※主人公の会社の人たちが出てきます。




さんってもう彼氏と長いんでしょ? 結婚しないの〜?」
「課長〜それセクハラになりますよ〜。ね、さん?」
「嘘っ、ごめんね?! そんなつもりじゃないからね?!」

 慌てた様子で課長が謝ってきた。それに曖昧に笑って「大丈夫です」と返しておく。飲み会の席ではよくある話題だ。全然そんなふうには思わなかったけれど、正直振られて困る内容ではあった。
 彼氏のことはあまりおおっぴらに話せなくて、悩みがあっても誰にも話さないようにしている。高校と大学が一緒だったわたしの彼氏は、人気バレーボール選手として活躍しているからだ。本人が恋人がいると当たり前のように公表したのだけれど、チームの人から「彼女のことも考えてあげなきゃ」と言われて、個人情報に繋がりそうなことは言わずにいてくれている。MSBYブラックジャッカル所属のバレーボール選手、佐久早聖臣。わたしの彼氏の名前だ。
 高校のときはわたしの片思いだった。佐久早くんはとてもじゃないけれど恋愛なんてしなさそうなタイプだったし、告白しても無駄だろうと思っていた。ずっと横目で佐久早くんを見つつ卒業。それから大学へ進学したわたしに奇跡が起こったのは、大学一年の夏休みだった。
 友達に強引に連れて行かれた合コン。それに、佐久早くんが来ていたのだ。嫌そうな顔をして終始そっぽを向いていた様子からして、わたしと同じように強引に連れてこられたのだろうとすぐに分かった。そんな無理やり連れてこられた者同士、きれいに余ってしまって。「久しぶり」という会話からはじまって、終わるまでの時間を二人で喋って乗り越えた。夢みたいな時間だったな、今思い出しても。その夢のような時間がきっかけとなって、その翌年わたしは佐久早くんとお付き合いをすることになったのだ。まさに夢でしかない。今でも、たまに思い出して噛みしめてしまう。この夢の時間を。

さんって彼氏のこと全然教えてくれないよね。どんな人なの?」
「え、あー……同い年の人です」
「それしか教えてくんないじゃん! イケメン?」
「か、かっこいいと、思います」

 今日は今年入社の新入社員たちの歓迎会だ。さっきから営業部のお偉いさんたちに洗礼を受けつつ頑張っているのを端っこで見ている。わたしたち総務部も一応呼ばれているけれど、毎回こうやって端っこに集まっていつものメンバーで楽しんでいることが多い。
 ロールスクリーンで仕切られた居酒屋。個室≠ニ謳うには少し頼りないけれど、予約してしまったものは仕方がなくて。隣にまだ誰も来ていないから割と気にせずにいられた。でも、店員さんが通路を歩いてきて「十名様こちらです!」と案内しているところからして、隣のテーブルにもお客さんが来たようだ。しかも団体。ロールスクリーンで仕切られているので向こうは見えないけれど声は聞こえてくる。こちらの会話もほぼ筒抜けというわけだ。気付いた先輩がちょっと落ち着かないね、とため息をもらした。
 程なくして隣に団体客が入ってくる。どうやら男性ばかりのグループのようだ。そう思っていると、ふと、聞き覚えのある声が聞こえた気がした。思わず聞き耳を立ててしまうと「ちょお靴脱ぎ散らかすなや!」と関西弁が聞こえてきた。関西に知り合いはいない。佐久早くんが所属しているチームが大阪をホームにしているからよく行くところではあるけれど。
 佐久早くんは今、チームの遠征で東京にいると言っていた。会えたら嬉しいな、と思っていたけれど忙しい佐久早くんにそんな暇はきっとない。自分から会いたいというのはやめておいた。思った通り何の連絡もないまま、佐久早くんが東京に来て二日目の夜を迎え、もう明日には帰って行くとのことだった。仕方がない。遊びに来ているわけではないのだから、会えなくたって普通なのだ。そう苦笑いをこぼしてしまった。

「とりあえず全員ビールでええんか?」
「侑さん幹事みたいっスね!」
「誰のせいやと思てんねん。ちょお臣くん、そっぽ向いとらんと飲みもん!」
「うるせえよ……」
「暴言!」

