※直接的表現はありませんが、行為についての話がメインです。苦手な方はお気を付けください。
※主人公の友達であるモブが喋ります。




 営業回りの途中、ちょうど昼時だったから見かけた喫茶店に入ってみた。メニューを見るとなんだかおしゃれなものばかりで驚いたけど、こういうのが喜びそう、と思ったらいいところを見つけたと思えた。
 高校の同級生だったと大学二年のときから付き合い始めた。社会人になってからはお互い土日休みだけど、営業をしている俺の予定が合わないことも多い。一番長くて二ヶ月会えなかったことがあるけど、それでも喧嘩もせずにずっと仲良くやってこられている。これもそれも、全部が優しくて寛大だからだといつも感謝している。
 ただ一つ、にお願いしてもいいのなら、もう少し自分の話をしてほしいな、と思う。仕事の愚痴もあまり言わないし、デートで何が楽しかったとかよかったとかそういうことも言わない。言わない、というと語弊があるかもしれない。少し訂正。仕事のことも「ちょっとしんどい」くらいには言ってくれるし、デートも全部「楽しかった」と言ってくれる。でも、それ以上のことを言ってくれないから、なんというか。
 そう悩みつつ、決めたランチメニューを店員さんに伝えてから水を飲む。もう付き合いはずいぶん長いし、いくらなんでも言いづらいってことはないだろう。俺としては教えてほしいという雰囲気を出しているつもりだから比較的意見を言いやすいと思うのだけどなあ。やっぱりどのデートが一番楽しかったとかよかったとか、そういうのはぜひ教えてほしい。食べたご飯もどれが一番好きとかあれは微妙だったとか。今後の参考にしたいんだけどな。
 あと、なんというか。自分なりにの反応をしっかり見ているつもりだけど、いつも不安になるのが、まあ、あれです。夜のこと。も俺もお互いがはじめての相手だから分からないこととか戸惑うことも多かったし、俺は俺で必死だった。とにかくが嫌じゃないことだけを考えて今も努力しているつもりだけど、それでいいのだろうか、と悩んでいる。あんまり声を出さないし、ずっと目を瞑っているから顔も見てくれない。こういうことするの嫌なのかな、と思ってかなり頻度は抑えているほう、だと思う。
 一人で照れたり悩んだりしていると、仕切りと造花を挟んだ隣の席にお客さんがやってきた。どうやら女性二人組らしい。俺の席から少しだけ見える椅子に座っている女性がオフィスカジュアルな服を着ている。近くにオフィス街があったから会社のお昼休みなのだろう。

「ね、おしゃれでしょ? と一緒に来たかったんだ〜」

 ぴく、と耳が反応してしまう。って、俺の彼女と同じ名前ですね。偶然だなあ。そう一人で思っていると、相手の女性が「そうなんだ。嬉しい、ありがとね」とかわいらしい声で返したものだから、飲んでいた水を吹き出しそうになった。
 今の声。絶対にだ。俺がの声を聞き間違えるわけがない。とはいえ、俺の席かららしき女性が座っている席は立ち上がらない限り絶対に見えない。気になる。でも、気付かれたらなんか気まずい。そう思うとなぜだか息を潜めてしまう。

「というかね、聞いてほしいことがあるんだけどさ、って彼氏いるでしょ? 何くんだっけ?」
「秋紀くんね」
「そう! 秋紀くんだ! もう付き合ってどれくらいだっけ?」
「大学二年からだから、もうすぐ六年目かな」

 絶対俺の彼女ので間違いない。確定だった。こんなところで会うなんてものすごい偶然だ。の会社は確かにこの辺りだったけど、はいつも自分で作ったお弁当を持っていくと言っていたし、何度か俺も作ってもらったことがある。できるだけ節約している、と教えてくれてまた惚れ直してしまったこともよく覚えている。仕事の合間のランチくらい贅沢すればいいのに、とちょっとかわいくも思ったな。
 の同僚なのか友達なのか、とにかく仲が良いらしい女性にも彼氏がいるらしい。付き合い始めて二年ほどであることは会話を聞いていれば分かった。俺と同じ営業マンだという。そんな情報を無意識に拾い上げてしまってばつが悪くなる。完全に盗み聞きです。申し訳ない。そんなふうに内心謝っておく。

