――大学二年、夏期休暇

「賢二郎、お昼そうめんでいいなら作るよ!」
「どっか行きたいとかないのかよ」
「ない!」

 賢二郎がちょっと変な顔をして「ならいいけど」と呟く。それからまた机の上に視線を戻した。
 大学の夏期休暇は長い。わたしもここぞとばかりにアルバイトや友達との予定を詰め込む、はずだったのだけど。事態が急変したのは二ヶ月前。地元の大学で医学部生として忙しくしている賢二郎からの連絡がきっかけだった。
 夏期休暇、死んでも東京に行ってやるからいつでも予定が合うようにしといて。いつになるかは分からん。たったそれだけの連絡。レポートと試験の日々で死にそうになっている中、賢二郎はわたしにそう連絡をくれたのだ。嬉しくないわけがなかった。
 アルバイトと友達の予定は程々にだけ入れて、ほとんど暇な日で夏期休暇が埋まった。でも、このどこかで賢二郎と会える。そう思うだけでわくわくして。わたしが地元に帰ろうと思っていたのに、まさか賢二郎が来てくれるなんて夢にも思わなかったなあ。そう、今年から一人暮らしをはじめた部屋を隅々からきれいに掃除したっけ。
 一年生のときは実家から大学へ通っていた。でも、実家から大学までは電車で一時間ほどかかる距離だ。朝が弱いわたしは一限目の授業を飛ばし続け、単位を落とす危機にまで陥った。それを見かねたお父さんが、反対し続けていたお母さんを説得して一人暮らしをさせてもらえることになったのだ。大学まで徒歩五分。最高の立地だった。たまにお母さんが様子を見に来るけど、思ったよりちゃんと生活できていることを褒めてくれる。最近はもうほとんど様子を見に来ることはなくなったほどだ。
 そんな一人暮らしをしている部屋に、今、賢二郎が来ている。夢みたい。賢二郎からは一週間前に「土日に行く」と連絡が来ていた。どんぴしゃでアルバイトを入れていない土日だった。ついている。そう嬉しくて堪らなかった。
 ただ、どうしてもレポートと課題だけは終わらせられなかったようで。わたしの家で二時間だけやらせてくれ、と言われて一時間が経ったところだ。珍しく賢二郎が申し訳なさそうにしていたけど、全然なんてことはなかった。賢二郎が目の前にいる。わたしにとってはそれ以上に嬉しいことはないのだから。

「行き詰まった。、なんか喋って」
「あのね、昨日大学で太一とね、」
「他の男の話やめろって何回言ったら理解できんだよ」
「え、えー、でも太一だよ?」
「チェンジ」

 くるくると右手でペンを回しながら舌打ちをこぼす。やだ、かっこいい。ずっとときめき続けているわたしとは裏腹に、賢二郎は難しそうな顔をしてちょっと苛立っていた。難しいレポートなんだって。一応説明してくれたけどこれっぽっちも意味が分からなかった。ちんぷんかんぷんな顔をしていたらちょっと満足そうに笑っていたな、賢二郎。
 そうっと賢二郎の隣に腰を下ろす。レポートを覗き込んでみるけど、難しい言葉がたくさん並んでいる。全然分かんないや。賢二郎はやっぱりすごいなあ。そうしみじみ噛みしめていると、じっと賢二郎がこっちを見てくる。わたしも賢二郎の顔を見つめ返すと「なんか喋れってば」と賢二郎が呟いた。

