝るけど」
「え!一緒に見ようよ」
「出てきたら起こして」
「えー!」

 ケチ!と俺の背中をばしんっと叩く。 ケチもなにも。 反応するのも面倒だったので「はいはい」とだけ返しておいた。 公園から出て街灯の少ない道を二人で歩く。 冷たい風がびゅうっと吹いて思わず手を握る力を強めてしまう。 もそれは同じだったようで、少し安心した。 月の光が相変わらず見張っているように光るから、思わずため息が溢れた。

「付き合いましょうか」
「……私のこと好きなの?」
「うわ、重い女だ」
「ちょっと!なにそれ!」
「好きだから言うんじゃん」

 好きだよ。 試しに顔を覗き込みながら言ってやったら、は赤い顔をして「ぷっ」と笑った。 そりゃないだろ。 そういう気持ちを込めての頬をつねると、「だって」と余計に笑いが大きくなる。

「英、顔真っ赤なんだもん」

 ぴた、との左手が俺の右頬にあてられる。 とても冷たく感じるの手は心地いいようなくすぐったいような、不思議なものだった。
 気付いたら大切だった。 そんなことを言われて照れないやつが世界のどこにいるというんだろう。 当然のように俺の名前を出して、当然のように告白に近いことを言って来て。 照れずにいられるわけがない。 赤くなった顔を隠すように俯いたら、それを咎めるようにまた冷たい風が吹く。 街灯もないのに明るくて、赤い顔を隠すに隠せない。 何でもお見通しな月明かりに、ただただつないだ手を強く握ることしかできなかった。


きみが笑った、夜のこと