※夜久さんがロシアに渡った時期を捏造しています。
※このお話の中で夜久さんは「高卒でVリーグ、その後ロシア挑戦」という経歴です。




 新年を迎えて早五日。わたしはせっせとみかんを食べながら、大して面白くもないテレビを観ている。こたつに入るとみかんを食べる以外のことをしたくなくなる。それは、熱血スポーツ人間も同じようで。

「俺にもみかん」
「ん」

 伸びてきた衛輔の右手に、剥いたばかりのみかんを丸々一つくれてやる。衛輔は「んー」とだけ言って、右手を引っ込めてむしゃむしゃと食べ始めた。んー、じゃない。剥いてくれてどうもありがとうございます、だろうが。そう思ったけれど言わない。別に、衛輔のためにみかんを剥くことは苦ではないからだ。
 音駒高校で出会った衛輔とは五年目を迎えた。何度か喧嘩をして別れたこともあったけど、基本的には男気のある衛輔のおかげですぐによりを戻していた。まあ、ひどいときにはわたしが一方的に連絡を絶って数ヶ月連絡さえ取らなかったこともあるけれど。それでも最後には衛輔が強引とも思えるほどの力強さで手を掴み直してくれた。今日まで、いろんなことがあった。でも今思えば、どれもこれも衛輔相手じゃなきゃ言わなかった文句だったり、思わなかった不満だったりする。それくらいわたしは衛輔を信頼していて、まあ、好きだったんだと思う。
 衛輔には言ったことがないけれど、初恋だった。自分で言うのもなんだけど、わたしは疑り深くてなかなか人を信用できない慎重派だ。この人は信頼できる、この人はできない、というのを割とすぐ見極められると自負している。そんなわたしが、理由はよく分からないけれど、衛輔のことは一瞬で信頼できる人だと思った。それだけで興味が湧いたし、この人と話したいと思った。これは一体何という感情なのか。そう思ったときに、即するものが恋≠オかなくて。その言葉はすんなりわたしの中で落ち着き、生まれて初めての恋、つまり初恋をした。
 そこからいろいろなことがありつつ、わたしと衛輔は仲良くなった。そうして二年生の夏に恋人としてお付き合いをはじめたのだ。そこからもう五年。わたしも衛輔も二十二歳になる。人生って速い。つくづくそう思う。
 高校を卒業してからプロバレーボール選手として活躍している衛輔を、どこか遠い存在だと思っていたことは否めない。それでも衛輔が「そんなこと関係ない」とネガティブなわたしを蹴り飛ばしてくれるおかげで、今日まで、それなりに幸せに楽しく過ごしてきた。いろいろなことは割愛するけれど。
 そんな平凡なようであまりない幸せな日々は、来週末にはもう手元にない。衛輔は所属していたチームを退団し、海外に挑戦することになったのだ。移籍先はロシアのチーム。それを聞かされたのは三ヶ月前。いつ日本を発つのかも教えてもらっていた。「へえ、すごいじゃん。頑張ってね」とそのときは、なんだか夢の中にいるみたいに言った記憶がある。でも、こうして日に日に、あれは夢ではなかったのか、と思うと、少し。