 ドキッとした。今の声。呼ばれた名前が臣くん≠ナ、呼んだ人は侑さん≠ニ呼ばれていた。わたしの聞き間違いでなければ、この関西弁はMSBYブラックジャッカルの宮侑選手のものなのではないだろうか。そして、臣くん≠ニ呼ばれた低い声、佐久早くん、だ、きっと。
 このロールスクリーンの向こう側に、佐久早くん、いるのかな。気になって仕方がなくて挙動不審になってしまう。そんなわたしに正解を教えてくれるような大きな声で「飲みもん何にすんねんって聞いとんねん、オイコラ佐久早聖臣!」と宮選手がフルネームを言ってくれた。間違いない、珍しい名字にきれいな名前。佐久早くんだ。一人でそう舞い上がりそうになってしまう。

「オミオミ、彼女と会えなくて拗ねてんの?」
「えっなんやそれ、意外とかわいいとこあるやん……!」
「うるせえ黙れ注文だけしてろ」
「暴言!!」

 佐久早くんに限ってそれはないですよ、と内心返しておく。苦笑いを浮かべているわたしに先輩が「どうしたの?」と心配そうにしてくれた。慌てて「いえ、何でも」と返しておく。下手にここで向こうに知り合いがいるとバレると、そこから彼氏だとバレてしまうかもしれない。佐久早くんのチームの人にも注意されてしまうかもしれないし、ここは知らんふりを決め込むしかないだろう。
 付き合って三年ほどが経っても、わたしは未だに佐久早くん≠ニくん付けで呼んでいるし、どうにも普通の彼女のように振る舞えない。友達にも「相手は彼氏なんだからもっと甘えれば良いのに」と言われるけれど、相手が彼氏でもその彼氏が佐久早くんだからできなくて。それが小さな悩みとしてずっと胸の中にある。

「臣さんの彼女ってどんな人なんですか? 写真とか見せてもらったことないんですけど!」
「見せるわけないだろ……」
「高校一緒やった子なんやろ? いつからやっけ?」
「うるせえよ、興味を持つな」

 嫌がってる。くすりと笑ってしまった。それにしても佐久早くん、チームの人の前だとこういう感じなんだなあ。気を遣っていないのがよく分かる喋り方をしている。わたしといるときとは全然違う。どっちが素なのか、といえば、チームの人たちの前なんだろうなあ。
 恐らく木兎選手と思われる声が「彼女かわいい?!」と聞いた。その質問にビクッとしてしまう。かわいいとか、言われたこと、ないなあ。もちろん自分がかわいいなんて思ったことがないから言われなくて当然だ。けれど、もしかしたら、彼女だからかわいく思ってくれていたり、とか。おこがましくもそう少しドキドキしてしまう。佐久早くんの口からそんなことを言われた日には、今年一年それだけで仕事頑張れちゃうかも。

「かわいいとかそういうのじゃない」

 からん、とグラスの氷が揺れた音がやけにうるさく聞こえた。その次の瞬間に宮選手が「ひっど!」と言い、木兎選手も「彼女かわいそー!」と言った。
 浮かれていたんだなあ、わたしは。夢みたいな時間が長く続いて、現実のように思えていた。夢は夢でしかない。彼女だからかわいいと思ってくれているかも、なんて、本当におこがましい。なんて恥ずかしい勘違いをしていたのだろうか。きゅっと拳を握る。かわいくて仕方がない彼女だったら、ちょっとの時間でも会いたいと思うだろう。東京にいる二日間、わたしには一切連絡がなかった。佐久早くんはもしかしたら、わたしのことはもう何とも思っていないのかもしれない。付き合いはじめこそ、そんなふうに思ってくれていたのかも知れないけれど。もしかして、本命の子がいたりするのかな。そんなことまで考えてしまう自分がいた。
 課長がわたしの顔を覗き込んで「大丈夫? 顔色悪くない?」と言った。ハッとして顔を上げたわたしを見て先輩も「酔っちゃった? 送って行こうか?」と気遣ってくれる。慌てて謝って、とりあえず少し酔いが回って気分が良くないからと、申し訳なかったけれど先に帰らせてもらうことにした。先輩が送ろうとしてくれたのをどうにか断る。席を立って居酒屋から逃げるように出た。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「……オイ、面貸せ」
「ガラ悪すぎんねんけど……怖すぎるやろ……」

 東京遠征から一ヶ月が経ち、またしても明日の試合のために東京に前乗りしてホテルにいる。正直死ぬほどコイツに頼るのは嫌だったが、話を聞くのに一番向いていると判断して仕方なく声をかけている。ホテルにあるトレーニングルームで声をかけた宮は恐ろしいものでも見たような顔をして俺を見ている。じっと俺を見ていたかと思うとハッとした様子で「なんや、え、トス変やった?」と見当違いなことを言ってきた。