「でさ、めちゃくちゃ聞きづらいこと聞くんだけど……」
「うん? 何?」
ってさ、えっちのとき、気持ちいいって感覚、ある?」

 ぶっ、と水をほんの少し吐いてしまった。なんてこと聞くんだこの子! さすがにバレたかと思ったけど、奇跡的に二人ともこっちのことは無視しているのか気付いていないのか、特に反応してこなかった。聞こえてきたのはが「え、な、なんでそんなこと聞くの……!」と恥ずかしそうに返した声。それにほっとしながら机の水をおしぼりで拭いておく。その後に店員さんが俺が注文したものを運んできてくれる。その店員さんが他のお客に呼ばれて席を離れてから、二人の会話がまたスタートした。

「ごめん、こんなの友達に聞くのどうかなって悩んだんだけど、どうしても不安で……」
「不安?」
「彼氏とそういうことしても、一回も良くなったことがなくて……でも、彼氏が傷付くかもって思って演技しちゃっててさ」
「そうなんだ……」
「一応気持ち良くなってるように見えるから、向こうはこれでいいんだって思っちゃうじゃん? だから言い出しにくくもなっちゃってて、ずっと何にも感じないままでさ……あたしって変なのかな、って」

 耳が痛い。非常に耳が痛い。これは男が聞いたら大半のやつが耳の痛さで立ち直れなくなるやつだ。そうへこみつつも、耳の痛さと同じくらい、女の子って大変なんだな、と痛感した。下品な言い方をするけど、あんなものを体内に入れられるだけで大変な上、体の全部を見られて触られて、いろいろなリスクもある。その上で男側のことまで気を遣ってくれているんだなあ。男を代表して申し訳ない気持ちになる。いや、ちょっと主語が大きくなってしまったけど、割と本気で。
 はどうだったんだろうか。はじめてのときのことは今でも忘れられない。今よりもぎゅっと目を瞑って、唇が切れそうなくらい噛みしめていた。たぶん痛かったんだと思う。それでも一言も痛いと言わなかった。さすがに表情で分かったから俺がやめようとしたら「大丈夫」とだけ言ってくれたな。少しずつ慣れてくれればいい、と言ったときの、申し訳なさそうな顔が今でも忘れられない。
 愛なんだなあ。しみじみそう思った。とのことを思い出しても、の知り合いの女性の話を聞いても。全部愛がなきゃ絶対できない。むしろ、男側からすれば愛があっても無理かもしれない。女の人って強い。一人で勝手にそう感動してしまった。

はどうしてるのかなって、ちょっとでいいから教えてほしくて」
「わ、わたし、かあ……」
「お願い。恥ずかしいと思うんだけど、一生のお願いです、この通り」

 ぱちん、と女性が手を合わせた音。はこう言われて断れる子じゃない。きっとこの子のためなら、と素直に話すだろう。申し訳ないけど、俺も非常に気になります。絶対盗み聞きしちゃだめな内容だとは分かっているけど、申し訳ない、このまま聞かせていただきます。内心謝りを入れてから静かに食事を進めていく。

「さ、参考に、なるか分からないけど」
「うん! ありがとう!」
「……わたしも、正直、そこまで、き、気持ちいい、みたいなのは、なかった、かなあ」

 ガツン、と体中を殴られたかと思った。箸を握っていられないほどのショックと申し訳なさに襲われて、一瞬で食べているものの味がしなくなる。まずい、本気で泣くかも。今までずっと俺の欲に付き合わせていただけだったのか。痛くなかったのだろうか、嫌じゃなかったのだろうか。嫌な心臓の痛さをどうにか抑えつつ、一旦水を飲んだ。やばい、手が震えている。申し訳なさと恥ずかしさとショックで。

「わたしは演技とかそういうのできないから……たぶん彼氏からしたらつまんないだろうなあ、って、今も思っちゃうよ」

 ぴく、と手が止まる。照れくさそうに笑うの声。それに相手の女性が「そんなことないでしょ」とフォローを入れてくれた。はそれに「そうかな」とまた照れくさそうに、ちょっと、切なそうに笑って返した。

