二月下旬。賢二郎が退寮して帰ってきたと聞き、わたしはちょっとうきうきして白布家にやってきた。高校三年間を学生寮で過ごした賢二郎とはなかなか会えなかった。ただの幼馴染とはいえ、子どもの頃からずっと一緒だった人がいないというのは寂しかった。賢二郎はそんなこと、これっぽっちも思っていなかっただろうけれど。
 白布家のチャイムを鳴らすと、すぐにおばちゃんが出てくれて「どうぞ〜」と出迎えてくれた。賢二郎は部屋で荷物を片付けているらしい。「ついでに飲み物持って行ってくれる?」と頼まれて、賢二郎の分も飲み物を持って二階へ。部屋の前に立って「賢二郎ー開けてー」と声をかけたら、数秒後にドアが開いた。

「何しに来たんだよ」
「冷たくない? 久しぶりに顔見に来たんじゃん」

 飲み物を渡しつつ勝手に部屋に入る。賢二郎はため息を吐きながら「忙しいから構ってる暇ないからな」と宣言して、段ボールに入っている服をどんどんタンスにしまう作業を再開した。別に構ってほしくて来たわけじゃない。ちょっと顔を見に来ただけだし。内心そんなふうにぶすくれてしまう。適当にその辺に座ってから、片付けを続ける賢二郎の背中を見つめた。
 幼稚園、小学校、中学校。賢二郎と一緒に過ごした時間は、まあ長いと言われるものだと思う。たくさん喧嘩もしたしたくさん馬鹿なこともした。でも、全部わたしにとっては楽しかった思い出だ。賢二郎がどうかは分からないけれど。だから、正直なところ賢二郎が白鳥沢学園高校を志望校にしたと聞いたときは衝撃だった。白鳥沢といえばわたしたちが住んでいる地域からは結構離れているし、詳しく聞けば賢二郎はバレー部に入るつもりだと言った。白鳥沢の運動部は基本的に全寮制だ。余程特殊な事情がない限りはレギュラーだろうが控えだろうが学生寮に入る。つまり、なかなか賢二郎と会えなくなるというわけで。
 賢二郎は頭が良かった。成績も学年で上位だったし、偏差値の高い高校を狙うのはなんとなく予想していた。でも、まさか、白鳥沢でバレーをするなんて思わなくて。中学のバレー部にいたときの賢二郎は確かに楽しそうだった。勝てば嬉しそうだったし負ければ悔しそうだった。でも、全国を狙うような強豪チームに、自分から苦労をして飛び込むタイプだと、わたしは思っていなくて。何が賢二郎をそこまで惹き付けたのか。そう少し気になっていたら、賢二郎が教えてくれたのだ。一緒にバレーをしたい人がいると。
 本当に自分勝手だし、本当に自惚れているのは承知で言う。わたしは賢二郎から「一緒にバレーをしたい人がいる」と聞いたとき、真っ先に「わたし負けたんだ」とショックだった。本当に恥ずかしいことを言うのだけど。わたしとなかなか会えなくなっちゃうよ。いいの? そんなふうに悔しかった。そこでわたしははじめて、自分が賢二郎のことが好きだったのだと気が付いた。恥ずかしい話だけれど。本当に。だって子どものころからずっと一緒の幼馴染だ。恋愛感情がなくても寂しいと思っただろうし、そんな簡単に会えなくなっちゃうんだってショックで。しばらく賢二郎のことを無視したっけ、受験シーズン。そんな恥ずかしいことを思い出していると、賢二郎がこっちを振り返った。

「何?」
「いや……静かで気持ち悪いなと思っただけ」
「ひどくない?」

 眉間にしわを寄せて「何でもいいけど寝るなよ」と言ってまた作業に戻る。なんだかんだで構ってくれる気、あったんじゃん。素直じゃないね、相変わらず。一人でそう笑ってしまう。
 賢二郎の近くに置かれている段ボール。開いているそれをそっと覗き込むと、ジャージのようなものが見えた。「それ見てもいい?」と声をかけると賢二郎が「どれ?」と不思議そうに振り返る。隣に置いてある段ボールを指差すと「いいけど面白いものなんか入ってないぞ」と言った。許可をもらったので遠慮なく。段ボールを開けて中を見てみると、部活で使っていたらしい練習着やジャージ、ユニフォームが出てきた。

「すご、賢二郎って本当に白鳥沢バレー部だったんだね〜」
「本当も何もお前試合観に来てただろ」
「だってコートの中にいると別人みたいだったもん。あんまり実感ないままだよ」