、お前それ何個目?」
「えー、そんなの数えてないよ」
「去年指がみかん色になったって騒いでただろ。程々にしとけよ」

 わたしが剥いたみかんを頬張りながら言わないで。そんなふうに文句をつけながらこたつの中で足を蹴ってやる。衛輔がそれに応戦しつつ「うるさい」と楽しそうに笑った。衛輔なんかみかんの食べ過ぎでみかん星人になっちゃえ。そう言ったわたしに衛輔は余計に笑った。
 ロシアって遠いんだね。知らなかった。この前インターネットでロシアまで行く経路を調べてみたら、思っていたより遠かったしお金もかかるものだから驚いてしまった。地図上で見ると別に遠くないじゃん、とか思っていた自分を殴りたい。だからわたしは馬鹿だって衛輔に馬鹿にされるのだ。自分でそう思い知った。そりゃそうだ。海外なんだから。遠いに決まっている。
 別に、行かないで、って言いたいわけじゃない。衛輔の人生は衛輔のものだ。大好きなバレーボール、大事なバレーボールを好きな場所で好きなときにやったほうがいいに決まっている。別にわたしも連れていってほしいとかそういうわけでもない。わたしはまだ大学生だ。社会人でお金をちゃんと持っているなら違ったかもしれないけれど、社会人経験もないのに異国に行くなんて現実的じゃない。衛輔はしっかり者だ。そんなことはわたしよりちゃんと分かっているし、わたしよりも現実を見て物事を判断しているに決まっている。
 わたしはただ、寂しいね、って言いたいだけだ。寂しいよ、当たり前だ。だって、衛輔が遠くに行ってしまうのだ。好きなのに。彼氏なのに。明日会いたいと言って会える距離にはいない。そんな日々を送ることになるのだ。これを寂しくないと言える人はどれくらいいるのだろう。滅多にいないとわたしは思う。だから、文句も言わずに衛輔のみかんを剥き続けているのだ。

「……ロシアってみかんあんのかな」
「えー、どうなんだろ。ボルシチに入ってないの?」
「入ってないだろ普通に……」

 衛輔が残っているみかんを一口で食べてからスマホを手に取った。ぽちぽちと何かを打ち込んでしばらく画面を見てから「みかんあるわ」と呟く。あるんかい。よかったじゃん。こたつはわたしがプレゼントしてあげますよ、空輸で。そんなふうに笑ったら「送料やばそう」と衛輔も笑った。いいよ、やばくても。バイト増やすから。そう呟いたわたしに衛輔は「ん」とだけ返してくる。ん、じゃないわ。そこはありがとうでしょうが。まあ、そんなことは言わないけれど。

「言葉は大丈夫なの?」
「結構勉強した。ゆっくりならそれなりにって感じ」
「へえ、すごいじゃん」
「あとはあっちで覚えるしかない。基本バレー関連のことばっかり勉強したから」
「おーい、日常会話優先でしょうがそこはー」
「身振り手振りでどうにかする」
「海外舐めないでくださーい」

 けらけら笑ってしまう。そういうところ、やっぱり変わらない。衛輔は衛輔だ。バレー馬鹿め。普通は日常会話からでしょうよ。バレー関連のこと優先って。買いたい物を買うときどうするの。道に迷ったらどうするの。なんでわたしが心配しなきゃいけないのさ。ぽつりと呟いたそれに衛輔はまた「ん」とだけ言った。さっきからその、ん、はなんだ。衛輔。ちゃんと喋れ。
 衛輔は普段男気があって隠し事はしないタイプだし、バシッと何でもかんでも口にする人だ。でも、それがひとたび、弱音っぽいことになると、話は変わる。どんなに追い付けられても、どんなにしんどくても、それを人にはあまり言わない。全部終わってどうにかなってから言うのだ。あのときはちょっと大変だったけどな、みたいに。そういう人だから、寂しいとか嫌だとかつらいとか、そういうことももちろん言わない。言わないけれど態度に少しだけ出てしまう。わたしはそれをよく、知っているつもりだ。だから、衛輔がさっきから言う「ん」の一文字に、文句は言わない。
 わたしはネガティブなことや弱音は口に出してしまうほうだ。ちょっとしたことでも挫けるし、嫌になるし、テンションが下がる。とりあえず口に出してすっきりするタイプ。衛輔もそれを分かってくれている。付き合い始めた当初はわたしの弱音に対して、こうしたほうがいいとかそれはお前が良くないとか、そういうアドバイスをしてきていた。でも、付き合っていくうちにわたしの性格が分かったらしい。今ではわたしのネガティブ発言にはただただ肯定してウンウン聞くだけになっている。まあ、本当にわたしが悪いことにははっきり言ってくるけれど。だから、わたしは今、弱音は言わない。それを肯定するのも、はっきり否定するのも、今の衛輔には酷と分かっているからだ。

「バレー部の人には会わないの? 空港まで見送りとか来てくれそうだけど」
「来週飲み会ある。あと、空港までは来んなって言ってある」
「えー、なんで。せっかくだから見送ってもらいなよ」
「家族と彼女に見送ってもらうからいいって言っといた。何するにも気まずいだろ、友達いると」
「いや、何するつもりなの」
「別れのキスとか」
「家族の前でも気まずいでしょ、それ」