「恥ずかしいし疲れちゃうときもあるけど、でも、あの、わたしのこと、大事にしてくれてるんだなあって、分かるような触り方、というか、なんというか、そんな感じだから」
「……確かに、それは分かるかも」
「ちょっとずつだけど、気持ちいいみたいなのが分かってきた、気がするかな。優しいなあ、好きでいてくれてるんだなあ、って思うたび。声を我慢することも増えてきた、と思う」
「え、声我慢しないほうが彼氏喜ぶんじゃない?」
「恥ずかしいし、変な声って思われたら嫌だから……でも、やっぱりつまんないかな……? 飽きられないようにどう頑張ったらいいのか分からなくて」
「つまんないわけはない。飽きられることもない。それはあたしが断言する。でも、声は出してあげたほうが喜ぶと思うな〜」

 情報量が怒濤過ぎる。もう食べることを忘れて若干頭を抱えてしまっている。聞いてしまった、全部。これまでかなり気にしていたことの答えを、全部隅々聞いてしまった。もうこれは墓まで持って行くしかない。ごめん、。そう内心呟いて、罪悪感でへこんだし、それと同じくらい、に言いたいことが多すぎて、困ってしまった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 秋紀と会うの、久しぶりだなあ。最近はお互い仕事が忙しかったし、秋紀も出張や休日出勤が重なっていた。ゆっくり休んでほしくてあまりこちらからは連絡をしないようにしていた。ずっと会いたかったから、会えるの嬉しいな。そう思うとちょっと顔がニヤけそうになって、慌ててぱちんっと自分の頬を叩いた。
 土曜日の今日、秋紀は三日間の出張から帰ってくると聞いている。申し訳なさそうに「夕方からなら会える」と教えてくれた。本当は出張終わりで疲れているだろうから、休みたかったかもしれない。いつものわたしならきっと会いに来なかったと思う。でも、今日は、無性に会いたくて。秋紀に内心で謝りながら「じゃあ夕方に行ってもいい?」と言ってしまった。秋紀は優しいから断れない。「もし俺まだいなかったら合鍵使って。ごめんな」と言ってくれた。わたしもごめんね。また内心で謝ったっけ。
 秋紀の家に着いたけど、見上げた部屋の窓から明かりは見えなかった。まだ帰ってきていないみたいだ。約束の時間は五時。時計の針は四時五十分を差している。まだ電車に乗っているんだろうな、秋紀。そう思いながらマンションのエントランスに入った。
 合鍵を使って部屋に入る。秋紀の部屋はきれい、というわけではないけどちゃんと片付いている。気を遣っているのが分かるけど、ところどころに見える生活感がわたしは秋紀らしくて好きだ。ソファに掛けっぱなしになっているコート。小さく笑いながら手に取って、いつもしまっているタンスに入れておいた。
 お茶を淹れる準備をしながら、一つ息を吐く。数日前に大学時代の友達とランチを食べたときに話した内容を思い出して、一人で顔が熱くなってしまった。悩んでいた友達の力になりたかったとはいえ、恥ずかしいことを話してしまった気がする。秋紀にバレたら怒られるかもしれないから黙っておかなきゃ。そう一つ息を吐いた。
 美人でスタイルがいい、わたしの自慢の友達。その子が彼氏とのそういうことで悩んでいて、自分は変なのかもしれないと落ち込んでいた。それがとてもショックだったし、わたしもつらい気持ちになったし、何より、この子が悩んでどうにかしたいと思うくらいなら、わたしはもっと頑張らなきゃいけない、と思った。かわいいわけでもなく、スタイルがいいわけでもない。それなら、男性が求める最低限のところはどうにかしないと、つまらないと思われてしまうかもしれない。他の子のほうがいいって思われるかもしれない。そう、一瞬で余計に不安になった。
 気になっていた。秋紀は、そういうことを、毎回は求めてこない。わたしが秋紀の家に泊めてもらったときさえも、何もせずに一緒に眠るだけのことが結構ある。気を遣っているのかもしれないし、もしかしたら秋紀はそこまで欲があるタイプじゃないのかもしれない。でも、何より、わたしとの行為がつまらないからなんじゃないかと、思ってしまって。どうにかしなくちゃ、とずっと思っていた。
 頑張ろう。恥ずかしくても、頑張らないと、飽きられてしまう。今からでもまだ間に合うかもしれない。そう思って友達とあの会話をした後、持っている下着の半分くらいを買い換えた。まだ付けられるから、とずっと買い換えていなかった。わたしがうまく反応できなくても、せめてこういうところくらいは、かわいいと思ってもらえるようにしないと。今日も一応、買った中で一番お気に入りのものにしてきた。秋紀が好きそうなかわいい感じのもの。似合っているかは分からないけど、何もないよりはマシだと思いたい。でも、今日は出張帰りで疲れているだろうし、泊まる予定はない。泊まりたいって言うのが申し訳なくて言っていないままだ。だから、何もない可能性が高い。気を付けるに越したことはないから気を付けてきただけ。空振りでも構わない。
 玄関の鍵が開いた音が聞こえた。お湯が沸いたケトルを一旦置いて、慌てて玄関のほうへ小走りしてしまう。がちゃ、とドアが開く前に自分の頬を軽くつねっておく。ニヤけちゃだめ。そう自分に言い聞かせて。