「なんでもいいの?」
「他の男の話以外なら」
「えー、じゃあ、賢二郎大好き〜」

 今日の服もシンプルだけど似合っててかっこよくて好き。難しい顔をして苛立ちながらレポートをしている横顔も好き。わたしの部屋に入ってからはちょっと借りてきた猫みたいになっているところも好き。さっきからちらちらこっちを気にしてくれることも大好き。全部好き。
 にこにこしながら賢二郎の話をいっぱいした。だって、話していて一番楽しい話題は賢二郎のことなんだもん。大学の話やアルバイトの話になると、どうしても男の人の存在が出てきてしまう。女の子の友達との話は賢二郎にとってはそんなに興味もないだろうし。
 勝手に一人で話しているわたしに「はいはい」と言いながら、賢二郎はレポートに視線を戻した。この話題でいいみたい。やった。本人に聞いてもらえるなんて一番いい。会えなかった分、言葉を尽くして時間を埋めなきゃ。そう思ったらいつもより話してしまう。でも、賢二郎がそれを咎めることはなかった。
 賢二郎の話をしていたら、なんだかぎゅってしたくなってしまう。賢二郎の背後にそそくさと移動して、特に許可を得ないままぎゅっと抱きつく。ほんの少しだけびくっと震えられたけど、これも嫌がられなかった。賢二郎の背中だ。こんなふうに抱きついたの、どれくらいぶりかな。たぶん最後は高校生のときかも。年末に宮城に住んでいるおばあちゃんの家に行ったとき、賢二郎がたまたま実家に帰っていた。意気揚々と遊びに行って賢二郎のお母さんともいっぱいお喋りしたなあ。そのときに賢二郎の部屋でこんなふうにずっとくっついてたっけ。
 すりすりと頬をすり寄せていたら、賢二郎がため息をついた。そんなに難しいのかな。顔を上げて、賢二郎の首元に腕を回して顔の横から手元を覗き込む。「難しいの?」と、今日何度目かの質問を投げかける。賢二郎でも分からないことってあるんだなあ、ってびっくりしちゃって。そんなふうにもう一度言うと「見りゃ分かるだろ」と言われてしまった。うん。見ても分からないから難しいんだなって分かるよ。そうけらけら笑って、もう一つぎゅっと抱きついた。
 賢二郎のほっぺがわたしのほっぺにくっつく。あ、賢二郎のほっぺ、もちもちだ。いいな。おいしそう。そんな子どもみたいなことを考えながら顔を離す。至近距離から見る横顔も、やっぱり好き。かっこいい。胸の奥がきゅんと音を立ててしまって仕方がない。思わずほっぺにちゅーをしてしまった。

、なんかつけてる? 甘い匂いがするんだけど」
「え? なんだろう。香水とかは持ってないよ〜」
「なんかフルーツの匂いみたいなやつ」
「あ! リップかも! 香り付きって書いてあった気がする」

 ほっぺにちゅーしたから分かったのかな? 好きじゃない匂いだったかも。ごめんね。そう言いながら賢二郎のほっぺを指で拭いておく。でも、賢二郎が「別に嫌じゃない」と言ってくれたので拭くのはやめた。「えーじゃあもう一回するー」とにこにこしてしまいながらまたほっぺにちゅー。それから賢二郎のさらさらの髪にほっぺをすりすりする。今日は良い日だ。またしばらく会えなくなっちゃうから今のうちに堪能しておこう。
 そのときだった。ぴんぽん、とチャイムの音。誰だろう。今日は特に誰も来る予定はないし、荷物を頼んだ覚えもないけど。もしかしてお母さんかな? そんなふうに独り言を呟くと、賢二郎がびくっと肩を震わせた。「早く出ろ」と言ってシッシッと払ってくる。えー、もっとくっついていたかったのに。そうぶーたれながら渋々離れる。とぼとぼと玄関に歩いていき、特に確認しないままドアを開ける。その先にいたのは。

「え、太一だ! どうしたの?」
「訪ねてきた俺が言うのもなんだけど、誰が来たかくらいは確認したほうがいいと思います……」
「同じく」
「えっ、赤葦?! どうしたの?! 久しぶりだね?!」
「さっきたまたま川西とそこで会って。の家に行くって言うからついて来てみた」

 いつの間に知り合いになったんだろう。そう不思議に思っていると、「お互い顔だけは覚えていた」と二人とも笑った。知り合いというか、なんか知ってるな〜くらいの感覚で声を掛けたのか。恐るべし、運動部のコミュニケーション能力。
 太一は賢二郎から「東京にいる」とだけ連絡をもらっていたそうだ。賢二郎がいるとすればわたしの家、と目星をつけて来たらしい。赤葦は本当にたまたま駅を歩いていただけらしい。それでここまで来るんだからフットワークが軽すぎる。相変わらずだね。そう笑うと「そっちもね」と笑ってくれた。

「で、白布いるの?」
「いるよ! でも難しいレポートと戦ってる!」
「あいつ彼女の家に来てまでレポートやってんのか……医学生やばいな……」
「え、白布くん医学生なんだ。すごいね」
「でしょ!」
「なんでが誇らしげなの」

 わいわいと話していると、部屋に続いているドアが開いた。賢二郎が「おい」と不機嫌そうな声で声を掛けてくる。そうして玄関を見るなり、なんだか変な顔をした。

「よ。久しぶり」
「久しぶり。っていうか、俺のこと覚えてるかはあれだけど。梟谷セッターだった赤葦です」
「いや、まあ、それは覚えてる……けど、え、何? に用?」
「近くを歩いてたら川西と会ったからついて来ただけ」
「俺は白布の顔を見に来ただけ」
「ああ、そう……」