「違う」
「なんやねんそしたら。臣くんから声かけてくるとか怖すぎんねんけど」
「……お前、今、付き合ってるやついたっけ」
「…………ごめんな、臣くん……臣くんのことは友達としか見られへんわ」
「くたばれよ」
「冗談やん」

 宮は「今はおれへんけども?」と不思議そうに言う。コイツに聞くのは心底嫌だが背に腹はかえられない。思わず舌打ちをこぼしてしまいつつ「彼女と連絡ってどれくらいの頻度で取ってた」と簡潔に質問をぶつけた。

「え、まあ俺はマメなほうやで、一日一回は何かしら送るようにしとったけど?」
「……向こうからは」
「そんなん相手によるやろ。あんま送って来やん子もおるし、逆もおったけど」
「送ったものへの返信は」
「向こうがっちゅう意味? 基本その日のうちに返信あるやろ、普通」
「ふーん」
「え、何これ? 何の質問やねん」

 不思議そうにしていた宮が「あ!」と俺を指差した。それから面白がるように口元を手で押さえつつ「彼女となんかあったやろ!」と言った。舌打ちがこぼれた俺を笑って「図星やん」と言うのでとりあえず蹴飛ばしておく。
 土曜日の今日、せっかく東京に来ているし、今日は特に予定がなかった。も仕事が休みだろうと思って前日に連絡を入れたが返信がないままだ。こんなことは今までなかった。忙しいのかとも思ったが、はこれまで返信をその日のうちに返してくれていた。一日経っても返ってこないのははじめてだったし、正直、それ以外にも気になっていることがある。
 最近妙によそよそしいのだ。なんとなくだが。喧嘩をしたわけでもないのに態度が、明らかに俺に気を遣いすぎているというか。前々から俺への態度が取引先のお偉いさんへの対応みたいというか。そういうのと大して変わらない気がしている。どこかに一緒に行くと必ず俺より先にドアを開けるし、週刊誌を恐れているのか滅多に家まで送らせてくれない。そればかりかから連絡をしてくることは本当に稀だし、電話に至ってはかけてきたことが一度もない。

「あ、分かったわ。彼女に無視されとるんやろ? うわ〜かわいそ〜」
「うるせえ」

 言い当てられるとただただ腹が立つ。舌打ちをこぼしつつ背中を向けると「まあ、とりあえず思うとることは全部口に出したほうがええで」とアドバイスされた。コイツにアドバイスされるのがこんなにムカつくことだとは思わなかった。思ってることを全部ぺらぺら喋れたらそりゃ気楽だろうな。そんなふうに悪態を内心で吐きながら、無言でトレーニングルームを出た。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 佐久早くんからの連絡を、二日間も無視してしまった。こんなことをしたのははじめてで嫌なドキドキに毎日襲われている。きっと呆れているだろうな、佐久早くん。返信くらいできるだろって思ってるんだろうな。いや、もしかしたら、わたしからの返信がなくても気にしていないのかもしれないけれど。
 かわいいとかそういうのじゃない。佐久早くんが言った言葉が妙に胸に刺さったまま痛くて仕方がない。そういうのじゃなかったら一体どういうのなんだろうか。佐久早くんにとって本当にかわいい彼女は別にいるのではないだろうか。そんなことばかりがぐるぐる頭を回って、どう佐久早くんに向き合えば良いのか分からなくなってしまった。
 前に、雑誌のインタビューで女の子に言い寄られるのがあまり好きじゃない、と答えていたのを読んだことがある。恋人がいると公表したのもそれを回避したいからだったのかな。わたしはそのためだけの彼女だったのかな。
 そう思ってしまうくらいにはショックだったのだ。自分のことをかわいいなんてもちろん思っていない。彼氏だから言ってくれるでしょ、なんておこがましいことも思っていない。それでも、少しくらい、そう思われていたいなと思ってしまった。別に会いたいわけじゃない、かわいいと思っているわけでもない。そんなわたしと付き合っているのはなぜなのだろう。そんなもやもやが止まらずにいる。
 もうすぐで日曜日が終わる。明日も出勤だ。大事な会議があるし、午後からは新人研修も任されている。頑張らなくちゃ。一つ伸びをして時計を見上げる。午後九時。佐久早くんはもうホテルで寝る支度をしているころかなあ。それとも誰かと遊んでいたりするのかな。少し俯いてそんなことを考える。
 甘い物でも食べて気分を変えよう。立ち上がって上着を羽織る。財布とスマホを持って部屋を出た。コンビニでアイスでも買おう。何か飲み物も買っちゃおうかな。そんなふうに無理やり考えつつエレベーターに乗った。
 一階で降りてマンションのオートロックを解除。意気揚々と外へ出て歩いて五分ほどのコンビニを目指して左に曲がった瞬間「あ」と低い声が聞こえた。びっくりして思わず足を止めると、大荷物を持った佐久早くんが歩いて来ている。え、なんでこんなところに? 呼吸がぴたりと止まってしまっていることに気付いて大急ぎで息を吸う。どうしよう、わたし、連絡返信してないのにスマホ片手に持ってる! 佐久早くんがものすごい形相で「おい」と近付いてきた。慌てて反対方向に走ろうとしたら、履いてきた突っかけがなぜか脱げてしまって、その場に顔面から思いっきり転んでしまう。