「あ、ただいま。ごめん、待ってもらって」
「おかえりなさい。ううん、全然大丈夫。お疲れ様、荷物半分持つよ」
「大丈夫大丈夫。これくらい持てるから。ありがとう」

 スーツケースと紙袋がいくつか。いくらでも持つのに。わたしじゃ頼りなかったかな。頼ってもらえるようになるにはどうすればいいんだろう。そう考えながら秋紀と一緒にリビングに戻った。
 リビングで荷物を置くと、秋紀がいくつかある紙袋のうちの二つをわたしに渡してくれた。「これ、お土産」と笑って。慌てて受け取る。二つもわたしの分なんだ。なんだか申し訳ない。「ありがとう」と返したら「買いすぎたかも。持って帰るの大変になっちゃってごめんな」と苦笑いをこぼされた。嬉しい。慌ててそう伝えたけど、秋紀の表情は申し訳なさそうなままだった。
 わたしは秋紀に何かしてもらってばかりだなあ。そう反省する。秋紀の優しさに甘えてしまっているのだといつも思い知る。わたしも何か頑張らないと。本当に、飽きられてしまう、かもしれない。そう思ったら慌てて立ち上がってしまう。お茶を淹れようとしていたところだった。キッチンのほうに戻ってさっき一旦置いたケトルを持ち上げる。お茶っ葉を入れてあるポットにお湯を注いでいると、秋紀が横から「コップとコースター、持ってく」と言って持って行ってくれた。お湯を沸かしている間にわたしが持って行っておけばよかった。そう反省しながら「ごめん、ありがとう」と秋紀に伝えた。
 お茶が入ったポットを持っていって、秋紀の隣に座る。秋紀が「なんか久しぶりだな」と照れくさそうに言った。お互い忙しかったもんね、と言うと秋紀に謝られてしまって、慌ててしまう。プレッシャーをかけたように思われたかも。かといって、全然大丈夫、は違うし。なんと返せばいいかな。悩んでいる間に秋紀が「ゆっくり時間取って、旅行とか行きたいよな」と話を進めてくれた。
 お互いの近況やいろんな話をしていると、あっという間に時間が経っていく。二人で夕飯を作って、二人で食べて、二人で過ごす。この時間が好きだなあ。そう思えば思うほど、頑張らなきゃ、という気持ちが強くなった。

「あのさ」
「うん?」
が大丈夫なら今日泊まっていってほしいな〜、って思ってるんだけど」
「えっ、大丈夫? 出張から帰ってきたばっかりなのに……」
「ん? 何が?」
「疲れてないのかなって」
「疲れてるからいてほしいんです、秋紀くんは」