 死んだような声だ。太一がそう苦笑いをこぼした。赤葦も同じく。だって本当に難しいレポートなんだよ。大変なんだから! そうわたしが力説すると「内容を理解してねえやつが威張るな」と怒られてしまった。
 まあとりあえず、せっかく来たんだしお茶でも。そうお客さん用のスリッパを出したら「え」と三人がハモった。それに「え?」と返すと、賢二郎はちょっと不機嫌そうに、太一は面白がるように、赤葦は少しだけ困惑するように、それぞれわたしを見ていた。何か問題でも? 梅のジュースあるよ! おいしいやつ! そう笑ったら「じゃ、お邪魔しま〜す」と太一が先頭を切った。

「なんか……ごめんね?」
「いや……こいつは昔からこれだし、もう気にしたら切りがないから」
「ああ、なんか、ちょっと分かる気がする……」

 賢二郎と赤葦の会話に首を傾げる。わたしのことかな? 何の話だろう。よく分からないけど、赤葦も上がってくれるみたいだし、まあいいか。
 すごい、こんなに部屋がぎゅうぎゅうになったの、はじめて見たよ! そう一人ではしゃいでいると太一が「でかい男三人入ったらこうなるだろ」と笑った。確かに。太一も赤葦も180cm超えてるもんね。賢二郎も平均より大きいし。
 とりあえずお母さん直伝の梅ジュースを出しておく。夏といえばこれなんだよね、我が家は。賢二郎もさっきまでずっと飲んでいた。さすがに今はお茶を飲んでいるけど。

「うわ、白布マジでレポートやってんじゃん……」
「お前もやる気出せよ。今年は単位全部取れるんだろうな?」
「ちょっと聞こえなかったことにしていいですかね」
「え、白鳥沢って進学校なんじゃなかったっけ?」
「進学校でもほら、スポ薦なんで……学力とか母さんの腹に忘れてきたんで……」
「取りに帰ったら? 大事に取ってくれてると思うよ」
「嘘じゃん赤葦そういうタイプ?」

 なんかこういう会話、懐かしいなあ。大学では特に部活に入っていないから、こういう同年代の男の子の会話に入ることがなくて。賢二郎たちの会話を聞いていると、高校時代を思い出してしまった。楽しかったなあ。賢二郎がいなくて寂しかったけど、それでも楽しい思い出はたくさんある。もちろん大学も楽しいけどね。
 わたしも笑って茶々を入れつつ、とりあえずさっきの定位置へ。また賢二郎を後ろがらぎゅっと抱きしめると、太一がぎょっとした顔をした。ついでに赤葦も。え、何? そう首を傾げていると、賢二郎も「なんだよ」と首を傾げた。

「何、その距離感。ビビるんだけど」
「え? なんで?」
「いや、なんでって。何がおっぱじまるのかとどきどきしたわ」
「二人のときはいつもこれだぞ。気にすんな」
「いや、結構無茶がある」

 変なの? そう首を傾げたわたしに赤葦が「変っていうか」と苦笑いをこぼした。ちょっと照れくさそうにしている。それを不思議に思っていると、賢二郎が「こいつに普通の感覚は期待しないほうがいい。こっちが慣れるほうが楽だぞ」と言った。

「つーか白布はそれでいいんだ? 真っ先にブチギレそうなのにな」
「仕方ねえだろ。もう慣れたし」
「大丈夫? ムラムラしないの?」
「うるせえよ。お前と一緒にすんな」
「ひどくない? ねえ、赤葦くんあの人ひどくない?」
「ひどいっていうか鋼の精神だなって感心する」

 賢二郎の耳元で「変なの?」と聞いてみる。賢二郎はレポートの資料を見ながら「もう俺は慣れたからいいだろ」とだけ言った。賢二郎がいいって言うならいいや。わたしも気にしない。そうにこにこしていると、太一が「思ったより重症だった」と笑った。何が?
 それから四人でわいわい話して、十数分後。赤葦が「あ、俺そろそろ」と言って立ち上がる。続けて太一も「じゃあ俺も。邪魔したら命があれだし」とけらけら笑った。帰っちゃうの? せっかく楽しい時間だったのに。そうしょんぼりしていると、赤葦が「まあまあ。あ、来月OB飲み会あるみたいだから、また小見さんから連絡あると思うよ」と教えてくれた。え、楽しみ! かおりちゃんや雪絵ちゃんも来るかなあ。たくさん話したいことがあるから会いたいなあ。そう言ったら赤葦が優しい顔で笑った。



うわさのケンジロウくんパート4 前編