 紫色のユニフォーム。それを中から出してじっと見てしまう。中学三年間の記憶のほうがわたしにとっては濃い記憶だ。紫色かあ。まあ、似合っていたけれどわたしにとっては少し違和感があるかも。そんな失礼なことを考えてしまう。
 白鳥沢学園は賢二郎が二年生のときのインターハイを最後に、全国大会には出場できなかった。賢二郎が三年生になってからは、予選大会の決勝さえ行けないこともあった。一つ上のすごい先輩が卒業してしまったから、と周りの人たちがこそこそしていたのを知っている。白鳥沢の時代は終わった、なんて悪態をつく人がいたことも、知っている。白鳥沢が強豪校であることに変わりはない。でも、絶対王者と言われる時代は終わってしまった。そんなふうに、勝手に言われていたことも、知っている。
 賢二郎はどう思っていたのだろう。あまり自分の気持ちを言葉にしない人だ。わたしは賢二郎のことを知っているようで知らない。子どものころからそうだった。賢二郎が今何を考えていて、これからどうしたいのか。これまで何が楽しくて、何が悲しくて、何がつまらなくて、何が嫌だったのか。そういうものを全部、よく知らない。
 寮では自分の洗濯物は自分で洗濯するのがルールだと聞いていた。掃除とか洗濯とか、賢二郎にできるのかな。そんなふうにからかったっけ。賢二郎は「うるさい。適当にやる」と言っていた。でも、わたしが今見ているユニフォームは、誰がどう見たって、きれいでしわ一つない。汚れが残ってることもない。きれいに洗濯されて、きれいにしわを伸ばされて、きれいに畳まれていた。練習着と思われるTシャツはよれていたり、少し汚れが残っているのに。
 このしわ一つないユニフォーム一着で、わたしは、賢二郎にとってこれがどれほど大切なのかが分かってしまう。だって、賢二郎は実は大雑把な人だ。共同で使うものはきれいに使うけど、自分だけが使うものの扱いは雑なのだ。ノートはきれいに書かないし、中学のときは学ランをくしゃくしゃに置いていたし、おばさんに持たされたハンカチは三日間ポケットに入れっぱなしだった。そういう大雑把なところがある人なのだ。だから、自分で洗濯をすることになったら服は全部よれよれでしわだらけ、きれいに畳むわけがない。そんなふうに、思っていた。
 大事だったんだな、賢二郎にとって。これは。ぽつりとそう思ったら、ほんの一瞬だけ呼吸が止まってしまった。

「ねえねえ、これ一回着てみてよ」
「何でだよ……嫌に決まってんだろ……」

 心底嫌そうな顔をされてしまった。「それに何回も見てるだろ」と呆れ声で言われて、笑ってしまう。そうだね。何回も見てるね。試合の応援に何度も行ったから当たり前だ。「なんとなく言ってみただけ」とユニフォームを畳みながら言うわたしを、賢二郎は怪訝そうな顔をして見ていた。

「賢二郎さ、三年間で何が一番楽しかった?」
「はあ?」
「部活? 勉強? 寮生活?」
「楽しいとかそういうんじゃないだろ、全部」

 また呆れ顔をされてしまった。なんだ、楽しくなかったのか。好きなことができて楽しい三年間だった、なんて賢二郎が言ったらわたしも嬉しかったのに。
 ユニフォームをまた見てしまう。ほしかったものに違いない。きっと、賢二郎にとって。でも、賢二郎の手元に残っているのは栄光じゃなくて、後悔だったりするのかな。あのときああすればよかった、とか、そういう。賢二郎らしくないけれど。
 賢二郎の背中がなんだかしょぼくれているように見えてしまう。わたしが勝手にそう見ているだけなのだけれど。それでも、なんだかどうしても気になって。

「ねえねえ、賢二郎」
「なんだよ。というか暇ならちょっとは手伝ってやろうとか思わないのかよ」
「わたし、賢二郎のこと大好きだよ」

 振り返った賢二郎が、なんとも言えない顔をしていた。何言ってんだコイツ、という表情と、なんで今言ったんだコイツ、という表情。言いたいことがたくさんある顔をしているけれど、賢二郎の口から出てきたのは「は?」の一言だった。ひどくない?
 段ボールに詰まっている名残。一つ一つ引っ張り出してみると、どこかしこにも賢二郎の三年間が残っているように見えた。その一つ一つをわたしは知らない。知らないけれど、全部、知っているかのような感覚に陥る。とても大事なものだったのだろうとなぜだか思える。それが妙に胸を痛めるものだから困ってしまう。
 賢二郎が三年間着た制服。賢二郎が大事にしていたユニフォーム。賢二郎がもしかしたら涙を拭ったことがあるかもしれないタオル。全部、全部、愛しくてたまらないね。誰にでもなくそう同意を求めてしまう。

「だから、全部大好き」

 ここにあるものすべて、わたしが好きでたまらないものだ。大好き。大好き。大好きだよ。わたしは大事なシーンを観られなかったかもしれない。一生知ることはできないかもしれない。それでも、わたしは、賢二郎の三年間のすべてが、大好きだよ。だって確かに賢二郎が歩んだ時間なのだから。

「…………変なもんでも食べたか?」
「ひどーい!」
「何でもいいけど、心臓に悪い。やめろ馬鹿」

 本当なのに。相手にされなかった。ちょっと凹んでいると、わたしが見ていたユニフォームを賢二郎が掴んだ。それをタンスに仕舞おうとした指が、ほんの少しだけ、撫でるように動いた。輪郭をなぞるように、慈しむように。ほんの一瞬だ。けれど、その指先の動きが、強烈に焼き付いてしまった。


ダーリン泣かないで
紫色 × 白布賢二郎

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