「何やってんの、大丈夫かよ」

 呆れた声で佐久早くんが荷物を、あろうことか地面に置いてからわたしの腕を引っ張ってくれた。痛い。この年齢で転ぶのは恥ずかしすぎる。足も擦りむいたし。佐久早くんの連絡を無視したからきっと罰が当たったんだろう。起き上がりつつ恐る恐る佐久早くんの顔を見上げると、明らかにちょっと怖い顔をしていた。怒ってる。そりゃそうだ。二日間も連絡への返信がないのだから。
 でも。ちゃんと、返さない理由が、あるんだよ。内心そう呟く。わたしのそんな呟きなど佐久早くんに聞こえるわけがない。佐久早くんはわたしの腕を掴んだまま「返信、もらってないんだけど」とだけ言った。

「ご、ごめん、見てなかった」
「じゃあ今右手に持ってるのは何なんだよ。スマホだろ。なんで見てないんだよ」
「その……ご、ごめんなさい、気付かなくて、」
「嘘吐くな。これまですぐ返信くれてただろ」

 掴まれている腕が少し痛い。佐久早くん、やっぱり怒ってる。自分の思い通りにならないからイライラしてるのかな。そんなふうに思ってしまうわたしを知る由もない。ぱっと腕を離してくれてほっとしたけど、佐久早くんが分かりやすく怒っているところなんてあまり見たことがなくて、ドキドキしてしまう。このまま別れようって言われるのかな。もうわたしのことなんていらないって思ってるのかな。面倒だもんね。そう思って当然だよ。そんなふうに。
 怖くて顔を見られない。俯いて道路だけをじっと見つめていると、佐久早くんが顔を覗き込んできた。びっくりして目を見開いてしまうと「怒ってる?」と聞かれる。その表情が、なんだか、叱られた子どもみたいに、かわいくて。どうしてそんな顔をするんだろう。よく分からなくて言葉が出せなかった。

「俺、なんかしたっけ」

 小さな声だった。いたずらを咎められた子どものような。それは恐らく理由が分からないことへのかすかな罪悪感からのことだっただろう。
 なんで優しくするの。かわいいとかそういうんじゃない相手なんだから、もっと怒って責めて突き放せばいいのに。ぐっと拳を握ってしまう。
 別に、結婚してほしい、とかそういうことを言いたいわけじゃない。彼女なんだから特別扱いしてほしいわけでもない。ただ、少しだけ、勝手に期待してしまっただけのこと。少しだけ、たった一瞬だけなら、言葉にしてくれるかなと思ってしまったわたしが悪い。一緒にいられるだけで、このポジションにいられるだけで満足だと思わなくちゃいけないのに。