 おどけてそう笑うと、わたしのおでこを人差し指でつんとつつく。そう言われるとちょっと照れてしまう。視線を逸らしながら「じゃあ、泊まります」と返して、ひたすらニヤけそうになるのを堪えた。嬉しい。疲れているからいてほしい、なんて言ってくれた。わたしと同じだ。嬉しいなあ。何度もそう心の中で呟いてしまう。
 わたしが先にお風呂を借りて、その後に秋紀が入った。秋紀の服、いつ着ても大きい。秋紀からしたらわたしは小さく見えているんだろうな、といつも実感する。それに、秋紀に抱きしめられているみたいに思えて、落ち着く。本人が目の前にいるのだけど、なかなか抱きしめてほしいと言えない。だから、服を借りるのが好き。一人でそう照れて笑ってしまう。
 秋紀に名前を呼ばれた。顔を秋紀に向けると、あ、と思った。秋紀の瞳が熱っぽい。もうそれを見るだけで、何をしようとしているのかが分かる。秋紀がゆっくりこちらに手を伸ばしてくると、わたしの髪に優しく触れた。優しい。好き。その気持ちが溢れそうになって、ハッとした。
 違う、そうじゃなくて、頑張らなくちゃ。つまらないって思われたくない。いつもいつも、秋紀に何もできないままな自分を変えたい。声を出したほうが喜ぶと友達が教えてくれた。だから、我慢しないようにしないと。でも、変な声って思われたら嫌だから、それも気を付けないと。秋紀はわたしに優しくて、大事にしてくれるのだから。わたしも何か返さないと。そう思うと少し、呼吸が止まって、体が硬くなったのが自分でも分かった。
 顔を近付けようとしてきた秋紀が、ぴたりと動きを止める。じっとわたしのことを見つめる瞳に吸い込まれそうになる。好き。大好き。だから、頑張る。うまくできないかもしれない、けれど。うまくできなかったらどうなるのだろう。失敗したら、また次のチャンスは、あるのかな。秋紀はまだわたしのことを好きでいてくれるかな。つまらなくても、うまくできなくても。そんなことにならないように頑張らなきゃ。
 そっと秋紀の手が離れた。わたしの頬を優しく撫でると「そろそろ寝る?」と柔らかに笑う。あ、れ? 熱っぽい瞳はいつもの優しい瞳に変わってしまった。さっきまでの雰囲気もなくなって、秋紀は「明日どっか行く?」と話を変えてしまう。もうその気はなくなった、ということかな。
 きゅっと自分の手を握りしめる。薄ら手に汗が滲んでいた。だって、そんなにそういう欲がないタイプだったとしても、かなり久しぶりに会ったんだから今日は、となると、思う。男の人のそういうことはよく分からないけれど、これまでの秋紀とのそういうことの頻度から見ても、泊まるとなったときからするんだろうなと思っていたのに。やっぱり、つまらないの、かな。疲れるだけならしないほうがいいって思われたのかな。そう思ったら、焦りと不安が体中を巡って、なんだか体が冷えてきてしまう。

「あの」
「あ、まだ眠くないなら映画とか観る?」
「そうじゃなくて、あの、秋紀」
「うん?」
「……えっと、あの」
「うん。どうした?」

 してほしい、の一言も言えない。そんな自分が情けない。嫌って言われたらどうしよう。そんな不安がぐるぐる回ると、うまく言葉が出てこなくなった。
 でも、言わなきゃ。このままではいけない。男の人はそういうことをするのが好きな人が大半だって聞いたことがある。だから、他の子とされたら、一瞬でわたしは敵わなくなってしまう。そんなの、絶対に嫌だ。だから、頑張るんだ。そう決めたのだから。

「……会えなかったのもあるけど最近、え、えっち、しなくなったよね」
「えっ、あ、は、はい……」
「わたし全然反応とかできなくて、つ、つまらないかも、しれないけど」
「いや、俺は、」
「が、頑張るから……それに、言ってくれれば何でもするから……嫌じゃなかったらでいいから、抱いて、ください」

 言えた。恥ずかしくて泣きそうだけど、ちゃんと言えた。ぎゅっと握りしめた手が汗で大変なことになっている。秋紀に握られる前にどうにかしなくちゃ。気持ち悪いって思われたら大変だ。そう思ってこっそり袖を握りこんで汗を拭いておく。
 秋紀から何も言葉が返ってこない。やっぱり嫌かな。面倒だったかな。どきりと心臓が嫌な音を立てる。恐る恐る顔を上げて、秋紀の顔をまっすぐに見て、呼吸を忘れてしまった。