 お互い、変なところで遠慮がちになる。それは高校生のときから変わらない。普段はギャアギャア言いたいことを言い合うくせに、大事なところでは弱腰になってしまう。まあ、要するに、似た者同士なのだ。わたしと衛輔は。元々は似ているところなんてなかったのに、気付けば性格が似てきている。不思議だな、と思う。

「ロシアってめちゃくちゃ寒いんでしょ? 大丈夫なの〜?」
「筋トレしたらどうにかなる」
「その脳筋の考え方やめたほうがいいよ、本当に。かわいい顔してるのにもったいない」
「おい、かわいいって言うな」

 げしっ、と脚を蹴られた。だって本当のことじゃん。衛輔は目がくりくりしてて丸顔で、誰がどう見てもかわいい顔だよ。はっきりそう言ったらまた蹴ってきた。痛いってば。蹴られても残念ながら、わたしはかわいい衛輔の顔が好きなので永遠に言い続けます。永遠にね。何があっても。そうこたつに寝そべりながら言ったら「永遠に蹴ってやる」と物騒な返答があった。できるもんならやってみろ。そう笑ったら、衛輔はほんの少しだけ、ほっとしたような顔をした。なにその顔。変なの。そう知らんふりしてやった。
 あ、死んだ。そう思った。今の衛輔の顔を見た瞬間、わたしが抱いている衛輔への感情が、弾け飛んだというか、貫かれたというか、何というか。とんでもない勢いで引き裂かれてきれいに死んだ。そんな気がした。
 いや、死んだって。思わず自分でツッコミを入れてしまう。あまりにもネガティブすぎる言い方だった。訂正しよう。死んだ、というか、わたしが抱いていた衛輔への感情は、高校生のときから変わらず初恋≠ニいう要素が強かった。いつまでも冷たいソーダ水みたいにパチパチとしていて、爽やかで、無鉄砲で、無邪気で。衛輔と一緒にいると落ち着くというよりは楽しくて、笑ってしまって仕方がなかった。初恋の相手だから。
 でも、今、衛輔が内に秘めていた不安を一瞬、ほっとした顔をしたことで表に出してしまったその瞬間。わたしはこの人を、心から愛している、と思った。恋ではなく、初恋でもなく。愛している。そう思った。恋から愛に成る、とよく言う。けれど、わたしはそうじゃなかった。恋からじわじわ愛になったわけじゃなくて、恋が突然愛に押し潰されたように、愛がその居場所を奪い取ったように、突然初恋が愛になったのだ。
 うーん。言葉って難しい。何一つ伝わった気がしない。一人でそう苦笑いをこぼしていると、衛輔が「なんだよ」と頭をつついてきた。わたしは今日本語と格闘している。放っておいて。そう手を払ったら「は?」と間抜けな声で言われてしまった。

「なんだよ、言ってみろよ」
「いい。今は一人で噛みしめたい」
「はあ?」

 わけが分からん、という顔をされてしまった。それを笑ってやると、衛輔は余計に首を傾げて「何? 大丈夫か?」と心配してきた。大丈夫。衛輔は黙ってみかんでも食べてて。そう言いながらみかんを剥いてやる。あーあ、今年も指がみかん色になっちゃった。みかん好きだしいいけど。
 衛輔はもうすぐで日本を発つ。それを、正直、不安に思っていた。わたしのことを面倒に思ったりしないのかな、って。でも、口にしてしまうと、衛輔はしこりを残したまま日本を発つことになってしまう。それが嫌で言わないように頑張っていた。本当は不安だし寂しいし、一番言ってはいけない、行ってほしくない、という言葉を言ってしまいそうだった。
 今だけかもしれないけれど、きっと大丈夫だな、と思えた。衛輔に初恋をしているわたしなら耐えられなかっただろう。でも、わたしは衛輔を愛しているから、きっと大丈夫。うまく伝わっていないかもしれないけれど、心からそう思えたのだ。


初恋を劈く
オレンジ色 × 夜久衛輔

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