「な、何もしてない、よ」
「じゃあなんで返信くれないの」
「本当にごめん、忘れてて」
「見てなかったとか気付かなかったとか忘れてたとか一貫性がない。嘘つくな」

 そっと視線を逸らしてから小さな声で「傷付く」とだけ呟く。その言葉がわたしにもそのまま刺さって傷をつけてきた。傷付く。わたしもだよ。いくら自分でかわいいとか特別だとか思っていなくても、好きな人から言われたら、傷付く。
 人の笑い声が聞こえてきた。近所のコンビニからこっちに歩いてくる若者集団らしい人影が佐久早くんの後方に見える。まずい、バレーに興味がある人じゃなかったとしても見覚えがある人だと思う可能性もある。慌てて佐久早くんの腕を引っ張ってマンションの入り口の端に寄る。佐久早くんの腕を掴んだまま集団が去るのを無言で待っていると、佐久早くんがマスクをずらしたのが視界の端っこに見えた。
 集団の賑やかな声が真横を通り過ぎようとした瞬間、女の子が一人「きゃっ」と声を上げた。それにつられて他の子たちもそんな声を上げてこそこそしながら足早に去って行く。その理由は一つだった。
 佐久早くんが丸めた背中を少し伸ばして、顔を離す。「で、何に怒ってんの」と囁くようにこぼした。その佐久早くんの顔を見上げてぽかんとしてしまう。なんで今、キスしたんだろう。そういうこと、外でしたくないタイプだと思っていたのに。人に見られちゃったけど、気にしていないのだろうか。
 怒ってないよ。視線を逸らしながらそう言うけど、佐久早くんは「嘘つくな」とわたしの顔を上に上げさせる。潤んでいるであろう瞳を見た顔がぎょっとしたのが分かった。

「なあ、何? 俺何したっけ。言われなきゃ分からないんだけど」

 するりと頬を撫でられた。長い指。少し冷たいけど好きな体温に変わりはない。わたしはこんなにも佐久早くんのことが好きで、かっこいいなあといつも思っていて、できればこれからも一緒にいられたらいいなと思っている。でも、佐久早くんは、そうじゃないのかな。そんなふうに欲張ってしまうようになった。わたしばかりが佐久早くんのことが好きでたまらないだけなのだ。それが、少しだけ、寂しいよ。なんて。

「かわいくなくてごめんね」
「……は?」
「いろいろ、雑誌を参考にしたり友達を真似したりしてみてるんだけど、全然で。ごめんね」
「待って。何の話?」

 心底意味不明、というような顔をされた。そんなことを言ったなんてこと、覚えてないよね。佐久早くんにとってはただ口を開いて声に出しただけの発言。何一つ印象には残っていないのだろう。それがわたしにとっては、とても鋭いものだったなんて、佐久早くんが知るわけもない。仕方ない。わたしはその程度でしかないのだから。
 真ん丸な瞳がぐるぐると答えを探すように回っている。そんなふうに見えた。佐久早くんはわたしを見つめたまま「どういう意味?」と首を傾げる。

「俺、かわいくないとかそういうことは言ったことないと思うけど」

 かわいくない、とは言っていない。確かに。でも、逆もない。おこがましくもそんなふうに拗ねているだけ。幼稚だなあ。ちょっと苦笑いがこぼれてしまった。佐久早くんがわたしの肩を掴んでぐっと顔を寄せてくる。「説明して」と言う顔がほんの少しだけ困惑を浮かべていた。

「……一ヶ月前に、あの」
「一ヶ月前って……俺が遠征で東京来てた頃か?」
「い、居酒屋さん、行かなかった? チームの人と」
「行ったけどそれが何?」

 佐久早くんがわたしの髪に指を絡めた。「何?」と答えを急かすように髪を撫でる指が好きだ。佐久早くんが触れてくれるということは、受け入れてくれているという証明だから。どこを触られるのも好きだ。好きで好きで、好きで、たまらない。何をされても嬉しい。そんなことを言ったら佐久早くんは、鬱陶しがるだろうか。

「……か、かわいいとか、そういうのじゃない、って」
「…………それ」
「あの、違うの、かわいいって言われたいとかそういう意味じゃなくて、ちょっとだけ、寂しかった、と、いうか」

 どうしよう、恥ずかしい。言ってしまった。自惚れていると思われているだろう。別に美人でも何でもないくせに調子に乗ってしまった。恥ずかしくて恥ずかしくて、佐久早くんの指から逃れて距離を取る。佐久早くんは呆気に取られた様子で、珍しく間抜けな顔をしてわたしを見つめるだけだった。
 表情を変えないまま佐久早くんがゆっくり一歩、わたしに近付く。合わせてわたしも一歩下がる。それを繰り返すうちにマンションの外壁にとんっと背中がぶつかった。佐久早くんが両手を外壁につくと、もう逃げ場がなくて、今にも消えてしまいたいくらい恥ずかしくなる。
 佐久早くんのきれいな瞳が月明かりにゆらりと光った。それが見えるくらい近くにいる。