「え、あ、秋紀? どうしたの? どうして泣くの?」

 慌ててしまう。秋紀は服の袖で涙を軽く拭うと、鼻をすすって俯いた。どうしよう。どうして泣いているのかが分からない。泣かせてしまったのはわたし、だと思うのだけど。
 秋紀の顔を覗き込もうと少し近付いたら、あっという間に抱き寄せられた。びっくりしすぎて無言になってしまうわたしと黙ったままぎゅうぎゅう強く抱きしめてくる秋紀。へんてこな静寂に包まれた空間は、なんだか、くすぐったいような。やっぱりへんてこな感覚がした。

「好きだよ。のことが、本当に好きだよ」
「ありがとう……急にどうしたの?」
「大好きだから、そんなこと、言うなよ」

 腕の力が強すぎて、少し痛いくらいだった。でも、秋紀があまりにも悲しい声をしているから何も言えない。そっと腕を回して抱きしめ返す。秋紀の力には敵いっこない弱い力。秋紀が本気を出せばわたしのことなんか力ずくでどうにでもできるだろう。好き勝手、やりたい放題。けれど、秋紀は絶対にそんなことはしない。わざとわたしに力負けしたように振る舞う人だ。だから、好きになった。そういう優しいところが何よりも好き、だけど、今はほんの少しだけそれが気がかりにはなっている。我慢してくれているのではないか。言いたいことややりたいことを抑え込んでいるのではないか。そんなふうに不安だった。
 わたしの体は秋紀と比べたら小さくて、弱っちくて、きっとできることも少ない。いつも秋紀に与えてもらってばかりだから、わたしも秋紀の役に立ちたいのに上手くいかない。人としても彼女としても。そんなネガティブな気持ちがいつも隣にいて、ひっそりとわたしに囁くのだ。このままじゃ飽きられて振られてしまうかもしれないよ、と。
 そんなこと、言うなよ。秋紀が言った言葉を頭の中で繰り返して、ハテナが浮かぶ。そんなことってどれのことだろう。わたしは秋紀の役に立てればいいと思って言葉を出したつもりだった。そして、おこがましくも自分がしてほしいことをそこにねじ込んだ。ただそれだけのことだった、はず、だけれど。

「ご、ごめんね? 嫌だったらいいの、変なこと言ってごめんなさい」
「いやそうじゃなくて」

 秋紀の語気が少し強くなった。滅多に聞かないものだ。少し苛立っているときのもの。わたしに向けられた記憶はない。秋紀のことを怒らせたのだろうか。面倒なこと言ってしまったからだろうか。よく、分からない。頭が鈍く回転しいていて、情けないけれどうまく答えが出せなかった。

「無理に頑張らなくていいし、嫌なことは嫌って言ってほしいし、何より、つまらないとか、思うわけないだろ」

 ぐしゃぐしゃの声だった。ちょっとびっくりしてしまったけれど、今の言葉で秋紀が何を言っていたのか、なんとなく分かった気がした。
 そうだったのだ。そう。わたしはおかしな勘違いをしていた。えっちのときの反応が悪いからつまらない。顔がかわいくないから別のところで頑張らなければいけない。何か役に立たなければ必要としてくれない。全部、秋紀が思うわけがないことだった。えっちのときの反応がどうとか、顔がどうとか、どういうメリットがあるかとか、そんな理由で秋紀は人を好きにならない。そのことはわたしが一番よく知っているはずだったのに。どうしてだろう。いつしか、見失ってしまっていた。

「好きでいてくれるだけでいいから、そんなふうに言うなよ」

 ぐず、と鼻をすすってから数秒固まる。それからがばっと顔を上げた秋紀がわたしの肩を両手で掴んで、じっと顔を見つめてきた。声と同じで顔もぐしゃぐしゃになっている。赤くなった目元が不思議と愛しく思えた。思わず手を伸ばしたくなるくらい、かわいく見えてしまった。

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