「そういう意味じゃない」

 ぽつりと呟いた佐久早くんがじっとわたしを見つめてから、静かに瞼を閉じる。それからそっと顔を寄せると、今が夜だと忘れてしまうくらい優しく口付けを落とした。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




――一ヶ月前、東京のとある居酒屋

「かわいいとかそういうのじゃない」

 俺がそう言った瞬間に宮が「ひっど!」と信じられないものを見る顔で言った。それからすぐ木兎さんが「彼女かわいそー!」と喚く。うるさい。自分でも今の発言は言葉が足りなかったなんて分かってるんだよ。
 と付き合い始めたときは、正直結構軽い気持ちだった。高校時代から印象が良かったし、久しぶりに会って話したときにも何のストレスもなかった。そういう異性は俺にとってはとても貴重で。なんとなく俺に気があるように見えたし、俺もに好意があった。彼女にするならがいい、という本当にささやかなものだったけれど。
 付き合いはじめてから、俺はに腹が立つことばかりだった。うちに来ると頼んでいないのに必ず玄関で除菌だのなんだのと忙しない。俺が少しでも近付こうとすると緊張してばかりだった。何をするにしても俺の言いなりで自分の意見を言わない。そのくせいつでも楽しそうに笑っている。そういうところがとても腹立たしかったし、とても、愛しいと思った。俺のことを好きだと思っているのだと、本当にこっちが恥ずかしくなるくらい分かる様子だったから。
 かわいいと思うことは多々ある。でも、そういうんじゃないなって最近は思う。かわいいから一緒にいるわけじゃないし、かわいいから連絡を取っているわけじゃないし、かわいいから会いたいと思うわけじゃない。だからかわいいと思うし、会いたいと思うし、一緒にいたいと思う。だから、木兎さんからの「彼女かわいい?!」という問いかけに「かわいいとかそういうのじゃない」と答えてしまったのだ。俺にとってはかわいいが先行する存在ではない。かわいいは副産物であって主役ではない。我ながら面倒だがそう思ってしまった。

「そんなん言うとったら彼女にフラれるで〜。かわいいかわいい言うとかんと」
「なんでお前らに言わなきゃなんねえんだよ」
「惚気るくらい誰でもするやろ。なんや、飽きてきとんのか?」
「オミオミ別れるの?」
「ど、どんまいです……?」
「うるせえ違ぇよ。何よりも好きだ馬鹿」

 ゲ、とすぐに声が漏れた。刺身用の醤油を小皿に入れていた宮がどばどばこぼしながら「惚気よった!」と俺を指差して大笑いしはじめる。醤油こぼれてんぞ馬鹿かよ。思いっきり太腿を蹴ってやると、醤油を空中に舞わしながら倒れ込んでいく。日向が醤油を大急ぎで拭きつつ「おっ臣さんが惚気た……!」と赤い顔で言うからムカついて舌打ちがこぼれた。

「オミオミが惚気るって、なんかイイな……! ラブイズピースだな……!」
「意味分かんねえから黙ってもらっていいですか」



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 唇が離れてから、佐久早くんが額をわたしの首元に当てた。熱を分け合うようにしばらくそのままじっとしていたのに、しばらくしたらくつくつと笑い始める。佐久早くんは壁についていた手を離してわたしの肩をそっと掴んだ。しばらくそのまま放ったらかしにされてしまって、ちょっと困ってしまう。
 どうして笑っているのだろう。わたし、そんなに変なことを言ったかな。そ、そりゃあ、かわいくはない、けれど。困惑しながらも拗ねてしまう。そんなわたしを、佐久早くんがぎゅっと力強く抱きしめてきた。

「そうじゃねえよ、馬鹿」

 あんまりにも楽しそうな声で言うから固まってしまう。そうじゃないって、他に何かあるの? 馬鹿正直にそんなふうに聞きそうになったけどハッとする。馬鹿って。馬鹿って言った! なんでわたしが馬鹿になるの?!
 さすがにちょっとムカついてしまった。佐久早くんの胸辺りに両手をついてぐいっと押し返す。さすがのわたしも怒るよ! そう抵抗してみるけどびくともしない。それを佐久早くんがくつくつと笑うから余計にムカついて、悔しくて。ぐいぐい押すと余計に強く抱きしめられる。嬉しいけど今日はムカつく。付き合ってはじめて佐久早くんにムカついた瞬間だった。

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